救えたのは
竜に馬鹿にするとかしないとかの感情があるかは分からないが、とにかく先程の小石は癇に障ったみたいだった。見た目通りの噛み合わせの悪い牙から火炎が漏れ出す程度にはイラついている様だ。威圧するかのようにその巨躯を揺らしながら迫ってくる。それは佇むだけで威厳を示す名君のようなものではなく、自分の力を無闇に振り回す暴君のそれに似ていた。
思わず手に握りしめた刃物を構えるが、こんな物では鱗に切りつけて嫌な音を立てる程度が関の山だろう。だが、切りつける場所が変われば話も変わってくる。
例えば眼を切りつける。恐らく相当なダメージになり、逃走も不可能ではなくなるかもしれない。が、長い首の上で周りを見渡すあの眼を切りつけるのは至難の業だろう。それにもしも近づけたとして、すぐ側にある牙から逃れられる未来は限りなくゼロに近い。
絶えず火炎が吹き出す口の中は論外だ。焼き焦げたあとに、噛み砕かれるのが容易に想像出来る。
であれば、一番狙いやすいのは翼膜だろう。見たところゴム質ではあるが渾身の力で突き刺せば包丁の刃位は通ってくれる筈だ。痛みは無いと思うが、飛べなくなれば多大な時間稼ぎが出来る……かも知れない。
などと、打開策を練っていたら竜の巨躯がぐらり、と大きく揺れた。しかし、姿勢を……崩した? なんて阿呆らしい考えは刹那のうちに消えてなくなった。
野太い音を響かせながら、死と恐怖を乗せて、振り回されたのは音に違わない竜の尾だった。迫る尾に対して凡そ数センチの距離、上半身を大きく後ろに逸らすかたちで避けることに成功する。背骨が軋む音すら掻き消す轟音には、最早冷や汗も出なかった。痛む腰をさすりながらも急いで射程距離から離れる。幸いにも勢いを上手く逃すことが出来ずに、バランスを崩したようで、追撃はこなかった。もし来ていたら恐らく五臓六腑は別の何かに変貌していたことだろう。
竜が体勢を整えて再び此方を睨みつける。正直なところ、次の一撃を避けられるという自信が、全部あの尾に持っていかれたような気分だった。
翼、爪、牙、尾、漏れる火炎の勢い。一挙一動に眼を凝らす。見逃したら黒焦げか、八つ裂きか、あるいは挽肉だろうか。
互いの思考が絡み合い、放たれた二撃目は、
その巨躯には似合わないほどの跳躍、つまりは超重量級の強烈なボディプレスだった。
リアムは戦慄した。
あまりに奇想天外な行動に、では無い。跳躍したその先、狙いはリアムではなかったのだ。
その着地点にいたのは―――
ヴィヴィアナだった。
「逃げ………ッ! ガッ!?」
逃走を促す言葉は最後まで続かなかった。強烈なボディプレスにより、抉られ、撒き散らされた大量の地面の欠片が、リアムの頭部に直撃したからだ。
頭が砕ける、まではいかなくとも勢いのまま倒れてしまう。だが自分の事など心配している状況ではなかった。離れていた俺でさえ被害を受けたのだ、ほぼ直撃だったビビはどうなった?
土煙と目に入った血で、視界がボヤけてしっかりと安否を確認出来ないが、小さな人影がゆっくりと動きだしたのが見えた。どうやら死んではいないようだ。だがホッとしたのも束の間のこと。乱雑に吹き荒れた暴風により、土煙は綺麗サッパリ吹き飛んでしまった。これが、ただの風だったらどれほど良かったことか。
その風を発生させたのは、やはり、先程の衝撃でも一切のダメージを負っていないのであろう竜だった。
グガァァァァァ――――!!!
今日だけで聞き飽きるほど聞いた咆哮。
だが、今度の咆哮は以前までのそれとは少し違った。そう、まるで、勝ち誇るかのような、そんな堂々としたものだった。
その直後、リアムは次に何が起こるか理解した。故に必死に走る。五体を犠牲にしてでも彼女を守るために。
一歩
竜の強靭な顎が開かれる。
二歩
躊躇い無く、剥き出された牙がビビに襲い来る。
けれど―――
ビビの近くに辿り着くことはおろか、走り出すことさえ許されなかった。もう間に合わない。少年には少し後に訪れるであろう死を待つことしか出来ない。当の少年はそれをどれほど悔やんだのだろうか。だが、悔やんだところで死の行進は止まらない。徐々に、しかし明確に少女に死が迫る。
そして、竜の凶牙が少女に降りかかる刹那
強烈な閃光が竜の鎌首を覆い尽くし、柔らかな風と共に消えてしまった。
何が起こったのかサッパリ分からなかった。悪意の権化が、恐怖の象徴が、先程まで容赦なく狂い猛っていたのに、少年は何も出来なかったのに。そのまま光が来なければ――――
少女は死んでしまっていたのに。
涙が出た、少女が死ななかったことが何よりも嬉しいから。
涙が出た、この後悔が二度目だと分かっていても動けなかったことに。
あぁ、分かっている。今はこんなこと考えずに、生きていることを喜ぶべきだってことくらい。
けれど、顔を上げることは出来なかった。命を繋ぎ止めた少女の姿を見ることが出来なかった。
悔恨に満ちている中、掠れた声が細々とリアムの元に届いた。
「あ…ぁ…リ……アム………?」
それはいわゆる絶望した者が出す声だった。そして、二度、少女のピンチに駆けつけることが出来なかった少年は、何を思ったのか。
ゆっくりと視線を上げるとそこには先程の衝撃で満足に足を動かすことが出来ないのであろうビビの姿と、竜の首から垂れる紅い紅い液体がビビに迫るところだった。
少年の動きに既に迷いはなかった。迷ったら迷った分だけ後悔を残すことになるから。今度こそ少年の動きを阻害するものは何も無く、真っ直ぐに進むことが出来た。
残り大股四歩。ビビと血液の距離は子供の体一人分位だろうか。粘り気があるのか普通の液体よりかはゆっくりと落ちてきていた。
残り大股三歩、ビビと血液の距離は先程の半分程度に縮まった。
二歩飛ばして、残り大股一歩。最早ビビと血液は目と鼻の先にあった。
今度は絶対に間に合わせる。一時は希望に笑った少女の顔は、どう足掻いてもどちらかが血を浴びるしかない未来に絶望していた。
そんなことは許されない。
だって、希望の中に絶望が混ざっていい道理なんてないから。
だから―――――――
「届けッ……! 届けェェェェ!!!」
そのままの勢いで、跳ぶ。ビビの体に手が触れる。
そして――
そして――――
そして――――――
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