少女と賢者
賢者が森で少女を見つける前のこと。
時は少し遡る---。
走る、走る。
少女は走る。
ただひたすらに走る。
この深い森の中を無我夢中で走り続ける。
昼の日差しが彼女の肌を照り付けようと、夜の冷気が彼女の肌を突き刺そうと、決して彼女は歩みを止めない。
歩みを止めれば、歩く意思を失くせば、諦めてしまったら、そこで最後。
自分に待ち受けているのは、間違いなく「死」だろう。
いや、ただ死ぬだけならまだいい。
私が、最も恐れるもの、それは---。
あの地獄に連れ戻されることだった。
ふと彼女は思う。
いったいいつから私は走り続けているのだろう。
いったいいつから私は一睡もしていないのだろう。
いったいいつから私は何も食べていないのだろう。
それでも、前に進むしかない。
途中で木の根っこに躓いて転んだ。
そんなもの、大人に思いっきりぶん殴られる痛みからすれば比べるまでもない。
走るうちに鋭い草葉や枝に引っかかって肌が傷つく。
そんなもの、仕置きとして煙草を肌に押し付けられる痛みからすればこそばゆいほどだ。
普段なら何でもない春の日差しが、傷ついた彼女から容赦なく体力を奪う。
そんなもの、真夏の炎天下で従事させられる重労働に比べれば笑ってしまうほどだ。
夜の森の凍気が、彼女から体温と動き続ける意志を奪おうとする。
そんなもの、粗相の罰として真冬に布切れ一枚で丸一日放り出されることに比べれば大したことではない。
走り続けるうちに足の裏にはたくさんの豆ができ、今やそのほとんどが潰れて血が滲んている。
そんなもの、自力で立てなくなるまで全身を鞭で打たれることに比べればまるで天国だ。
こんな扱いを受けている自分ですら、殺されたり
ハーフエルフという
それ以外の「人達」など、いや、もはやその扱いは「人」とは呼べないだろう。
あれはもう、ただの「家畜」や「道具」と変わりない。
例えるならば、あそこは---。
この世の「地獄」である。
春の収穫祭で警備が薄くなっている隙に上手く逃げ出すことに成功したものの、私にはいくあてなんてどこにもない。
それどころか、この世界には
いや、きっとあの「悪魔たち」なら、私の事を再び喜んで受け入れてくれるだろう。
だが、あの「悪魔たち」が私の事を受け入れてくれているだなんて、死んでも思いたくない。
彼らはハーフエルフという「種」を、
決して、私という「個」を受け入れてくれているわけではない。
あの「場所」が私の今生の居場所だなんて、死んでも受け入れたくない。
あの「悪魔たち」は間違いなく今も私を捜していることだろう。
あそこにいた頃は、自分がハーフエルフであることに生まれて初めて感謝をしていた。
他の周りの「もの」と比べて、最終的な身の安全、生物としての最後の一線を越えた扱いがなされないことが確約されている出自に安堵した。
普通の人として生まれていたらこんな状況に置かれていないことを考えると、どうしても呪詛交じりの感謝になってしまうが。
だが、今はその
彼らはきっとこの世の果てまでも、私という存在を、ハーフエルフという
彼らは私という貴重品を探すためなら悪魔のような所業でも平気でするだろう。
文字通り、何でも、だ。
もちろん今だって十分すぎるくらいに、辛い、痛い、苦しい。
だけど……。
それでも……。
あんなとこにいるよりかは百倍マシだ---。
そして少女は歩き続ける、一歩でもあの地獄から遠ざかる為に。
此処ではない何処かへ向かって。
どれくらい歩き続けただろうか?
三日三晩ほどだろうか?
それともそれより長くだろうか?
やがて少女は、目前の木漏れ日を目指して木々の間を抜け、太陽の日差しをその身いっぱいに浴びた。
ちょうど森を上から俯瞰したら、居並ぶ緑一色の中、そこだけ大口を開けているのだろう。
少女は絶やさぬ歩みの果てに、木々のない円形の開けた場所へ出た。
いや、その場所が円形だなどとは少女は分からない。
今の彼女に周りを見渡す余裕など微塵もない。
瞳に映る視界は霞み、かろうじて歩みを遮る木が目前にないことが分かるくらいだ。
フラフラと、それでも歩き続ける。
だが、その歩みは定まらず、一歩ごとに足を前に踏み出す距離よりも、よろけて横にたたらを踏む距離の方が長いほどだ。
そして、円形の空間のちょうど中ほどまで来た彼女は突然倒れた。
言葉の表現が適切ではない、訂正しよう。
突然ではない、当然だ。
当然の結果として、少女は倒れた。
少女はもはや限界だった。
いや、限界などとうの昔に越えている。
いくらハーフエルフが人と人ならざる者の混血で、常人と比べて遥かに生命力が優れているとはいえ、彼女はまだ年端もいかぬ少女なのである。
むしろ、あの屋敷を出た時点で既にボロボロだった体の事を思えば、ここまで歩き続けることができたことこそが奇跡みたいなものだったのだ。
しかし、倒れたからといって彼女の意識がそこで途切れたわけではない。
体は既に限界で、糸が切れてしまった操り人形のようにピクリとも動かないが、確かに意識はそこにある。
そして少女は疲れ切り動けなくなった体とは裏腹に、意識が覚醒し、五感全てが冴えわたっていくのを感じ取る。
まるで、自分と世界が一体となっていくかのような深い深い感覚。
あぁ、これから私---。
死ぬんだ---。
そして少女は振り返る。
今までの自分の人生、その全てを。
死に瀕した時に起こり得るという走馬燈が本当に存在するというのであれば、今の彼女のような状態を指すのかもしれない。
自身の人生が早送りで最初から再生されていく。
しかし、その走馬燈もすぐに終わる。
少女は生きてきて、ちょうどその年が二桁になる頃合い。
振り返るべき記憶はそれほど多くはない。
思い返すべき想い出に至っては皆無だ。
あの日々には、痛いという「思い」はあっても、幸せだという「想い」はない。
そんなものは決して「想い出」とは呼べはしない。
そんな空虚な自身の一生を、少女は振り返る。
生まれは分からない。
どこで、いつ生まれたのかは分からない。
意識があった時には、既に天涯孤独の身の上だった。
気が付いたら、狭い狭い檻の中にいた。
そこでの日々には幸福は存在しなかったが、不幸もまた存在しなかった。
いや、その頃の私にはきっと何が幸福で何が不幸なのかも分からなかったのだろう。
その時の私には、何が幸福で何が不幸か、幸せの尺度を計る物差しがそもそもなかったのだから。
質素なものとはいえ食べ物はキチンと毎食くれたし、三日に一度は体を洗ってくれた。
それが普通だと思っていた。
そして、この生活がずっと続くのだと思っていた。
だけど、そんな日々は長くは続かなかった。
私に思い出せる次の記憶は暗闇だ。
檻に上から何かを被せられ、四方八方、全ての光が閉ざされた。
直前に、気持ち悪いブクブクと太った男が、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべた男が、ジロジロとまるでこちらを品定めをするかのように眺めていたのを覚えている。
そして、少女の視界は暗闇によって支配された。
ガタゴトと檻が揺れる。
これから一体何が起こるのだろうか?
分からない。
「未知」だ。
覚えている。
そこで私は生まれて初めて、得体のしれないゾワゾワとした言葉にしようのない気持ちを感じたのだった。
今ならその正体が分かる。
それは、生まれて初めての「恐怖」だ。
檻が小刻みに震える。
その震えに呼応するかのように私の体もビクッと飛び跳ねる。
そして、その震えが止んだ時、私は生まれて初めて檻の中から解放された。
そして、そこから先の記憶は思い出したくもない。
忌々しい、あの日々の始まり。
そこから先の生活は、まさに地獄だった。
それが彼女の「記憶の全て」だった。
自分にある全ての記憶を思い出したというのに、まだ意識がある。
まだ死んでいない。
神様は残酷だなぁ、妙にハッキリとした頭の中で彼女はそんなことを思い浮かべる。
結局、私は「無意味」に生まれて、「無関係」に生きて、「無価値」に死ぬんだ。
だれからも必要とされず、この世界に何も残せないまま死んでいくんだ。
その諦めのさなか、彼女は気づく。
死に瀕し、極限まで研ぎ澄まされた五感の中で彼女は気づいてしまう。
……、何か足音がこっちに近づいてくる!!
きっとあの悪魔たちがここまで追ってきたんだ!!
嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!!!!!
あの頃に戻りたくなんかない!!
お願い神様!! いますぐ私を殺してください!!
自由に生きることが許されないのなら、せめて自由な場所で死なせてよ!!
今までの人生、生きてて良いことなんて何にもなかった!!
だからいいでしょう!!
こんなちっぽけな存在の、最後の我儘くらい聞いてよ!!
お願いだからぁ……!!
嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!! 嫌だ!!!!!
もうここで終わりで良い!!
幸せなんて望まない!!
今までが不幸だった分、これからは幸せになる、なんてそんな御伽噺は信じない!!
不幸なら不幸なまま、終わりにしてくれればいい!!
これ以上、私を苦しませないで!!
生きながらえさせないで!!
どうして、どうしてなのよぉ……!!
ここで終わらないというのなら、これからもあの悪魔どもの下で生き続けるというのなら。
私は……。
私はそんな人生を……、そんな因果を……、そんな運命を……。
私は……、
「否定」
する……!!
「誰か助けて……、助けてよぉ……。」
「本当は死にたくなんかないよぉ……。」
「本当は今までの不幸が全部嘘だって思えるくらい、幸せになりたいよぉ……。」
「居場所が欲しい、安心して帰れる家が欲しいよぉ……。」
「家族が欲しい、私を私として受け入れてくれる人が欲しいよぉ……。」
「うぅっ、うっ……、ううぅ……。」
「うわあああぁぁぁん……。」
最後の力を振り絞り、彼女は蚊の鳴くような小さな声で泣きじゃくり、嘆願する。
それは傷ついた彼女の心、その最も奥深くに隠された紛れもない本心だった。
魂の叫びだった。
世界から拒絶された少女の最後の願いだった。
だが、その声は決して誰にも届くことはなかった。
そして少女の意識は闇に落ちていった-----。
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