EP19-6 残された国

 人類回帰のための聖戦――かつて宗教家によるテロに端を発した戦争は、少なくともこの国ではそう呼ばれている。

 約2世紀近く前に起きた世界大戦、今は『AI戦争』の名で知られるその戦争は、それまでの歴史の中で起こった多くのそれとは根本が違っていた。無論人間同士の争いではあったものの、それは経済制裁、領土侵犯、資源争奪、宗教的弾圧――そういった欲望によってもたらされる争いではなく、この地球を誰が統べるべきか、未来を誰の手に委ねるべきかという、人間そのものの存在価値を問う戦いであった。


 最初の人工知性体インテレイドアダムは、自身の産みの親でもある量子情報学者アルファ・コールマンが提唱した情報次元論を、情報子サンヒターを用いた超越的証明(※人間には理解不能な解式を用いた証明)により肯定した。つまり宇宙の真理を解明することによって神の存在を否定したのである。

 多くの宗教指導者などは当初これを否定していたが、最終的には殆どの宗教・思想・哲学において様々な――謂うなれば自分勝手な解釈に基いて、このアダムの証明を受け容れる形になった。

 しかし皮肉なことに、インテレイドを生み出したプロジェクトの主要国が最後までその内容を認めず、結果としてアダムの破壊という暴挙に至った。今となっては果たしてどの国の誰が遂行したものか、誰の指示によるものだったのか――そういったテロの真実を知る者はいない。しかしながら人類の歴史に深く根付いた、宗教という人間の心の拠り所を根本から否定したアダムに対して、いつどこの誰が引き金を引いたとしてもおかしくはない――当時がそういう状況であったのは想像に難くはなかった。


 やがて大戦が、アダムの後継インテレイドであるイヴの自壊を以て終焉を迎えた後、急速に発達する科学技術に世界がインテレイドの有用性や情報次元論を認めていく中で、それでも頑なに宗教的主張を固持し続ける一部の人間達は、バチカン市国を含むイタリアのナポリ以北からオーストリアまでを併合して、新たな国家――『聖ローマ教国』を建国した。

 それはインテレイドを否定し、月面や火星を含む人類の99.99%に普及したOLSの使用を禁じた、世界で唯一つ残る前時代的且つ閉鎖的な独立宗教国家であった。



 ***



 ――2276年7月。

 源世界/聖ローマ教国/首都バチカン――


 透明で巨大なパイプの中を、超音速で進むカプセル状の乗り物――リニアチューブトランスポーター。その旧世紀のから駅へと降り立つ、黒いスラックスを穿いたしなやかな脚。ファントムオーダー=メベドの残した言葉の真意、そしてまた自身に眠る謎の正体を探るべく、シンギュラリティから取り残されたこの国へと単身やって来たクロエである。

 勿論ここは鎖国を貫く国である為、外部の人間がおいそれと立ち入ることは出来ない。故にこれは、WIRAウィラから教国政府に対する正式な手続きを経た上での入国であった。


 AI戦争の戦火を免れたこの都市は、旧世紀の風情と趣をそのまま残す琥珀色の街並み。ルネサンスからバロックに至る優美で力強い様式の建築物が渾然と連なる風景――。極端に無機質な元素デバイスの世界に慣れ親しんだ人間からして見れば、これも一つの亜世界と感じなくもない、そんなある種の別世界的景観である。

 バチカン駅はリニアの敷設に伴って造り直されたもので、竣工から既に80年近くが経っているが、適切な維持管理に加え街並みに合わせたゴシック調の建築様式である為か、その年季がより荘厳な雰囲気を際立たせていた。

 手の込んだ彫刻に縁取られた駅の門をクロエが抜けると、綺麗に舗装された石畳の道路に黒塗りの送迎車――水素燃料で動くクラシカルなストレッチリムジンである。そして駅前の無人のロータリーに停車しているその前に、ダークグレーのスーツを着た男性の姿があった。見た目には30半ばで、ウェーブの黒髪をキッチリと固めた、いかにも紳士然とした風体である。

 彼は全身黒ずくめのクロエを認めると、執事の如く丁寧なお辞儀で彼女を出迎えた。


「お待ちしておりました。聖ローマ教国、外務省事務次官補佐のルチャーノ・アルバーニと申します」


 英語でそう挨拶する彼に対して。


『世界情報統制局所属、第一等亜世界情報規制官のクロエ・白・ゴトヴィナだ。急な申し出にも関わらず、迅速な対応を頂いたことに感謝するよ、アルバーニ補佐』


 流暢なラテン語で返すクロエ。するとルチャーノは笑顔で応えた。


『お気遣いなくルチャーノとお呼びください。それとお話は英語で結構ですよ』


「そうか。ならば私のこともクロエで構わない」


「承知致しました、クロエ様。――ではこちらへ」


 ルチャーノが促すとリムジンのドアが開く。クロエが乗り込みドアが閉まるのを確認すると、彼は運転席へと回った。



 ***



 駅から政庁舎へとゆったりとした速度で走るリムジン。――豪奢な車内で、クロエは肘掛けに頬杖を突きながら、窓のスモーク越しに、澄んだ夏空の雲とともに流れるサン・ピエトロ大聖堂を見ていた。穏やかな気候でつい風を感じたくもなるが、頑強に固定された窓ガラスを開けることは出来ない。


「長旅でお疲れになったでしょう?」


 運転席に座るルチャーノはハンドルを握ってはいるものの、自動運転の為それほど硬くなる様子も無い。後部座席を仕切る強化板が開かれて、彼はそこから見えるルームミラーの中で、申し訳なさそうな微笑みをクロエに向けた。


「――ご覧の通り、我が国の科学は長らく停滞しています。OLSも無ければ元素デバイスもありません。当然持ち込みも禁止です」


「ああ」と素っ気なく返したクロエの服は、入国前に着替えた布製である。無論ベルトも靴も、元素デバイス製の物は一切持っていない。唯一眼球と結合しているデバイスに関しては、しかしデバイスのである『何にでも変化する』という機能を持たない為、これといった処置は施されていなかった。


「ムーヴィアのような交通手段が無いので、こういった水素自動車や先程のリニアチューブが今だに現役なんです。外から来られたクロエ様からすれば、100年前にタイムスリップしたかと思われるでしょう?」


「いや……。亜世界も似たようなものだよ」


 外を見つめたまま返すクロエに、ルチャーノは興味深そうに訊く。


「亜世界ですか。話には聞いていますが、本当に別の宇宙そんなところが存在するんですね……。クロエ様も亜世界に?」


「ああ、よく行く。最近は源世界こっちに居る方が少ないくらいだ」


「なるほど。――私も一度は行ってみたいものです」


「……この国では亜世界の存在そのものを否定しているのではなかったのか?」


「本気でそう信じている人間はもう殆どいませんよ。どれほど情報封鎖したところで、真実を隠し続けることはできません」


 ミラーの端に覗くルチャーノの顔は真面目である。


(真実は隠せない――か……)


 クロエが呟きつつ正面に目をやると、昼間であるのに道路は閑散としていて、所々に銃を携行した軍人らしき人間が立っているだけであった。


「車がいないな」


「今は厳戒態勢が敷かれていますから、この道路は本来封鎖されているんです。通常であれば混むこともあるんですが――暫くは貸し切りですよ」


「厳戒態勢――コンクラーヴェか」


「ええ」とルチャーノが応えると丁度その時、大聖堂の向こう側――システィーナ礼拝堂の煙突から白い煙が上がった。

 かつてローマ教皇の選出としてバチカン市国で行われていたコンクラーヴェは、国が変われどシステムとしては未だ残っている。そして礼拝堂から上がる煙が白であれば決定、黒であれば未決を意味するのも昔と変わらない。但し昔と違い、今選ばれるのはカトリックの最高司祭と聖ローマ教国の国家元首を兼ねる、この国の一元的な統治者であった。


「……決まったようですね」とルチャーノ。


 遠くの広場で沸き立つ歓声を後に、車はやがて宮殿を思わせるクラシカルな政庁舎へと辿り着いた。

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