EP10-4 絶望と失望

「身体は大丈夫?」と訊いてからサラは、リアムが返事をする前に、自分の質問に失笑してしまった。


「ごめんなさい、私ったら! 超人あなたの身体の心配をするなんて」


 サラは自分の声が周りの客の注意を引かなかったか確認した。


「いや、ありがとう――大丈夫だよ」


 と返したリアムの目は泳いでいた。彼は彼女の会話の内容よりも、ポケットに忍ばせた婚約指輪が気になって仕方がないのである。先程から、それをいつ取り出してどんなタイミングで言葉を掛ければいいのかを考えあぐねていた。すると。


「あなたが頑張っているお陰で犯罪は減る一方」


「すまない、君の仕事を奪うつもりはないんだが……」


「いいのよ、気にしないで。あなたがしているのは素晴らしいことよ。他の誰にも真似できないことだわ」


「君にそう言って貰えるのが一番嬉しいよ――ありがとう」


「その内悪者がいなくなったら、弁護士私たちは『離婚調停士』って名前に変わるかもしれないけどね?」などと苦笑する。


 ――コース料理を一通り食べ終えてからも、二人は暫くの間他愛もない談笑をして、やがて話のネタも尽きてくると店を出た。既に夜の帳は充分に落ちている。

 結局プロポーズの言葉を切り出すことが出来なかったリアムは、レストランの前で「じゃあまたね、リアム」と軽いキスをして立ち去るサラの後ろ姿に、思い切って声を掛けた。


「サラ!」


 呼ばれたサラが振り向く。大きな店のガラスから漏れる穏やかな明かりが、彼女の笑顔を暖かく包んでいる――リアムにはそれが女神の微笑みに見えた。


「……なに?」


「その――、ええっと……おやすみ」


「……それだけでいいの?」


 その言葉でリアムは、彼女が自分の考えを見抜いていることを悟った。そして決心してサラに歩み寄ると、力んで握り潰してしまわぬよう気を付けながら、そっとポケットから指輪を取り出した。


「――――結婚しよう、サラ」


 するとサラはこれ以上ない幸せな表情で、リアムの誠実そうなスカイブルーの瞳を受け止める。


「ええ、喜んで」


 その答えを得て、緊張で強張ったリアムの顔が一瞬で解きほぐされる――リアムは優しくサラの左手を取ると、その薬指に指輪を嵌めた。そのまま彼女を抱え上げてグルリと回ると、再びキスをした。


「ずっと君を護ると誓うよ」とリアム。


「一緒に歳を取れないのが残念だけれど……よろしくお願いね? スーパーヒーローさん」と、微笑むサラ。


 二人はもう一度、今度は深く愛おしむキスをした――。やがてどれほど長い時間でも足りないといった様子で、名残惜しそうに抱擁を終える。

 リアムは「おやすみ」と、サラの手の甲にキスをすると手を振って別れた。洒落た街灯が立ち並ぶ道を真っ直ぐと進むサラの姿を彼が見守っていると、彼女は100メートル程先の角を曲がるまでに何度も振り返る。リアムはその都度笑顔で手を振った。


 リアムがこの世界で物心付いてから20年余――かつてこれほどの幸福感を味わったことは無かった、と思う。正に彼の人生最高の瞬間であった。しかしその至福の時は文字通り瞬間的に過ぎ去った。


 リアムが背を向け、サラが100メートル先の角を曲がってから、1秒も経たぬうちに夜空に響く銃声――。発砲の衝撃が空気の波として、リアムの耳に届くまで約0.3秒。その音に反応して彼女の危機を察知した彼が、遠くの曲がり角に駆け付けたのは0.5秒の時点である。

 しかしリアムの視界に彼女が映った時には、44口径の弾丸は既に、サラの頭蓋を貫通していた。――銃口は彼女の額の前にあった。


 スローモーションで倒れる彼女の体を、瞬時に抱き留めるリアム――。彼の腕に倒れ込んだサラの後頭部は、無惨にも3分の1が吹き飛んでいた――言わずもがな即死である。

 リアムは凶弾の主が誰であるかなどといったことには気にも止めず、ただ狼狽し、まともに言葉を発することも出来ない。


「サ……ああぁ…………サ――うぅ……あああっぅぅ――」


 彼は心の中で延々と繰り返される彼女の名前を、口には出せなかった。もし呼んだとしても、その返事があろうはずもないのだから。


(サラ……サラ……サラ……サラ、サラ、サラ!)


 むしろ名前を呼ぶことで、彼女サラ死んだ事実返事をしないことを認めるのが怖かった。


「ダメだ――死なないで……嗚呼、お願いだ――あああああ……」


 リアムは別れる直前と同じ様に、彼女の唇にキスをしてから、強く抱き締めた。

 先程と違うのは、彼女の身体に抱き返す力が存在しないこと――そしてリアムの表情が至福の笑顔ではなく、悲愴の涙でぐしゃぐしゃになっていることであった。


 リアムの後ろの路地には、虚ろな目をして手にマグナム拳銃をぶら下げる、あのピーター・ウッドの姿があった。自分がもたらした悲劇を月とともに見下ろすピーターに、しかしリアムは目をくれることもなかった。

 頭の中まで涙で溢れていたリアムは、以前飼い犬の些細な怪我を治癒出来たことを思い出し、彼女の頭部の修復を試みた。リアムの全神経が、ただ復元それだけに集中すると、見る見るうちに破壊された頭蓋が元に戻っていく――。

 本人に自覚はなくとも、それは明らかにアルテントロピーによる情報改変であった。しかし同時に、アルテントロピーの性質を理解していないリアムですら可能な改変というのは、対象が最早情報粘度が低い生物ではない物質であることを意味していた。だが無論、この時のリアムがそれを知る由もない。


「治ってるよ――もう治ってるのに……目を覚まして――お願いだ……サラ」


 思い切って名前を呼んでみても彼女の応えは無かった。そうしてリアムが泣き濡れていると、後ろのピーターが呟いた。


「その力……あの爺さんが言った通り本当に――サー・ジャスティスなんだな……」


 泣きながら振り返ったリアムは、この時ようやくサラを撃った犯人が、先日自分に縋ってきた強盗犯のピーターであることに気付いた。


「娘が――死んだんだ……」と、ピーターは徐に拳銃の撃鉄を起こす。


「あの時の金があれば助かったのに……。アンタが……だがこれでアンタも――」


 そこまで言うとピーターは銃身を自分の口に差し込んだ。しかし明らかに自殺をしようとしているその彼に対して、リアムは

 ピーターが引き金を引き、ドンッという詰まった音とともに彼の体が崩れ落ちる。


「………………」


 そして遺体サラを抱いたリアムの靴に、ピーターから流れ出る赤い河が到達した時、彼の中で『何か』が切れた。


 ――『いいかいリアム。人は弱い。だからこそお前はその力で彼らを護るんだ。それが強き者の使命だ』――


 かつて彼にそう言ったのは、今は亡きこの世界での育ての親。


 人は大切なものを失えば自暴自棄になる。復讐や凶行に走ることもある――そんなことはリアムには解りきったことであった。だからこそ彼はスーパーヒーローとして、そんな弱者を護り、救わなければならないのであった。

 しかしリアムは、そんな弱者ピーター行動の原理人としての弱さを充分に理解した上で――容易に出来たにも関わらず、彼が自らを殺すことを止めなかった。否、感情の奥底では彼の死を願いすらしたのである。


 護るべき弱者から大切なものを失わせ、更に救うべき弱者すら見殺しにしたという事実。それはつまり、彼がスーパーヒーロー彼であるという存在理由を放棄したことに他ならない。

 故にその時、スーパーヒーロー『サー・ジャスティス』は死んだのである。そして代わりに、孤独で強力な情報犯罪者ディソーダーが生まれたのであった。

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