賢者と寝顔
パタン。
この小さな、僕以外は誰もいなかった小屋には、本を閉じる音が良く響く。
本を閉じる音だけではない。
虫たちの鳴き声。
風の囁き。
木の騒めき。
ここはいつもそうだ。
世界にはこの森しかなくて、この世界には僕だけしかいなくて。
夜になる度、そんな錯覚を覚える。
それほどまでに静謐な時間。
それほどまでに孤独な時間。
……、孤独にはもう慣れた。
いや、きっと、最初から最後まで、僕はこの「世界」でたった1人きりなのだ。
それが「賢者」という存在なのだから。
感傷に浸る時間はおしまいだ。
まだ、今日の内にやらなきゃいけないことがある。
日課である夜の読書を終えた僕は、居間の椅子から立ち上がると、玄関へと向かったのだった。
扉を立てかけ、元あった位置に固定する。
表面に
<
程なくして、以前と変わりなく家の門番としての務めを果たせるようになった扉が、そこにはあった。
物を創ったり、壊したりするのは土属性の系統魔法の分野。
すなわち、僕の得意分野でもある。
懐かしいなぁ……、「あの人」がなんか色々ぶっ壊しては、僕がよくその尻拭いをさせられてたっけ。
昔の懐かしき夢を見たからか、現実の行動と過去の光景がリンクして僕の脳内で鮮明に再生される。
一瞬、過去の幻影に心が微睡んだが、すぐに意識をこちら側に揺り戻す。
今、ちょうど九時を回ったくらいか……。
扉を直した僕は、自身の体内時計を頼りとしておおよその時間を割り出す。
今日やるべきタスクはこれで最後の一つを残すのみだ。
彼女の様子を見に行くことにしよう。
僕は寝室への扉に手をかけ、音を立てないようにゆっくりとゆっくりと慎重に慎重に、ドアノブを捻り、押す。
やっぱりギギギと鋭い音が鳴る。
……、もう何も言うまい。
室内は薄暗く、中を照らすのは窓から差し込む月光だけだ。
変わらない光景、そのはずなのに。
彼女がそこにいるだけで、いつもの風景とは違って見える。
普段なら部屋を照らすには頼りなく朧げな月明かりも。
優しくこの部屋を包み込むような満ち足りた光に。
今日だけは、そう感じた。
その光景を見て、僕はふと笑いが込み上げてくる。
「あの人」が、僕を見ては笑っていたのを思い出し、その気持ちの一端をようやく理解する。
僕は部屋の隅でシーツに包まりながら、丸まるようにして眠っている少女へと近づく。
……、まったく。
そんなところで寝て、今度は風邪でもひいたらどうするんだ。
ただでさえ、キミの体調は万全には程遠いというのに。
心の中で悪態をついてはみるものの、奥底から湧き上がってくる感情はそれとは真逆の物で。
彼女を見ていると、つい微笑ましくなって、表情が緩んでしまう。
……、いけないいけない。
賢者たるもの、常に冷静にあるべきだ。
感情に絆されて、表情を崩すなんてもってのほかだ。
ギュっと表情を引き締め、フワっと彼女を優しく持ち上げる。
やはり、両の手で感じるその体の重さは軽く。
軽すぎて、まるで空気のようだった。
このまま彼女をしっかりと掴んでいないと、どこかに飛んでいってしまいそうで。
体だけではない、心や命、そういった目に見えないものまでもが飛んでいってしまいそうで。
僕は少しだけ、怖くなる。
ふと、また現在と過去との扉が脳内で繋がる。
在りし日の想い出が、再生される。
そうだ。
そうだった。
僕はこの「重さ」を決して忘れちゃいけない。
それが僕が未来永劫背負っていくべき「罪」
賢者ではなく、この僕に課せられた「業」なのだから。
この記憶を、想い出を、決して忘れないように。
この少女が、どこかに消えてしまわないように。
少しだけ、彼女を抱きかかえる両の手に加える力を、ほんの少しだけ強くする。
少しだけ力を込めた両の手からは、彼女の温もりが伝わってきて。
自分の抱きかかえているものに、命の温かさがあることが。
自分は、両の手の中の小さな命を救えたことが。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
感じる彼女の温もりを、僕はベッドまで運ぶ。
そして、そっと横たえさせ、毛布をかける。
ふと、眺めた彼女の表情は、以前と同じく無表情だった。
だが、少しだけ違う。
以前は、「人形」のような無表情だった。
しかし今は、「人間」のような無表情だ。
うまく説明することはできないが、今の少女の表情には確かに「生物」としての温もりがある。
以前のような「無機質」な、まるで命がそこから抜け落ちてしまったかのような表情ではない。
そんな、微妙な表情の違いを感じ取り、この子の容体は良くなってきているのだと、改めて安堵する。
そうして彼女を下した僕は、彼女が使った食器を、部屋の隅に放置されたままとなっているそれを回収する。
スープを盛った食器の中には雫一つ残っていない。
お盆の上には、パンくず一つ落ちていない。
まるで、これが使用後の食器だとは思えないほどだ。
どうやら、彼女は僕の作った料理を気に入ってくれたらしい。
久々の料理で腕が錆びついていないか、少し心配だったのだが杞憂だったようだ。
それにしても、ここまで綺麗に食べてくれるとは思いもしなかった。
よほどお腹が空いていたのか、よほど美味しかったのか、あるいはその両方か。
なんにせよ、作った甲斐があると、料理人冥利に尽きるというものだ。
僕は、右手を握ると小さくガッツポーズをした。
こらえきれなくなった喜びの感情の表れだ。
そして、同時に思う。
彼女が少なくともここにいる間は、色々な美味しいものを食べさせてあげよう。
僕はそう、心に固く誓うのだった。
そうっと、寝室から出た僕は、食器をキッチンの流しに適当に放りこんでおく。
普段なら、料理と食器洗いをセットの家事として考えている僕なのだが、流石に今日はどうしてもやる気が起きなかった。
彼女がぐっすりと眠っているのを確かめられた事で、張り詰めていた緊張の糸がフッと切れたのだ。
半日丸々寝たとはいえ、三日三晩の連続稼働の代償としては、余りに小さすぎる。
彼女の寝顔を見て安心できた時から、体が、より正確には瞼が重くて仕方ないのだ。
食器洗いは、明日やればいいだろう。
彼女の為に、明日もキッチンに立つことも決まっているようなものなのだし。
そう思いながら、フラフラと引き寄せられるように居間の即席臨時寝床へ。
二つ並べた椅子の上に、仰向けに倒れると即座に瞼を閉じる。
意識が完全に落ちるまでの束の間、感慨に身を投じる。
それにしても、彼女が来てからというもの、心の中が本当に忙しい。
喜怒哀楽の感情が、この数日の間に自分の中を目まぐるしく回っていく。
それは、どうにも不思議な感覚だった。
怒りもある、悲しみもある。
だが、それだけではない。
喜びもある、楽しみもある。
……、存外に悪くないものなのかもしれない。
今までの生活は、何か思う必要が無いほどに無味乾燥なものだった。
繰り返される日課、繰り返される毎日。
それらをただひたすらにこなしていく僕に、何かを感じる必要は無くて。
だから、ただただ無感情に日々を過ごせたのかもしれない。
……、いや本当は逃げていただけなのかもしれない。
「黙示の賢者」はかくあるべき。
そう自分で自分の在り方を縛り付けて。
「感情」から、「過去」から、逃げていただけなのかもしれない。
今までの自分を振り返り、思考を深めていくのと同時に、意識も奥深くへといざなわれる。
体が浮遊する、思考が宙を舞う。
あぁ、落ちていく。
これは……。
また夢か。
蘇る記憶の欠片。
「私は、機械としてではなく、人間としてお前に生きてほしいんだよ」
「それが私の、たった一つの願いさ」
全く敵わないなぁ……、
その先の言葉を紡ごうとして、意識が急に途絶する。
賢者は眠る。
覚醒の時は、会合の時は、そう遠くない---。
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