EP16-3 優しさの領域

 16年前――2260年11月。

 源世界/WIRA/中央医療処置室――


 ガラス張りになったその部屋の中を、白い廊下からじっと見つめている、まだ10歳になるならずといった人形のような少女。――黒い絹糸のような長い髪と、幼い身体を包む黒いスーツ。

 彼女が覗き込む先には、半透明のゲル状の繭の中に浮く、彼女よりも遥かに小さな赤髪の幼女。その瞳は閉じたままである。


「………………」


 無言で見つめる彼女に、廊下を音もなく歩いてきた男性――一等官ルーラーのべレク・宇・エンリルが声を掛けた。


「どうした、クロエ。任務は終えたのか?」


 呼び掛けられた幼いクロエは、彼に横顔を向けたまま頷いた。


「……うん。――べレク、あの子は?」


「2日前に太平洋沖の海底から発見された少女だ。100年近く凍結休眠させられていたようだ」


「誰に――?」


「当時のインテレイドだ。恐らく彼女の生命維持を目的とした行動だろう。他に情報の痕跡が一切存在しない為、関係者はCTー2のFRADに巻き込まれた可能性が高い。……彼女自身も左脳が消滅していた」


 ガラスの向こう――白い部屋の真ん中で眠る少女の顔は穏やかであった。


「生きてる……?」


「ああ。凍結の処置は適切だった。今の時代であれば、有機元素デバイスで脳を補完できる。随伴していたインテレイドは彼女の生命維持機能を残して停止して死んでいたが」


「……あの子、これからどうなるの?」


「FRADの影響を受けながらも生存できた、稀有な人間だ。今後はWIRAで面倒を見ることになるだろう」


「じゃあ、独りぼっち(――私と同じだ)」


「ああ。代理の保護者を探すことにはなるだろうが、FRADに関わりのある人間――ましてやハーフレイドを子供として引き取る者はいないだろう。恐らくインテレイドが親代わりになる」


「そう……。――あの子も規制官になる?」


「優れたクオリアニューロンが確認されている。お前ほどではないにせよ、一等官レベルの強いアルテントロピーを持っているはずだ。――本人が望めばなれるだろうが、意志の強さによる」


「………………」


 クロエはそれ以上問うことはせず、コクーンに包まれた幼女――アマラの安らかな横顔を見つめていた。



 ***



 ――2276年5月。

 とある亜世界の中――


 夕空がオフィスビルの壁に反射し、その光が立ち並ぶ街路樹を眩く照らす。ビルと木々に囲まれたが穏やかな公園に、黒スーツの二人――。

 ユウは21世紀の源世界に酷似した亜世界の景色を馴染み深く眺めつつ、ベンチに座るクロエに問い掛けた。


「そういえばアマラさんって、ルーラーなのにあんまり亜世界の任務に行かないですよね?」


 彼は近くのコンビニで買ってき紙コップのコーヒーを、ベンチで背もたれに肘を掛けて、ぼんやりと遠くの夕陽を見つめているクロエに手渡した。


「――アマラの任務?」


「ええ。なんで亜世界での任務が少ないのかなって。――あ、これミルクです。」


「ありがとう。……そうだな――」


 クロエはミルクをコップに注ぐと、それをかき混ぜてから、再び茜色の空に目を向けた。そして少し困ったような溜め息。


「――――?」


 ユウは首を傾げて言葉を待つ。


「……アマラが亜世界にほとんど行かないのは、あいつがからだ。調査や警護の任務もあるとは云え、亜世界では往々にして戦闘を伴う。そういう意味では、アマラは規制官の仕事には向いてない。――局長もそれは解ってる」


「え? 全然そんなふうには見えませんけど……」


「強がってるだけだよ。ああいう性格だからな――」


 コーヒーから立ち昇る湯気に視線を落とすクロエ。


「……ユウ、お前はアーマンティルで何人殺した?」


「え――?」


 突然の物騒な質問に、ユウは一瞬たじろぐ。そして暗い声色トーンで答える。


「モンスターも含めれば5万ぐらい……です。――多分」


「そうか。私はロボットや怪物まで含めれば、その千倍はくだらないだろう」


「そんなに……?」


「ああ。私は物心付いた頃にはべレクと亜世界を回り、9歳の時には規制官になっていたからな。――我々はどんなお題目を掲げてようが、それなりに血生臭い生き方をする破目になる。お前やリアムや他の規制官のように、転移者であれば尚更だ」


 確かにクロエが言う通り、勇者であったとは云え、ユウが奪った命は数知れない。一日中敵を斬り続け、全身を返り血で染めた経験も一度や二度ではない。


「だがアマラは転移者ではない。もともと源世界で生まれて転移することなく育った、純粋な源世界人だ。――お前は源世界の重犯罪発生率を知ってるか?」


「いえ――ほとんど無い、としか」


「WIRAの統計では0.000005%。つまり殺人などの犯罪を起こすのは20万人に1人だ。それも大概は過失だ」


「凄い……少ないですね」


「亜世界やシンギュラリティ以前に比べれば、天国みたいなものだよ。インテレイドが作り上げた源世界のシステムは、それほどまでに完成されている」


「システム……ですか」


「ああ。特に情操教育や超自我モラルの形成に関しては過剰とも云える。――これは私の価値観が歪んでいるだけかもしれないがな。だがアマラはそんな源世界の中で、聖人の如く寛容と慈悲に満ちたインテレイドに囲まれて育った」


 クロエの手に在るコーヒーは渦巻いたミルクが完全に混ざり合って、柔らかな茶色に変わっていた。


「つまりあいつは、傷つけたり傷つけられたりという事に免疫が無いんだ。それは人間だけでなく、他の動物や人工物に対してすら同じだ」


「そうなんですか……。だから研究や開発ばかり――」


「そうだな。あいつが特にIPFの研究に拘るのも、それが理由だろう」


 IPF(インテンショナリィ・プリゴジン・フィールド)――志向性散逸構造場と訳されるそれは、破壊された物質をアルテントロピーによって復元する、情報次元的な力場のことである。しかし超高度な情報処理を必要とするIPFは提唱当時机上の空論であり、それをインテレイドの演算解析補助を用いたIPFアンプリファの開発によって初めて実用化に漕ぎ着けたのは、他ならぬアマラであった。


「――IPFは今や規制官には必須になってるが、その技術を生んだのはあいつの優しさだ」


(優しさが生んだ技術……ただの機械オタクじゃなかったんだ……)


 ユウは、アマラが日頃から熱心に新たな研究開発に取り組む姿とその言葉を結び付けて、感じ入るように彼女の笑顔を思い出していた。――するとクロエ。


「だがIPFミルクを注いだところで、亜世界コーヒー平和な世界別の飲み物に変わる訳ではない。時には苦味を飲み込むことも必要だ」


 クロエはそう言ってコーヒーを一気に飲み干した。

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