少女と逃避
暖かい……。
感じた温もりにつられて、私は目を開ける。
知っている天井だ。
とはいっても、この天井を見るのはまだ二度目なのだが。
そして私は思い出す。
昨日の出来事ではない、もっと直近の、最近の出来事。
夢を見ていた。
最悪な夢を。
ないものねだりもいいとこだ。
私の両親なんてどこにいる?
私のおうちなんてどこにある?
暖かで美味しいごはんを食べていいなんて誰が許した?
私と約束をしてくれる人なんて誰かいるのか?
そしてなによりも……。
たとえ夢の中だとしても、幸福な自分を、幸福な自分が存在しているという可能性を、不幸な私は許せなかった。
今まで、こんな夢を見たことは一度もなかった。
それもこれも、昨日の出来事のせいだ。
変に、「人間」として扱われて、「幸せ」を知ったから。
思い上がるんだ。
つけあがるんだ。
夢見るんだ。
昨日、寝る前に考えていたことはやはり正しかったのだと確信する。
やっぱり私は「人間」としての幸せを知るべきではなかった。
……、過ぎてしまったことを考えても始まらない。
そう思った私は相変わらず重い体を起こす。
今日も痛みは抜けないが、動く分には問題なさそうだ。
そうして、体を動かし、私はベッドに腰かける。
……、何かおかしい。
私は昨日、部屋の隅で毛布に包まって、いつの間にか寝ていたはずだ。
それがベッドの上にいる。
などと考えたのも束の間、私はベッドの横、物置台の上のとある物に目を奪われ、その先の思考を放棄する。
思考を維持できない。
思考を忘れ、私は歓喜する。
今まで散々だったけれども、神様は私を見捨ててなんかいなかった!!
いや、今までの事を考えると、当に私のようなハーフエルフのことは見捨てているのだろう。
だが、最後の最後に大きな慈悲をくれたのだ。
その神様の温情に、私は大きく感謝した。
そして神様の最後の慈悲に応える為に、私は思考を再開する−−−。
物置台の上には、果実がふた切れ。
形は「く」の字のように折れ曲がっていて、その背中には赤い皮が中途半端についている。
赤い皮の輪郭が鋭いあたり、意図的にこんな何かの耳のような形に切って残してあるのだろう。
実の部分は、薄く黄色がかっており、表面の反射された光は内部の瑞々しさを物語っている。
きっと、あの人が私の為にわざわざ用意してくれたのだろう。
起きた時にお腹が空いていたら可哀そうだと、配慮してくれたのだろう。
だが、私はそれに手を伸ばそうとはしなかった。
これ以上、「人間の幸せ」を知りたくなかったし、もしも食べたらまた一つ心残りが増えてしまいそうで。
それに、これからすることを考えると、とても食べる気分になれなかった。
つまり、だ。
今の私には、目の前の果実に対する興味など微塵もない……、と言ったら嘘になるが、少なくとも私の目を奪ったものではないわけだ。
私の目を、心を奪ったものは他にある。
とても甘美な誘惑だ。
今の私には、それに抗う術はない。
それをしない理由はない。
それをする理由しかない。
いや、最後に一つだけ与えられた優しさは、勘違いからくる自分なんかに向けられるべきではない優しさは、それを止める理由になりえるのだろうか?
ここで自問自答しても、頭の中をグルグルするだけで答えは出なくて。
でも、私はこれだけは決めていた。
最後に、私に「幸せ」を教えてくれたあの人には迷惑をかけないようにしたい。
ハーフエルフはハーフエルフらしく、独りで……、だ。
きっと、あの人はとても優しい人だ。
記憶の中の微笑みを思い返すたびに、そのたびに心の奥がポワポワする。
私は、ハーフエルフは、「人間の幸せ」を知るべきではなかった。
今朝出た私の結論は、やっぱり変わらないけれども。
それでも……。
その微笑みを曇らせるのは、私に与えられた「最後の幸せ」を「否定」してしまうようで、なんだかひどく躊躇われた。
だから、ここでそれをするのは何だか忍びなくて。
あの人に迷惑をかけたり、傷つけたくないから、気づかれたくなくて。
生まれて初めて受けた優しさを返す術は、私にはこれくらいしか思いつかなくて。
だから私は、ここではない何処かで、それをすることに決めたのだ。
まだ薄暗い室内を忍び足で音を殺して歩く。
部屋の扉をそっと開ける。
この家から出るために。
だが、私は忘れていた。
昨日、あの人がこの部屋に入ってきたときに扉がギギギと音を立てていたことを。
この家が、自分の想像以上に古い代物であるということを。
ギギギ……!!
慎重に開けたはずの扉は、いとも容易く悲鳴をあげた。
マズイ!! マズイマズイマズイ!!
あの人には気づかれるわけにはいかないのに!!
その音を止めるために、反射的に扉を閉める。
私は慌ててベッドへと駆け寄り、潜り込む。
息を殺し、様子を伺う。
しかし、いくら待っても、あの足音は聞こえてこない。
てっきり、音に気付いてこちらに様子を見に来るものかと思ったが。
……、もしかすると?
再びベッドから出た私は、扉を開く。
部屋の中は、問答無用で発せられる樹木の金切り声に包まれる。
だが、私はそれを気にせずドアを開け放つ。
そして、扉の下にある境界線を踏み越える。
そういえば、この部屋から出るのは初めてだ。
辺りの様子を慎重に伺う。
視界に入る部屋は二つ。
扉も二つ。
予想した通り、あの男の人の姿は見える範囲には存在しない。
こんな幸運があるなんて。
やはり、神様は私に最後の慈悲を下さったのだという思いがいっそう強まる。
目の前の空間、というには踏み込みすぎたが、私が今いる空間は居間らしい。
部屋の中央には大きめなテーブルといくつかの椅子が置いてある。
壁沿いにある家具は、どうやら食器棚らしい。
寝室のタンスと同じで、大部分が埃をかぶっている。
長らく使われていないのだろう。
そして居間を上から見て、自分の今いる扉とちょうど真逆の位置どり。
つまり私から見て、テーブル越し真正面は壁になっており、そこに一つ目の扉がある。
そして、右側に目を向けると、居間から地続きでもう一部屋ある。
地続きとはいえ完全に繋がっているわけではなく、部屋と部屋の境界線となるであろう木目の端っこ同士から、少しだけ木の壁が突き出している。
そのため、その部屋の両端がどうなっているのかまでは良く分からない。
パっと見た感じ、部屋の大きさはそんなに大きくないが、なにやら見たこともないものがやたらと多い。
更に部屋の奥の部分は全て、作業台みたいになっていてだいぶ高くなっている。
作業台の上には、いくつかの物が置かれていることは分かるが、その用途は私にはまるでさっぱりである。
少なくとも、今までの私の生活とは無縁な部屋であることだけは確かだ。
最後に左側に目を向けると、壁になっておりその中に扉が1つ。
これが二つ目の扉だ。
その扉の上部だけ、格子型にくりぬかれていて薄明かりが漏れている。
私は直感的に悟った。
この扉が家の出入り口なのだと。
分かりやすく家の中の状況を整理する。
居間を中心として、上下左右をイメージすると分かりやすいかもしれない。
家の中心である居間の右側を、私がさっきまでいた寝室とする。
すると、居間の左側は壁に扉があり、何か別の部屋。
居間の上側には壁がなく部屋が続いていて、何か作業場みたいな部屋だ。
居間の下側にも壁があり扉がある。
そしておそらく、この居間の下側の部分が出口なはずだ。
状況の整理は終わった。
音を立てても来ない。
見える範囲の家の中にもいない。
ということは、おそらくあの人はいま出かけているのだ。
私はそう結論づける。
だが、それがどこまでかは分からない。
もしかしたら、町まで行っていてしばらく帰ってこないのかもしれない。
もしかしたら、家の目の前にいて何か作業をしているだけかもしれない。
そこで私は、出口であろう扉の前を立つとピョンピョンと、なるべく大きな音を立てないように気を付けながら飛び跳ねた。
扉上部の空洞から外の様子を伺おうという魂胆だ。
視界が茶色と外の風景とで交互に切り替わる。
まだ陽は登っていないらしく、家の中の暗さよりマシとはいえ外の景色はまだ薄暗い。
外の風景として見えるのは、開けた平地と少し奥に見える森への入り口だけだ。
そこに人影は存在しない。
ならば、今以上のチャンスはないだろう。
この扉から見えない場所にもしもあの人がいたのだとしたら、所詮それまでの神様の慈悲だったということだ。
私は意を決して、外へ通じる扉を開け放った。
広がる視界、だがその風景は先ほど扉から除いたものと変わりなく。
それは家の正面付近には男がいないという事実を指し示す。
外へ踏み出し、家の外周をぐるりと回りながら辺りを見渡す。
家の横に畑がある。
その畑には、名前も知らない作物がたくさん実っている。
昨日の野菜スープの中身も、この畑出身だろう。
家の周りは平地となっており、開けている。
しかし、ぐるりと見まわしても視界の果てには緑しか見えない。
家の付近にこそは緑はないものの、周囲は全て森に覆われているのだ。
さらに周りの森の中でも、この家を中心にして通りやすそうな口を開けた道が何本か。
きっとこの家を起点として、森の各所に通じるようになっているのだろう。
だが、そのどれにも、男の姿はなかった。
私の考えは間違っていなかった。
そう思うとと同時に、家の中の寝室へ急いで戻る。
「神の慈悲」を手に取るために。
再びギギギと音を立てながら、寝室のドアを開ける。
目的のものに向かって、歩み寄る。
正面、ベッドの横、物置台の上、切り分けられた果実の側。
そこに「神の慈悲」はあった。
キラキラと暗がりの中でも輝くそれは、私にはとても美しく見えた。
薄闇の中で妖しく光る「それ」に、私は目を奪われる。
でも歩みは止めない。
いつあの人が帰ってくるか分からない状況の中だ。
私は急がなければならない。
それは分かっている。
「神の慈悲」が少しづつ、だけど確実に、手の届きそうな範囲に。
近づくたびに「それ」は輝きを増していくように錯覚して。
そのように思うことは、「それ」本来の用途を考えれば、おかしいことは分かっているはずなのだけど。
それでもそう思わずにはいられなかった。
そんな神様の後光のような輝きを、確かに「それ」は放っていた。
これから、私によって間違った使い方をされる「それ」。
いや、使い方を間違ってなんかはいない。
ただ、少し、少しだけ目的とする対象が違うだけだ。
「切って裂く」という本来の使い方を、「果物」ではない「別のもの」に適用するだけだ。
そして、ついに私は「神の慈悲」の目の前に立ち−−−。
目の前の果実を切り分けるのに使われたであろう「それ」を−−−。
「果物ナイフ」の柄を力強く握ると、家の外に向かって駆け出した−−−。
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