賢者と少女

 この世界を分割する四大国家。

 その1つであるグラン王国にはこんな言い伝えがある。

「国のはずれ、南西の大森林には決して足を踏み入れてはいけないよ」

「そこには賢者が住んでいて」

「その森に足を踏み入れたが最後」

「賢者の弟子にされて二度と森から出ることは叶わない」

「やがて賢者が朽ち、弟子が新たな賢者となる」

「そして賢者は次の弟子になる者が訪れるまで、大森林で永遠に待ち続けることになるんだよ」

 と。










 グラン王国領 南西の果て 大森林にて(通称:賢者の森)


 小鳥たちの美しい鳴き声が空に響き渡る。

 日はまだ完全にはその姿をみせてはおらず、森の中はまだやや薄暗い。

 こんな時間に外を出歩くものがいるとしたら、それは早起きな散歩中の老人か、記事の配達の為に町中を足早に駆け回る熱心な新聞屋さんのどちらかであろう。

 いや、しかしここはグラン王国はずれ、南西の賢者の森。

 ここではそのような町や街、王都の常識は成立しない。


 だがそんな朝早くに、森の中を動く物影、いや人影があった。

 その人影はちょうど少年と青年の中間くらいの頃合いの若い男だ。

 男は真っ黒なトンガリ帽を目深にかぶっており、至近距離まで近づかなければ顔の造形を確かめることはできない。

 遠目からでは、かろうじて彼がおそらく何か金属製の眼鏡をかけていることと、髪の色が純粋な黒色であることが分かるくらいだ。

 細くスマートでそして何よりも繊細さを感じさせる造りの眼鏡は、彼が理知的な人物であることを初対面の人物にでも確信させ得るに足る程度には似合っていた。

 さらには暖かい春先だと言うのに、首には布を螺旋状に巻きつけている。

 その布は地味ではあるが、見るものが見れば作成者によって丁寧に織られた事は疑いようがなく、上品な新緑色の仕上げであった。

 端的に言ってしまえば、マフラーだ。

 だがこのマフラー、丈の長さが尋常ではない。

 その長さは優に首から腰を突き抜け、今にも地面と接触しそうなくらいの低空飛行を続けてパタパタと揺れている。

 この布は第三者からは首元から口元までの視界的情報を全て遮ぎり、より男の表情を読むことを困難にさせている。

 そして何より強烈な違和感を放つのはその服装だ。

 春先にマフラー程度なら、季節外れ感は否めないものの、身に着けている者が寒がりだったり、風邪をひいて体調が悪かったりしたのかな、程度の些細な違和感で済んだだろう。

 だが、この服装に関してはもはや擁護できない。

 男は、もう春になるというのに分厚い深緑色のローブを着込んでいた。

 ローブと言っても、いわゆるファンタジーの魔道士然としたものではなく、ところどころ動きやすいように余計な布地がカットされているなどの工夫がされている。

 例えて言うなら、重装備でかさばる魔導士のローブと軽装備で動きやすい旅人の服装をちょうど足して2で割ったような感じだ。

 全体で見た時のこの外装のちぐはぐ具合が、逆に彼が普通の人間ではないことを強調していた。

 その圧倒的な存在感を一言で総称すると、男はまるで……、

 噂話に出てくる……、


 


 のようであった。









 それから1,2時間後ほど。

 彼はで日課の朝のを済ませてきた。

 そして自身の住処、すなわち森の中にある木の小屋のあたりにいつものように戻ってきたのだった。

 改めて自分が暮らす小屋を外から眺めてみる。

 小屋、とはいっても人ひとりが暮らすのには不足は全くない。

 むしろ彼だけが生活する分にはスペースが有り余っているくらいである。

 そしてその家は、いったいいつに作られたのだろうか。

 そう思わずにはいられないくらい、素材として用いられている木からは年を経た樹木特有の心地よい匂いと渋くも深みのある色合いが引き出されていたのだった。

 この森で1人きりになって短くはないけれど、やはりあの輝かしい頃が懐かしい。

 想い出のたくさん詰まった小屋を眺めながら、そう思わずにはいられない彼なのであった。


 とはいえ、まだ普通の人が起きだすには些か早い時間だ。

 だが、彼の一日の始まりは早い。

 この後の朝の時間には花たちの水やり。

 昼には魔法や戦闘の訓練。

 それが終わって夕方までは小屋の横の畑で農作業。

 そして夜には1人静かに本を読む。

 大変ではないが、やるべきこと成すべきこと日々のルーチンワークは少なくない。

 いや、まだ正確には彼の一日は始まってすらいないのだが。

 そして、いつものように一つ大きく深呼吸をすると、彼はいつものように

 その瞬間、彼の黒き双眸は金色の光を纏い、その輝きはまるで太陽のようであった。

 

 どれほどの時間が経っただろうか?

 そして彼はいつものように眼鏡をかける。

 これで、彼の一日はようやく

 そして同時に、彼の一日は既に

 ……、そのはずだった。


 いつものように花と木々に水をやる。

 いつものように魔法と戦闘の訓練をする。

 いつものように畑で農作業をしていた時に彼は

 なんだか森が騒がしい、と---。


 小鳥たちの悲鳴、小動物たちの喧騒、木々のざわめき、それら全てを感じ取りながらそのどよめきの中心へ、異変の原因であるだろう場所へ彼は急ぐ。

 本来ならばそんなことはなのだ。

 だが、そんな気持ちとは裏腹に何か確信めいた予感が彼の心の内に芽生え、それが余計に彼を急がせる。

 結論から言うと、彼の予感は見事的中することとなる。

 その場所には……。

 1人の年端もいかぬ少女が倒れていた---。


 その少女は噂話を信じた賢者への来訪者と表現するには、あまりにも満身創痍な姿であった。

 身に纏うものは薄いぼろきれたった一枚のみ。

 春先とはいえ夜はまだ冷える。

 このような恰好では夜の寒さが骨身に沁みて凍えることになるだろう。

 体は衰弱しきっていて、体中に擦り傷や切り傷がある。

 特にここまで彼女を運んできた足は、肌身を守るものが何もない裸足のせいか、ところどころ皮膚が破れ、血が滲んでいる。

 きっとここまで見知らぬ森を草木をかき分けながら、途中で休むこともせずに無我夢中で走ってきたのだろう。

 よく見るとそれだけではない。

 彼女の体には森に足を踏み入れただけでは決してできるはずのない痣や火傷のあとが無数にあった。

 ここにくるまでに、よほど恐ろしい暴力や虐待にあっていたのだろう。

 それによってこの幼い身にどれほどの恐怖が刻み込まれたのかはもはや計りようもない。

 本来ならば、美しく光り輝くであろう金髪や、白磁器のように滑らかで透き通るように白いその肌も、今は泥や土埃にまみれ、その輝きを失っている。

 ここに来るまでの道程で何度も何度も転んだのであろう。

 その度に、この子は立ち上がって進み続けたのだ。

 金髪は肩の辺りで揃っており、そこから小ぶりな耳がピョコンと飛び出している。

 ただ、普通の人間と違うのは、その耳が小さいながらも、ということだ。

 その特徴が指し示す結論はただ一つ。

 この子はである。

 人間からは寿命と能力を恐れられ気味悪がられ拒絶され、エルフからは穢れた血統と忌み嫌われ認知されない。

 この世界における忌み子が、彼の目前に横たわっていた。


 彼は少女を前にして、視認して、一瞬、ほんの一瞬のあいだ硬直した。

 彼女がハーフエルフだから?---否

 彼女を助けるかどうか考えたから?---否

 彼の心にあったのは人生で最大のであった。

 その驚愕の中には、困惑、不安、何故、理解不能、そういった色々な感情が混沌と渦巻いていた。

 その自身の根底を覆しかねない事実の発覚に、そのあまりの衝撃から彼は一瞬止まってしまったのだ。

 その一瞬は、完全なる思考放棄状態。

 細い路地から車が飛び出してきて突然ぶつかりそうになった、その瞬間、と例えれば分かりやすいだろうか。

 驚天動地の出来事が起こったゆえのまさにパニック状態。

 その時の彼は冷静に物事を判断できる状態ではなかった。

 だが、それも一瞬のこと。

 彼女の状態を視認した彼は、その驚愕をなんとか無理やりに押し込め、彼女に向けて再び駆け寄る。

 自身の心の平静さを保つことよりも、ボロボロな目の前の彼女をどうするか考えることの方が先決だと彼は判断したのだ。


 そして彼女の目の前に立つと、また一瞬、動きを止める。

 今度の停止は思考の停止ではない。

 むしろその逆、より深く思考を張り巡らせるが故の身体的動作の停止。

 体を動かす分のリソースを、その脳に送り込み深く深く彼は考える。

 彼女を助けるか、それとも……、助けないか。


 彼は……、黙示の賢者は、自身の定めた賢者の定義を再確認する。

 を反芻する。

 誰とも関わらず、何もしない。

 故に、誰とも関われるし、何でもできる。

「無限の可能性」を体現し、内包するもの。

「誰でも」あり、「誰でもない」もの。

「全」であり「一」

「一」であり「全」

 それが彼の「基本原理」であった。

 

 だが、知ってしまった以上、見つけてしまった以上、人間は、いやいかに賢者と言えども、その事実に対して関わらずにはいられない。

 この今にも息絶えそうな少女を助けることも見殺しにすることも、一つのれっきとした「干渉」なのだから。

 しかし、彼にはどちらが正解なのかは既に分かっている。

 考えるまでもないことだ。

 頭ではその理屈を理解している。

 今までの賢者としての生涯全てをもって、自身の基本原理を体現してきた。

 今更、迷う必要などないことだ。

 簡単なことだ、一つでも多くの可能性を内包したいのであれば、このまま彼女を「見殺し」にすればよい。

 いや、「見殺し」というのは適切な表現ではない、正確には「見放す」だ。

 彼女のことを見放してしまえば、このまま彼がこの場から立ち去ってしまえば、賢者は彼女の生死を確定できない。

「確認できない」以上は、この後に彼女が「生きた」可能性と「死んだ」可能性の両方が賢者の中に存在するわけである。

 それが今の彼にとっての「最良の選択」だ。 

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 それなのに、僕は動きを止めてしまった、する必要のない思考をしてしまっている。

 彼女を見放せば、それで全てが解決するのに、それを認めたくない自分がいる。

 黙示の賢者としての結論はどうしたって決まっているのに、どうしてもそれを覆したがっている自分がいる。

 彼女を見放す利点よりも、彼女を助ける理由を探してしまっている自分がいる。

 何故なのだろうか。

 彼は自分自身の心に再び問いかける。


 その時、賢者の脳裏をとある光景がフラッシュバックした。

 あの人との出会いを思い出す。

 自身の遠い記憶を思い出す。

 あぁ、そうだ。

 なんだそんなことも忘れていたのか、僕は---。

 

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 そして、彼は決断する。

 いや決断などしていない、二度目の逡巡も一瞬であとは体が勝手に動いていた。

 そして、それがきっとこの物語の、「黙示の賢者」の始まりだったのだ。

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