賢者と夢
何かが頬を伝う感覚。
これは何だろう?
冷たい、でも温かい。
これは……。
涙だ。
懐かしい夢を見た。
最近は夢なんて見ることなかったのに。
あの人のことは割り切れたと、そう思っていたのに。
やっぱり、僕にはあの出来事をそう簡単に忘れることはできないらしい。
流れた一筋の涙はその置き土産だ。
ハーフエルフの少女を拾った。
なんて、黙示の賢者らしくない行動をしたから彼女が怒って夢にまで出てきたのかもしれない。
でも彼女は何も言わなかった。
夢に出てきたのは、在りし日の想い出と追憶だけ。
夢の中の彼女と僕、その遠い日の記憶が揺り起こされただけだ。
夢の中での彼女と僕のやり取りは、全て過去に一度行われたもの。
まるで録画された過去の映像を第三者の視点で見直す感覚。
だから、夢の中に出てきた彼女が僕に対して語り掛けてきたわけではない。
そも、夢の中の人物に何かを言われたからといって、現実においての同一人物と同じことを考えているかは疑わしいものだ。
疑わしい、というよりかは同じわけがない。
それは夢を見たものの理想と希望と欲望とがないまぜになった、ただの幻影に過ぎないのだから。
それに彼女に限っては、「夢の中の彼女」と「現実での彼女」、双方の思考や意見が同一になる可能性は万が一にも存在しない。
「現実世界の彼女」が怒って夢にまで出てくるなど有り得ないことなのだ。
彼女はもう、この世界のどこにも存在しないのだから。
でも、このタイミングで彼女のことが夢に出てくる。
彼女の事を思い出す。
……、いや思い出してなどはいない。
彼女の事を忘れたことなど片時もないのだから。
彼女の事を想起する。
そういった夢を見たことは、何か運命めいたものを。
偶然ではないと、そう感じている自分がいるのだ。
そんな事を考えながら、意識が覚醒しつつあった僕は体を起こすのだった。
横になっていた上半身を持ち上げる。
蓄積していた疲労はいくらかマシになったが、その代わりに体の節々が少し痛い。
考えてみれば当たり前だ。
寝室のベッドで寝ることができない以上、他の場所で寝るしかない。
僕は居間の2人分の椅子を横に並べて、代わりの寝床としたのだ。
疲れ切っていたからか、椅子に横になってからの記憶はないが。
「失って初めて気づくものがある」とはよく言ったものだ。
椅子で寝て、初めてベッドでの寝心地の良さが分かるとは。
かといって、これに関してはどうにもならない問題なのだが。
確かに少女の体の小ささを考えれば、横に並んでベッドで一緒に寝ることは可か不可かで考えれば可だ。
だが、考えても見てほしい。
もしも、僕の目覚めよりも彼女の目覚めの方が早かったら。
少女の立場からしたら、見知らぬ場所で見知らぬ男と一緒に横並びでベッドで寝ているのだ。
その時の彼女の恐怖は想像に難くない。
彼女の身体状態と精神状態を鑑みて、余計な心配や不安を煽るようなことはできる限りしたくはなかった。
それで、少女の心地の良い睡眠が約束されるというのなら、僕の体の少しの痛みくらい安いものだ。
立ち上がった僕は、家の入口へと目を向ける。
生憎と、この古ぼけた家に時計などという洒落たものは存在しない。
その代わりに、出入り口から差す日の光、その輝きと色合いと強さからおおよその時刻を推察する。
……のだが、なんかやけに光が強いな。
というか、これはもろに日が入ってきているというか……。
もっと早くに気付くべきだった。
普段ならあるべき、陽の光を遮るべきものは、本来あるべき場所に存在していなかった。
あぁ……、そういえば……。
数日前のことを、彼女をここに連れてきたときの事を思い出す。
その時、僕はこの扉に蹴りを入れて吹っ飛ばしたんだっけか。
家の入口の床の方に目を向けると、突っ伏したドアが死んでいた。
……、今日やるタスクに一つ追加だな。
誰が見ているわけではないが、右手を帽子に手を当て、首を落としながら左右に振る。
いわゆる、「やれやれ」といったポーズだ。
そういった隠しきれない面倒な気持ちを身振り手振りを使って表現する。
そうして気を取り直して、再び床から入口の方に、光の差す方に、目を向ける。
夕方前、時間でいうと六時の十五分前ってところか。
ここに長年住む僕の経験と勘があってこそなせる業だ。
今ここに時計があったとしても、その時刻と三分のずれもないだろう。
内心で自慢げにしながら、そう強く確信する。
今日の朝方に眠り始めたので、おおよそ半日寝ていたことになる。
彼女という介護対象がいるのにいくら何でも寝すぎである。
その事実に少し自身を責めながらも、まずは最優先事項の確認をすることとする。
さて、おおよその時間も分かったことだし、彼女の様子を見に行くとしよう。
今日という、残り多くはない一日の時間をどう使うかという課題はあるけれども。
なにはともあれ、まずはそれからだ。
寝室へ入るためにドアを開ける。
別段、強く開けたつもりはないのだが、ギギギとドアが悲鳴をあげる。
この前までは彼女の治療で慌ただしくて全く気が付かなかったが、このドアも大分ダメージがきてるな。
以前は、こんなに建てつけは悪くなかったし、音も鳴ったりしなかった。
原因はお察しの通り、僕の足癖の悪さなのだが。
このドアはわざわざ修理する必要もないか。
まだドアとしては充分すぎるくらいに機能しているしな。
なんて思いながら、寝室に足を踏み込む。
ベッドの傍まで寄って、彼女の様子を覗き込む。
そこにあったのは、無表情な寝顔だった。
その顔に浮かんでいるのは、安らぎでも、苦しみでもない。
まるで、お面を顔に張り付けているかのような、そんな表情だった。
どんな夢を見ているのだろうか。
果たして、夢自体を見ているのだろうか。
少女の表情からは何も読み取れない。
僕はほんの一瞬だけ不安になるが、論理的に考えて自分自身を納得させ、安心させる。
傷の治療は終わったし、栄養の補給も行っている。
疲労を回復させるために<
少女の容態は峠を越えてあとは回復を待つだけだし、自分の治療に不完全な部分はないはずだ。
そういった結論に至ることで、心の中の不安を無理やりに抑え込む。
となれば、今の僕が考えるべきことは、起きてきた彼女の為に何ができるかだ。
そろそろ彼女の目が覚めてもおかしくはないと思うのだが……。
そうして目を見やった先にある彼女の顔は、その無表情さも相まって、以前にした比喩そのもの。
本当に人形のようだった。
ふと不安になり、彼女の近くで耳をそばだてる。
……、微かだが、寝息がする。
生き物としての生命活動の証が聞こえる。
それを確認した僕は、心の中で声なき安堵のため息をつく。
心なしか顔色も以前よりもだいぶ良くなってきている。
なら、僕がここにいる必要は、ここでやるべきことは、現時点ではないだろう。
そう思い至り、寝室を後にする。
今度は音を鳴らさないようにゆっくりと慎重にドアを開ける。
……結局、ギギギと音は鳴ったが。
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