二人と会話

 落ちた水は消え、やがて大地に満ちる。

 雨上がりの水溜まりからも、やがて青空は消える。

 月を映し出す湖面も、やがてその輝きを失う。


 止まない雨はない。

 無限の雫は存在しない。

 水は流れゆき、そしてまた巡る。

 少女の涙だって、例外ではない。




 森の木々たちが、そこに棲むものたちが目を覚ます頃。

 森が、夜の静けさから朝の輝きを取り戻した頃。

 彼女は頬を伝う雫と決別した。

 だが、消えた涙とは裏腹に少女の「笑顔」はそこに残されたままで。 

 それこそが、彼女の本当の気持ちなのだと僕は確信する。


 きっと、もう大丈夫。

 そっと彼女の頭から手を放す。

 瞬間、彼女は「笑顔」を曇らせる。

 不安げな表情をこちらに向けてくる。

 それに対して、僕は「顔」で彼女に語り掛ける。

 その顔を見た少女も、「顔」で返事をしてくれる。


 そこにけれども、その瞬間。

 確かに、僕たちはのだ。


 彼女は返事をする。

 声なき声に応えてくれる。

 僕と同じ。

 いや、僕よりももっととびきりの。

 「笑顔」で。 




 そして、僕は少女を抱きかかえるとゆっくりと歩きだす。

 少女にとっては予想外の行動だったみたいで、意外なほどあっさりと小さな体が両腕の中に納まる。

 左手を少女の両足の下に、右手を少女の背中に添えて、しっかりと抱きかかえる。

 絵本に出てくる王子様がお姫様を抱きかかえるような、ちょうどそんな態勢だ。

 この子はともかくとして、僕が「王子様」というのは大仰が過ぎると思ったが。


 ……、やっぱり軽い。

 僕は少女が痛くならない程度に気を遣いながら、抱きかかえる手に込める力を強くする。

 あの時、少女をベッドに運んだ時に感じた感覚は間違いではなかった。


 綿のように軽い少女。

 体だけではなく、心も、命も。

 そして、その魂さえも。

 美しいほどに儚い。


 だからこそ、僕はこの手に力を込めるのだ。

 僕が抱えているのは彼女の体だけではない。

 彼女という「存在」までも、この手で抱きしめるように。

 



 腕の中の少女が何かを目で訴えてくる。

 先ほどまで笑顔だった少女が見せたのは、困惑の表情だった。

 僕と目が合った少女は、語りたい答えを示すように目線を自身の足の方へと向ける。

 僕の目線も少女につられて同じ方向を向いていく。

 だが、その視線は少女自身の足ではなく、もっと別のものに向けられていた。


 少女が注視する、「それ」は朱く染まっていて。

 朝日の煌めきを反射して「それ」は紅く光っていて。

 そこで、僕はようやく思い出したのだった。

 先ほど起きた事実を。

 先ほど受けた痛みを。


 そこで、ようやく少女が何を伝えたかったのか、理解する。 

 少女が訴えたかったのは「困惑」ではない。

 少女が伝えたかったのは「心配」だ。

 僕のこの「右手」の事を「心配」してくれているのだ。

 ……、本当にこの子は。


 僕の調子はといえば。

 正直なところ、魔法の反動で体中に激痛が走る以外は特に問題はない。

 右手だって、見た目こそ派手なものの、傷の深さとしては大したことはない。

 少しばかり、大げさに元気よく血が噴き出しているだけだ。

 むしろ、右手の方よりも魔法の反動の方が痛みの純度的には遥かに上である。

 個人的にはそちらの方が問題なのだが。

 とはいえ、少女に今その事実を伝える方法も、メリットも存在しないので、僕はその事をそっと胸に秘めておくのだった。

 

 そして彼女は忘れている。

 どうにも、自分自身の事に無頓着なのはお互い様らしい。

 僕も僕として、少女を抱きかかえる理由がきちんと存在するのだ。

 そこは譲れない。


 僕はする為に、視線を右手から少女の顔に移す。

 顔に浮かべるのは、先ほどの少女が浮かべていたものと「同じ表情」だ。

 そして、そのまま視線を先ほどと同じように少女の足の方に向ける。

 少女の視線が、僕の視線を追従するのを感じながら、さらにその先へと目を進める。

 そうして、僕が目を止めた先。

 そこは大気に晒されたままの、少女の末端だった。


 傷つき、皮がむけ、豆が潰れ、血が滲む、そこは。

 少女がここまで、どれほどの道を歩き続けたか。

 孤独に、痛みに、苛まれながら。

 そのが、「そこ」には。

 「少女の足」には


 僕はボロボロに傷ついた「少女の足」を心配そうに眺める。

 彼女が僕の右手にそうしてくれたように。

 彼女はこれで分かってくれただろうか。

 そして、しばらくのちに視線を少女の顔に戻す。


 少女には、僕の言いたいことは過不足無く伝わったみたいだ。

 それゆえの「表情」

 その顔は、何か言いたげな「不服」そうな表情と、申し訳なさそうな「悲し」そうな表情。

 そういったものを混ぜごぜにした「複雑」な表情だった。

 短い付き合いながらも、彼女の性格を鑑みれば、その「表情」も頷ける話だ。


 だが、「顔」ではそう言っているものの、「体」は僕にその重さを預けている。

 少女なりに思うところはあるのだろうが、取りあえずはこのままの態勢で帰ることを許容してくれたみたいだ。

 渋々、といった感じかもしれないが。

 

 行きはよいよい、帰りは遅い。

 流石にこれ以上魔法を使う、もとい体を酷使したら次の日が怖い。

 幸いにして、「零樹」から僕の家まで、時間はかかるが歩きで帰れないこともない距離だ。


 僕は少女を。

 どこにも行かないように力強く、決して壊れないように優しく。

 抱きかかえながら、「不思議な木」の前を後にするのだった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 ……、本当にこの人は。


 私は抱きかかえられながら、ゆっくりと朝方の森を僅かに揺られていく。

 彼はここまで来た道を一歩一歩引き返していく。


 森の中は驚くほど静かで。

 気持ちが落ち着いた今では、急にここがとても神秘的な場所に思えてきた。

 森の木々から差し込む黄金の光が、この森を更に幻想的な雰囲気に仕立て上げている。


 しかし、どうしてなのだろう。

 私には、この光が、森が。

 いいや。

 この世界全てが。

 今日に限っては、眩しく煌めいているように感じるのだ。

 今まで、あんなにも濁り薄汚く見えていた世界が。

 なんだかとても素晴らしいもののように思えて仕方ないのだ。

 こんな日が来るなんて思ってもいなかった。


 きっと。

 きっとこんな気持ちが。

 こんな風に見える世界が。

 これが「幸せ」なのだろう。




 とはいえ、私の心の中は複雑だ。

 私を支える手にはしっかりと力が込められていて。

 けれども、その手から伝わってくるのは優しさで。

 誰かにこんなにも大事に、大切に触れられるのなんて初めてで。

 いや、ついさっきのナデナデが初めてだから、数えて二度目で。

 だからこそ、余計に私の心の中は複雑だ。


 頭の中をグルグルグルグルと色々な感情と想いがひしめき合う。


 彼の右手は大丈夫なのだろうか?

 私の事を持ち上げて痛くないのだろうか?

 私に何かできることはないのだろうか?

 彼の事を「心配」に思う気持ち。 


 そもそもこの人が怪我をしたのは私のせいなのだ。

 私がもっと上手くやれていれば。

 あるいは、私が彼と出会うことがなければ。

 そうすれば、彼は怪我を負わなくて済んだかもしれない。

 彼を傷つけてしまった事への「後悔」と「自責」の気持ち。


 私が歩けばいいのだ。

 痛いのには慣れている。

 今まで受けてきた痛みに比べれば、こんなのは大したことはない。

 それよりも、彼に無理をさせているのではないか。

 もしそうであったなら。

 ……、その方が断然「痛い」

 彼の「選択」と「行動」に対する「不服」な気持ち。

 

 そして何よりも。

 私と彼は一緒にいてはいけないのでは。

 私が彼と一緒にいることは、とてつもない「迷惑」になるのでは。

 

 そういった負の感情、考えが頭の中をいっぱいにする。

 けれども、決してそれだけではなくて。


 私を抱きかかえている手から伝わる彼の気持ちを。

 私の全身から感じている彼の温もりを。

 私という存在を認めてくれる居場所を。

 確かな「幸せ」を私は感じていた。




 私はずる賢い、卑しい、強欲な女だ。

 歪なハーフエルフだ。

 どうすればいいのかなんて分かりきっている。

 彼の事を本当に思うのなら、降りて歩くべきだ。   

 だけれども、その「選択」が「決断」が私にはなかなかできなかった。


 「負の理性」と「正の感情」が私の中でせめぎ合う。

 「悲しき正義」と「嬉しい悪」が私の中で衝突しあう。

 相反する二つの「理性」と「感情」のぶつかり合いは、私の心を曇らせていくのであった。

 でも心の中で「結論」は、「決着」は、つかなかった。

 あるいは「決着がつかなかった」という事自体が私にとっての「答え」だったのかもしれない。

 

 彼の腕の中で感じられる「幸せ」を。

 ありのままの私を受けて入れてくれる「幸せ」を。

 人並みの「幸せ」を。

 あと少し、もう少しだけ。

 そう思い、浸り続ける。

 その余韻から、離れられなくなる。

 ずっとこのままでいられたら、いいのに。

 そんな夢物語まで考え始める。

 あぁ……、私はなんて愚かなハーフエルフなんだろう。


 彼の温もりは、幸せは、睡魔をいつの間にか引き寄せていた。

 この時が永遠でありますように。

 そんな馬鹿馬鹿しい、でも心の底からの、願いを胸に抱きながら。


 私は彼の腕の中で、いつしか眠りに落ちたのだった。

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