赤レンガ通りのパン屋さん

 大きなガラス窓から見える店内は同じようにバゲットやクロワッサンが並んでいるが、どれも変わった色をしている。黄色だったり緑だったり。およそパンを想像したときには使わないカラフルなパンがいくつも目に飛び込んでくる。

 よく見れば普通の小麦色をしたパンもあるのだが、それに気付くのに時間がかかるほどあまりにも衝撃的な陳列棚だった。


「なんじゃあえらい怖いきょおたいお店じゃねぇ」


 自然とカンパーニュちゃんのなまりも強くなる。都会に出るからと必死に勉強した標準語はまだ身についていなかった。そんなことを言っていてもしかたない。ここで働くことはもう決まっているのだ。


 意を決してお店のドアを開ける。その瞬間に様々な香りがカンパーニュちゃんの全身を包み込んだ。ドルクで感じたものとは違う。小麦だけではない。他のパン屋さんにはない香りがしている。その理由はどうやらこのカラフルなパンの中にあるらしかった。


「抹茶、きなこ、大納言。珍しいもん使っとるんじゃね」


 伝統的なフランスパンにはおよそ使わない具材ばかり。本当に相性がいいのかもカンパーニュちゃんにはまだ理解できなかった。今までにこんな組み合わせを試したことなど一度もない。パンというのはバターやオリーブオイルと食べるものだった。


「いらっしゃいませ」


 初めて見るパンたちを眺めていると、店の奥から若い男の人が顔を出す。カンパーニュちゃんもこの人が雇い主だとすぐにわかった。粉にまみれた頬からのぞく無精ひげからしてどうやら昨日は帰っていないらしい。生地が張りついて乾いたエプロンにはこのカラフルなパンを色づけているらしい抹茶や果実の色が染みついていてまるでパレットのようだった。


「今日からお世話になるカンパーニュです。よろしくお願いします!」


 これだけは言えるようにと必死に練習してきた成果はあった。たぶん間違えていないはずだ。そう信じてゆっくりと礼をしていた頭を上げると、少し驚いたような表情でコトブキベーカリーの店長が迎えてくれる。


「そんなにかしこまらなくていいよ。僕はそういうのは苦手なんだ」


「でも、うちこれからここでお世話になるんやし」


「ほら。そんな感じでいいよ。僕はそういう言葉を使わないからちょっと羨ましいんだ」


 そんな感じ、と言われて、カンパーニュちゃんははっとして口を押さえた。そうしたところで出ていった言葉はもう戻っては来てくれない。長年親しんだ言葉たちは早々簡単に心から出ていってくれることも外に飛び出さずに静かにしてくれることもない。


「こんなんやったら、変に見えたりせえへんかな?」


「むしろ珍しくてお客さんに早く覚えてもらえると思うよ」


 お客さんに覚えてもらえる。それは立派な看パン娘になるための第一歩。それが少しでも早く実現できるのなら悪いことではない。


「ほんまに? こんなんでおかしな子じゃと思われんじゃろうか?」


「大丈夫だよ。奥から二階に上がれるからまずは荷物を置いておいで」


 言われた通り厨房の側を抜けて階段を上がる。外から見た通りのやや古い木の廊下は踏むたびにきしんでいるような気がする。白い壁紙もところどころに染みが見えて、ずいぶんと時代を感じるおもむきだった。花瓶の一つも飾られていない廊下は殺風景で、窓の隅にもほこりがたまってあまり掃除が行き届いていないように見えた。


「一人でパン屋さんって大変なんじゃろうなぁ」


 古いとはいえ三階建ての立派なこの建物で店長さんはほとんどの時間を厨房で過ごしているのだろう。早く一人前になって少しでもお手伝いができるように、とカンパーニュちゃんは自分の頬を軽く叩いた。


 簡素な部屋は机と本棚とベッドと洋服ダンス。ここだけは掃除をしてくれているみたいで光が差し込む窓にも曇り一つない。その代わりに物もほとんどないが、カンパーニュちゃん自身が持ち込んだ荷物を考えればちょうどよかった。


 先に引っ越し屋さんが来ていたらしく、部屋の隅には段ボール箱がいくつも積まれている。パン娘だって女の子だ。必要なものはいくらでもある。


「素敵なお部屋じゃねえ。今日からここで暮らすんかぁ」


 田舎ではもっと大きな部屋で、一緒に家族がいた。これからは店長さんと二人だけ。それに店長さんの部屋は三階だから、この広い階をカンパーニュちゃん一人で使うことになるのだ。ほとんど一人暮らしと変わらない。


「うち、一人で大丈夫なんじゃろうかなぁ」


 考えているとだんだんと不安になってくる。でもここでどうこう言っていてもしかたないことも間違いではなかった。


「よし、なんかお手伝いないか聞いてみよか」


 悩んでいるくらいなら前に進んだ方がいい。カンパーニュちゃんは荷物をベッドの脇に投げ、パン娘の象徴でもあるエプロンを手にリズムよく階段を下りていった。


「何かないものでもあった?」


 厨房からお店に顔を出すと、店長さんが今度は店頭に立っていた。パン娘がいない間はこうして接客のお仕事もやっていたのだ。


「いや、ちょっとでもお手伝いしょうかなって」


「遠いところから来たんだから、今日くらいはゆっくりしておくといいよ。もうそれほど忙しくはないからね」


「でもうち、ここに働かせてもらいにきたのに」


 立派な看パン娘になると言って出てきたのに、いきなりお休みでは先が思いやられる気がする。しかし店長さんはというとそんなことなどまったく気にしていないようで、うずうずと体を揺らしているカンパーニュちゃんの背中を間違った方に押してくれる。


「それなら近くのお店をちょっと見学して来たらどうかな。他のパン娘さんのお仕事を見るのもいい勉強になるよ」


「そういうことじゃったら」


 仕事を早く覚えることも大切だけど、街に馴染むことも同じくらい大切なことだ。パン屋さんがたくさんあるこの街で地元の人に愛されるパン娘でなければ、看パン娘を名乗れる日はどんどんと遠のいていってしまう。


 それにどこもすべて赤レンガ敷きの道が続くこの街は、方向音痴のカンパーニュちゃんにとってはずいぶんと難敵になりそうだった。田舎なら道がわからなくてもずっと先まで地平線が続いているから迷いようがなかったというのに。


「うち、街の人に会ってお店の宣伝してくるわ!」


「いや、そんなことしなくても」


 まだ何かを伝えようとしてくれている店長さんに大きく手を振りながらカンパーニュちゃんは通りを駆けていく。


「まぁ、あの元気さならみんなすぐに覚えてくれるだろうね」


 あっという間に道の向こうに消えてしまったカンパーニュちゃんを見送って店長さんはゆっくりとお店の中に戻っていった。

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