EP19-3 明晰夢
――――。
「――ュカ……」
………………。
「――さい……エ……カ」
柔らかな肌触りの暗闇の中で、微かな女性の声が耳を撫でる。聞き覚えの無いはずのその声に、何故かクロエは懐かしさを覚えた。
「ううぅん……」と、駄々をこねる少女の声。
しかしそれはクロエの意思から発せられたものではない。
「――ほら、いい加減に起きなさい」
少女がその台詞で目を覚ますと同時に、シャッと開かれたカーテンから、眩い陽光が飛び込んだ。温もりが満ちたベッドで眠る少女は、思わず布団を引き上げてその光から逃れようとしたが、彼女の
(眩しい……何処だここは?)とクロエ。
視えるのは白い天井――辺りを見回そうにも、彼女の身体はそこにはない。視界は目を擦る少女に、完全に委ねられていた。
欠伸をして起き上がり、ようやくそこで捉えられた部屋の景色。さして広くもない、だが可愛らしい子供部屋――。落ち着いたベージュの壁紙に、丸と四角で描かれたアンバランスな
(どこの亜世界だ? 私は……この少女の中に在るのか?)
「いつまでも寝ていてはダメ。早く起きなさい、バスに遅れちゃうわよ」
「まぁだ眠いのにぃ」
という甘えた少女の声は、またしてもクロエの意思とは関係なく口を出た。すると女性は上体を起こした少女を見てクスリと笑う。
「あら、あなたまた
女性の年齢は40になるならずといったところ。それがこの少女の母親であろうというのは、物腰や口ぶりから判る。整った顔はとても穏やかな表情で、もう一度欠伸をする少女の額に彼女が優しくキスをすると、石鹸の香りに包まれた安堵の匂いが、少女の鼻孔をくすぐった。
(何だこの感覚は――)
何処とも判らぬ場所、見知らぬ顔の女性。そして自分が入っている
母親の言葉に「はぁい、ママ」とベッドを出た少女の姿が、部屋の鏡に映る。
(これは……)
8歳か9歳ほどの、艶のある長い黒髪の女の子。母親に似て彼女自身もまた、類稀なる美しさの顔立ちである。
(これは私か……? 幼い頃の私――)
どれほど時を経ていようとも、それが過去であれ未来であれ、自分の顔を間違えようはずもない。――鏡の中の少女は、紛れも無くクロエ自身であった。
(しかしこの場所は? それにあの女のことを『ママ』と? 私の両親は、私が3歳になる前に亡くなっていたはずなのに……。それにそもそも、私が知っている人間とは顔が違う)
だが何故か、自分が知らされている母親の顔よりも目の前の女性の方が、確かにそうであるという感覚が強い。
その女性は脱ぎ捨てられた子供服を雑に丸めて抱えると、足早に部屋を出て行く。
自分の声を発することが出来ないクロエは、その
(見たところ、19世紀から20世紀程度の文明のようだが……)
そんな彼女の思索を無視して、幼い
(やはり間違いなく私の姿だ……。だが――)
物心ついた時には、ベレクとともに亜世界を渡り歩いていたクロエに、このような家庭で育った記憶など無かった。
すると家のどこからか、元気に泣く赤ん坊の声が聴こえた。――遠くの部屋から母親が呼び掛ける。
「リマエニュカ、赤ちゃんを連れてきてちょうだーい」
「はーい、ママー」
(?! リマエニュカ――だと?)
幼いクロエは母親の声に応え、洗面室からドタドタと廊下を走って小部屋に行く。そしてベビーベッドで泣く赤ん坊を慣れた手つきで抱え上げた。
子供なりではあったが、姉としての自覚があるらしき
「よしよしよし、泣かないのよー。お姉ちゃんが来たから大丈夫だよぉ、良い子だねーメベド」
(――メ……ベド……?)
その名前に反応したクロエであったが、目の前の赤ん坊の姿と、あのファントムオーダーの老人とでは、余りにも外見がかけ離れ過ぎていて、それが同一人物かどうかは判断出来なかった。
「よしよし、良い子良い子」
(………………)
泣き止まぬメベドを一生懸命あやす少女の内側で、クロエは
――――。
***
正真正銘、確かな自身の瞼をクロエが開くと、そこは
亜世界の調査から帰還を果たした彼女は、元素デバイスの液体に満たされた
「またか……」と、独り呟く。
(一体何だ? この転移中に垣間見る不可解な映像――いや或いは体験か。転移に要する時間などほんの僅かだというのに……)
クロエが最初にクリサリスを使って転移をしたのは6歳の頃である。それから今まで、こんな現象が起こった事はなかった。と云うよりも、起こるはずがなかった。
彼女が今しがた体験したそれは明晰夢のようにも感じられたが、実際に転移にかかる時間はコンマ数秒程度であるし、その間も転移者の脳は覚醒した状態なのである。――意識を保った刹那の中で、夢など見ようはずもない。しかし彼女がこの現象を体験するのは、これで3度目であった。
(直近の転移で3回立て続けに――しかも段々と長く、鮮明になってきている。それにしても今見た
リマエニュカ、そしてメベドという名称。最近はファントムオーダーの調査に没頭しているとは云え、流石にあの内容は現実的ではない――そう思える。
(装置に異常が無いのであれば、おかしいのは私のほうかもしれないな)
最初はクリサリスの不具合と判断したクロエであったが、インテレイドからそういった報告は無かった。2度目はファントムオーダーからの何らかの介入であろうかとも疑ったが、転移の
(暫くは待機――その間に調べてみるか……)
アルテントロピーの源となるクオリアニューロンは、脳を中心とした肉体に由来している。物理的には意味を成さない構造であっても、亜世界への転移中はそれを失った状態が続く為、長期間の転移は禁止されているのである。故に、このところ連続して亜世界へと出向いていたクロエは、これから暫くの間は源世界で待機していなくてはならなかった。
白磁器の様に滑らかな素肌に薄っすらと付着した半透明のゼリーが、自動的に分解して空気中に消え去ると、クロエの瞳に『OLS起動完了』の文字が映った。
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