賢者と出会い
両方の手で持っていたお盆から片方の手を放し、僕は空いた手で寝室のドアを開ける。
普通なら手を放した瞬間、力のバランスを崩したお盆は不安定に揺れるだろうが、そんなそぶりは少しも見えない。
力の支点のうち一つを失ったはずのお盆は、変わらず地面と水平な状態をキープしている。
まるで、手を放し虚空となった空間には見えない手が存在していて、今なおお盆を支えているみたいだ。
僕は特段体格に恵まれているわけではない。
が、普段からかかさずこなしている特訓によって、腕力には少しばかりの自信があるのだ。
それに鍛えているのは腕力だけではない。
平衡感覚や判断力、敏捷性、
その成果は、こういった日常でのほんの一瞬の風景に、ふとした瞬間に垣間見えるのだ。
あとは経験だ。
このお盆を片手で持って寝室に入る、という数えるのも馬鹿らしいほどの回数の試行の成果でもある。
今は昔の話だが。
ドアが開くときにギギギと鋭い音が鳴るのは相変わらずだ。
仕事を果たし終えた片腕を、お盆の持ち手に戻しながら僕は部屋の中に入る。
だが、部屋の中の景色は先ほど料理を作り始める前とは一変していた。
元々、簡素な部屋だ。
何かちょっとした物があってもなくても大して区別はつかないし、そも気づきもしないだろう。
だけれども、それだけは例外だ。
なぜなら、その存在は僕がこの数日間、ずっと気にかけ続けてきた存在なのだから。
最近の僕の思考や行動のほぼ全ては、彼女が独占していると言っても過言ではない。
それゆえに、僕はすぐに異変に気が付く。
ドアの正面、木製の大きめなベッド。
そこで横たわっていたはずの人物がいない。
少女の姿が綺麗サッパリなくなっているのだ。
僕は内心で慌てふためいた。
ここまで、気持ちが乱れるのも数年ぶりだ。
それほどの焦燥と不安。
彼女の傷は確かに完治したが、その身に残る疲労を考えれば、まだ外なんかには到底出てはいけない状態だ。
治りかけの今に無茶をして、取り返しのつかないことにならないとも限らない。
どこに行ったのか分からないけれども今すぐに捜さないと---!!
彼女が、どこに行って、何をするか。
それは彼女自身の自由だ。
これから先どうするか。
その選択は全て彼女に委ねるつもりだ。
彼女の人生は、彼女だけのものなのだから、そうするべきだろう。
僕はその手助けをほんの少しだけ、彼女の背中をほんの少しだけ後押しするだけだ。
例えそれが賢者の矜持に背く行為であったとしても、これくらいならあの人も許してくれるだろう。
人生とは、無数に枝分かれする線の集まり、その中のたった一本のことを指す。
人生とは、限りなく無限のように見える有限の可能性の中から、掴み取ったたった一本の線に他ならない。
人生とは、自分自身との対話の積み重ねに他ならない。
人生における一分一秒、全ての瞬間において、自分が何をすべきかを選択する。
自分自身の心に問いかけながら、最善だと思うべきことを為す。
心との対話、行動の選択、その積み重ねこそが人生だ。
だから、僕は彼女を助けると決めた時に、初めから彼女をこの森から返すことに決めていた。
僕には与えられなかった選択だけに、彼女には与えたかった。
それは僕自身のエゴなのかもしれない。
それでも彼女の人生に僕なんかが介入するべきではないと、彼女が僕の人生に影響を与えるべきではないと考え、その結論に至った。
だが、それは条件付きの結論だ。
彼女が心身ともに元気になる。
この条件を満たした時に初めて為すべき事だ。
今はまだ、到底その時ではない。
彼女には、まだここにいてもらわないと困るのだ。
義務があるのだ。
助けてしまった者には、助けられた者の面倒を見る義務が。
僕は、それを誰よりも身をもって知っていた。
ベッドの前に立ち尽くしたまま、心臓の鼓動が負の感情により加速する。
加速するのは拍動だけではない。
即時対応する為に思考も加速し、それにつられて身体の感覚までも研ぎ澄まされる。
平時から戦闘・緊急時用に思考を切り替える訓練もよく行っている。
心の内での思考の長さに反して、現実での経過時間は短い。
そして研ぎ澄ました感覚の中で僕は気づく。
いや、感じる。
誰かに見られている。
感じた視線の正体を探る為に、首をゆっくりと左側に回していく。
部屋の隅まで視線を向けるが、何もない。
視線の元はこちら側ではなかったらしい。
では、反対側ではどうか。
左に向けた首を今度は右へ、振り子運動させる。
そして僕は部屋の隅で、もう一つの異変に気付く。
と同時に、体中に張り巡らせていた気を、鋭敏化させていた五感を、鎮める。
心の中でホッと安堵のため息を一つ。
辿り着いた視線の先には、ベッドの毛布があった。
ただし、毛布は丸々と膨らんでいて、一目で中に何か入っていることは分かる。
その姿はさながら、まるで絵本の中のお化けのようだ。
そのままお化けの全体像を眺める。
お化けの頭らしき部分、その毛布の隙間からこちらの様子を伺う眼光が見えた。
瞬間、お化けは顔を伏せた。
身体がプルプルと震えている。
僕は、その感情の源が何なのかすぐに分かった。
それは、「不安」と「恐怖」だ。
当たり前だ。
ここまで来るのに彼女がどれだけの傷を負ってきたのか。
どれだけの苦しみを味わってきたのか。
その大きさは計り知れないし、想像するしかない。
だけれども、決して幸福な人生を歩んでこなかった事、それだけは分かる。
体に残っていた傷痕が彼女自身の人生を代弁してくれていた。
そして、その原因となったものは何なのか。
ほぼ間違いなく「人間」だ。
この世界は東西南北に袂を分かつ、四大国家によって統治されている。
それぞれ、西の王国、東の帝国、南の聖国、北の魔国、だ。
この場所、賢者の森はその中の王国領に属している。
世界地図で西側に領土を持つ王国領、更にその南西の果てに位置するこの森は、「人間」以外の存在と最も縁遠い場所だ。
無論、踏み込む「人間」自体も皆無だが。
事実として、この森を抜けた周辺には「人間」しか住んでいない。
他種族が生息しているという事実はない。
……、はずだ。
僕が本で得た知識が間違っていなければ。
その前提が正しいとした上で、ここに1人の少女が迷い込んだということ。
その少女が満身創痍であったこと。
更には、その体には他者に加えられた無数の傷があったということ。
これらの情報を統合すると、この少女が「人間」によって酷い目にあわされたとすぐに想像がつく。
ゆえに、「人間」の形をした僕の事を、少女が恐れるのも無理はない。
この身はあの日から、そんな
それを思うと、やり場のない気持ちが心の中を燻る。
どうしようもなく心が痛む。
でも、だからこそ、僕は嬉しかった。
目の前の少女が自力で動けるほどに回復した。
その事実が、まるで自分のことのように、いいやそれ以上に嬉しかったのだ。
こんなに嬉しく感じたのは、いつ以来だっただろうか。
余りの嬉しさに、気持ちが逆流して顔に出てきてしまう。
それほどの喜びを、僕は感じていた。
一歩、また一歩。
僕は少女の傍に、歩み寄る。
僕が少女に近づくたびに、彼女はその震えを大きくする。
彼女との距離と、彼女の中の「不安」と「恐怖」の感情が、反比例しているのを感じ取る。
距離が縮まれば縮まるほど、彼女の中の感情は強く大きいものになっていく。
それでも、僕は歩み寄る。
お盆を物置台に置いて、足早にこの部屋から出ることもできた。
だが、僕はそれをあえてしなかった。
確かに僕がこの場から立ち去れば、少女の中の「不安」と「恐怖」は収まるのかもしれない。
けれども、それは一時的なものだ。
彼女はこれから先、僕の事を見かけるたびに震えることになるだろう。
少し荒療治かもしれないが、彼女の心を苦しめ続けている原因を。
「不安」と「恐怖」を取り除いてあげたかった。
少女に理解してほしかったのだ。
もう怯える必要も震える必要もないんだと。
この幼き少女に伝えたかったのだ。
僕の心からの気持ちを。
そして、言葉を紡げない僕には、こうするしか方法がなかったのだ。
その時が来た。
歩みを止める。
目線を彼女に固定する。
片膝をつくように、姿勢を少しずつ下げていく。
やがて、彼女と僕の顔の高さはほぼ同じになる。
しかし、俯いたままの彼女の顔を見ることは叶わない。
彼女の横に、出来立ての料理が乗ったお盆を置く。
コトッと音が鳴り、部屋の静寂が一瞬破られる。
その音に呼応するかのように、目の前のお化けは顔を上げる。
少女の素顔が露わになる。
こんな顔をするのは、生まれて初めてかもしれない。
いや、少女の事を思うと、その表情は自然と心の内から湧いて出てきた。
だから、こんな顔になった、のは生まれて初めてかもしれない。
僕は、自分の気持ちを、本心を、ありったけの感情を、彼女に伝えた。
最も、「黙示の賢者」として相応しい方法で、彼女に伝えた。
言葉ではなく、表情で、彼女に語って見せた。
心の底からの笑顔で、彼女に語って見せた。
君が元気になって、本当に良かった---。
それが、僕と彼女の。
賢者と少女の、本当の、最初の。
出会いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます