賢者と慈悲
鳥たちの囀りが聞こえる。
それに気づいたのを引き金として、僕の意識は急速に覚醒していく。
まだ日が昇る前。
薄暗闇の中、いつもの時間に僕は目を覚ます。
どれだけ疲れていても、どれだけ寝不足でも、決まった時間に目覚めてしまう。
習慣というのは、困ったものだ。
もう少しだけ寝ていたい気もするが、……流石に賢者が寝坊というのは恰好がつかないか。
昨日の爆睡をノーカン、もとい棚上げにしながらそんなことを思う。
誰に見られているわけではないが、自身の中の怠惰な感情を自制する。
そして、よっこらせ、と心の中でぼやきながら、体を起こす。
……、やっぱりあんまり寝心地は良くないな。
そもそも、椅子を二つ並べただけで、寝床と形容する方が無理があるか……。
新しい寝床のことは、今日の内に考えるとしよう。
腰や首のあたりに違和感を覚えるものの、それ以外は特に体調に変わりなさそうだ。
うん、頭もいくらかスッキリしてるし、連日の寝不足も解消できたかな。
やっぱり、これ以上の睡眠は不要だな。
過不足なき休息は肝要だが、それも行き過ぎれば怠慢となる。
さっそく僕は、今日一日の活動を開始することにしたのだった。
まずは、昨日から今日へバトンタッチされたタスクを消化するとしよう。
そう思い、僕はキッチンへ。
蛇口に
たかだか、木のお盆と食器1つずつ。
2、3分もしない内に洗い終わり、キッチンの戸棚を開け、所定の位置に戻す。
さて、お次はどうしたものか。
キッチンの流しの前に立ちながら、手を組み、頭を傾げ、考える。
いつも何かを考えるときにしてしまう、お決まりのポーズの内の一つだ。
これからやるべき事は決まっている。
日課の朝のお祈りだ。
森の中を歩いて片道30分ほどにある「いつもの場所」に行き、祈りを捧げ、そして帰ってくる。
たったそれだけ。
たったそれだけの事なのだが、僕にとってはとても重要なことだ。
あの日から、晴れの日も、雨の日も、雪の日も、雷の日も、嵐の日も、1日たりとも欠かしたことがなかった僕の大切な日課だ。
とはいえ。
仕方のない事とはいえ。
ここ連日は少女の治療に付きっきりで巡礼をサボっていた。
いや、他に優先すべき事があったので、サボっていたという言い方は適当ではないかもしれないが。
そろそろ、いい加減に顔を見せに行かないと、「あの人」が夢見枕に立って説教しに来てもおかしくない頃だ。
ただでさえ、ここの所は「あの人」の夢を見ることが多くなってきているというのに、それは勘弁して頂きたいものだ。
……、願わくば「あの人」には安らかに眠っていてほしいのだから。
それが今の僕の、「たった一つの願い」なのだから。
だから、僕が頭を悩ませている理由は他にある。
決して、これから何をやるかということを悩んでいるわけではない。
僕が頭を悩ませている理由、それは。
お祈りに行く前に何か少女の為にできることはないか。
ただ、その1点だ。
だが、誰かの為に何かをする。
そんな人として当たり前の事が。
ただそれだけの事が、僕には久しぶり過ぎて、存外難しい。
考えろ、考えるんだ、黙示の賢者よ。
頭の中から、今までの経験から、読んできた書物から、使えそうな知識を引き出すんだ……!!
そうして、頭の中に浮かんだのは一冊の本、その一節。
こういう時の鉄則は、「相手が何をしてくれたら喜ぶか」を考えること、だ。
いつぞや無理やり読まされた怪しい書物、『これであなたも完璧、恋愛マスター!!』にもそう書いてあったはずだ。
あの少女が喜びそうなことを考えるんだ……!!
と、そこまで思考して行き詰る。
僕は、彼女の事を何も知らないじゃないか。
というか、そもそもの前提、引っ張り出してくる知識の出所が間違っている。
僕は彼女に喜んでもらいたい。
それは、その気持ちは揺るぎない事実だ。
だが決して、彼女と恋愛をしたいわけではない。
確かに、彼女の容姿は精巧で可憐だ。
まるでその姿は、神様が最初から美しくあれ、と意図的に造形した人形のようだ。
それを差し引いたとしても、こんな幼い少女に欲情や恋愛感情を持つのは、人として少しマズイと思う。
そもそも、僕にはそんな趣味はないと断定する。
そんな事を考えているうちに、五分か十分か。
数少ない、彼女とのやり取りを思い出しながら、未だ考え続ける。
そして僕は、ふと名案を思い付く。
あったぞ、たった一つだけ。
少女が好きかもしれないものが。
そうだ、昨日冷蔵庫の中で見つけたアレなら少女は喜んでくれるかもしれない。
そう思い至り、冷蔵庫とキッチンの収納スペースから「林檎」と「果物ナイフ」、そして「木の皿」をひっつかむ。
僕は寝室へと音を立てないように慎重に、しかし足早に向かったのだった。
結果として、賢者の行った行動は少女を歓喜させることとなる。
賢者の善意は、少女にとって「神の慈悲」にも等しく見えた、それは事実だ。
だが、悲しきかな。
少女の目に映るものは、少女の気を引いたものは、少女を喜ばせたものは。
賢者の思惑から遠く外れたものだった。
そして何よりも。
賢者はその在り方ゆえに知らなかったのだ。
理解できていなかったのだ。
「ハーフエルフ」の少女が抱えていた、深い深い心の傷を。
時として心の天秤が、「苦痛な生」よりも「安息の死」に傾くことがあるということを。
賢者の善意が、人としての善性が、少女の心をどうしようもなく焦がしていたことを。
それはまるで、太陽の光に恋焦がれ近づく程に、醜悪なその身が焼き尽くされていくように。
当然の結果だ。
自身の中の「感情」にすら向き合うことをしなかった男が。
どうして他の誰かの「感情」を理解できようか。
だが、それは始まりに過ぎない。
この長い長い物語の、最初の数ページに過ぎない。
そして、賢者は向き合い始める。
己の「運命」と。
彼の生涯でたった一つの「偶然」と。
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