EP19-5 囁く予感
WIRAの一室――クロエの部屋は、壁や天井の全体が落ち着いた照明となって、その柔らかな光は
20平米程の部屋にあるのは、中央に唯一のベッド。しかし源世界で睡眠時に利用するのはベッドではなく、コクーンと呼ばれる粘性流体状の元素デバイスである。故に、そこにスーツのまま横になっているクロエの意識は覚醒していた。
(蓋然性の高い情報――疑いようのない事実……)
そのメベドの言葉から導き出される答えは一つではない。
(揺るぎ無いOLSのデータ――
――自分の知る歴史が、世界が、存在が。そして自分自身が本当に自分であるかということまで疑い始めたら、それは最早仮説の域を超えて、途方も無い仮想とも云えるのではなかろうか。
(まるで思考実験だな――。だがあの男の言葉が真実であると、心のどこかで確信している
ザワつく彼女の気持ちを和ませるように、部屋の色が爽やかな寒色から柔らかな暖色へと、徐々に移り変わっていく。
(……いつからだ? どこかにいるもう一人の自分が、『それは偽りだ』と囁き続けている――そんな感覚がある)
それはグレイターヘイムで部下に扮したメベドと出会った時からか、或いはダークネストークスで彼と対峙した時からか、それとも源世界の報告でリマエニュカの名を聴いた時からか――。
いずれにせよ、その
(あの転移時の
何故、自分だけにそのような現象が起きるのか?
何故、自分は両親の存在に違和感を覚えるのか?
そして何故、日に日に自分のアルテントロピーが強まっているのか?
(私が
過去のデータによれば、彼女のアルテントロピーの強さを示すPA値は、規制官になる前――5歳当時で既に200を超えていた。これは一等官の基準値を大幅に上回り、今現在インヴェルセレにいるガァラムやアマラすら、遥かに凌ぐ数値である。その余りに強大過ぎるアルテントロピーを制御する手段を身に付ける為、規制官となるまでの数年間、彼女はべレクと亜世界で行動をともにしていたのであった。
しかし最近になって、更にそれが強くなってきている実感がある。
(このままでは私自身がフラッドを起こしかねない)
元々備わっている異常とも云えるアルテントロピーで相手の情報ごと破壊してしまわぬよう、亜世界のクロエは、拳銃などという彼女にとっては武器とも呼べぬほど貧弱なツールに頼ることで、何とか戦いを成立させられるレベルに手加減していた。しかしそれすらも段々と困難になりつつあるのである。――それも今の彼女に渦巻く『何故?』の一つであった。
(もし奴の言葉が
故にクロエは聖ローマ教国への捜査入国を申請したのであった。
彼女は深呼吸を一回、そして視界の隅にある時刻表示に目をやる――『20:31』。それを確認してふと身を起こした瞬間、強烈な衝撃が彼女の意識を襲った。
***
疾走する車の中――。ルームミラーに映る父親の眼は真っ直ぐ先を見据えている。助手席では愛犬のレトリバーを抱えた母親。夢で見知ったあの顔だが、今の表情は不安げで険しい。
激しく揺れる後部座席で、自分の手を強く握る黒髪の少年。その頭を抱えて宥めるように頬を押し当ててから、彼女の視線はリアガラスへと向けられる――炎に染め上げられた空。
住宅地を抜けて離れゆく街並みは、遠くから徐々に色みを奪われ粒子となって、空間ごと虚空に溶けていく。車はその虚無の津波から逃げているようであった。
「お姉ちゃん……」
黒髪の少年が不安と恐怖に満ちた瞳で彼女を見上げた。
「大丈夫よ……お姉ちゃんが護ってあげるから」
そう発した彼女の声は、しかし台詞ほど強い響きを持ってはいない。
直後、轟音とともに頭上を通過していった飛行機が、街へと墜落する前に光を放ち消滅した。しかし空中分解した尾翼の一部が空から落下し、ひしゃげたオブジェとなって道を塞ぐ。
「っあなた!!」
母親の悲鳴と同時に、急ハンドルを切った車は街路樹に向かって――。
***
(――!?)
刹那に引き戻される意識。座っているのは車の座席ではなく、先程のベッドの上。
(何だ……? 幻覚か……今のは?)とクロエ。
時間差で彼女の額に汗が浮かぶ――。
[心拍数が上昇しています。落ち着いて、ゆっくりと深呼吸をしてください]
頭の中に、包み込むような優しい女性の声が流れた。
彩られていた壁が静かに、心地良い陽が差し込む森の景色にクロスフェードしていくと、部屋の中はそれに合わせて暖かみが増して、彼女の頬を濃い酸素のそよ風が撫でる。
「大丈夫だ、問題無い。ありがとう、サリィ」
[どういたしまして。ルーラー=クロエ]
クロエは手の甲で汗を拭いながら、再び視界の
「…………」
暫く待ってもそれは変わらない。――恐らく今の
(転移とは無関係の時ですら……)
溜め息を吐いてからは暫らく、部屋に響く小鳥のさえずりと遠くに聴こえる小川のせせらぎ、そして自身の胸の鼓動に耳を傾ける。彼女の心拍が緩やかになるに連れ、森の景色がしっとりとした夕焼けに包まれていった。
(あの男にもう一度会えば、全ての謎が解ける気がする)
脳の――或いはクオリアニューロンの奥底で、情報の波を堰き止めている何か。その何かが段々とひび割れてはきているが、最後のひと押しとなる一石はメベドとの三度目の邂逅であろう、という確信めいた予感。それがジョルジュに言い放った彼女の『勘』であった。
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