赤い部屋

 目が覚めると、女は白い部屋にいた。


 


 知らない部屋だった。その床に、女は横たわっていた。ひんやりとした床の感触が頬に伝わる。女は起き上がった。


 真っ白な壁や床はコンクリートに近い質感で、ひたすらに均質だった。空気の流れさえ存在しないように思わせるこの部屋の静けさは、美術館や博物館のそれを凌駕していた。


 床の広さは、一人暮らしの人間が住むような部屋程度のものだろうか。だが一面が隈なく白に覆われているという見慣れない状況ために、その推測も当てにならなかった。


 床の広さと比べると、天井の高さが際立っていた。女が見上げてみると、上に10メートルほど伸びた先にようやく天井がある。2階建ての建物の吹き抜けのような空間の広がりを感じた。天井も壁や床と同じく、白くなめらかだった。


 女は、私はきっと夢を見ているのだろうと思った。この場所についてまるっきり心当たりがないし、意識もなんだかぼんやりしている。それに、この部屋は不自然なほどに何もないのである。

 

 床を見てもひとつとして物は置いてないし、それどころか扉がなかった。どの側面も、無垢な白地が広がるだけである。扉がなければ、どのようにこの部屋を出入りするというのか。まさか、あの窓から? 女は見上げて訝った。


 この部屋に唯一「ある」ものは、窓だけだった。ひとつの側面の遥か上方に、その窓はあった。学校で見られる黒板ほどの大きさをした横長い長方形の穴が空いていて、そこからまっすぐに光が入り込んでいる。照明器具もないこの部屋に光を供給しているのがその穴であった。


 高い位置にあるため、角度が悪くその穴の先に何があるのかわからないが、女はその先が「外」に思え、そこに通じる穴を「窓」だと考えた。


 どう考えようが私の勝手だ、と女は思った。何しろここは私の夢の世界なのだから。扉のない閉じられた空間は女に安息を与えた。不可侵のこの部屋は、胎内環境を彷彿とさせたのかもしれない。


 何とは無しに立ち上がってみると、女は素足に無機質な冷たさを感じた。そこでようやく、自分が裸足、それどころか服も何も身につけていないことに気づいた。夢の中なのだからおかしくもないか、と変に納得した。


 女は少し部屋を歩き回ってみたが、すぐにやめて座り込んだ。何もないのだから見回りようもなかった。朦朧とする視界を持ち上げ、窓を眺めてみた。


 この白い部屋の安寧を脅かすものがあるとすれば、それは外界と接続するあの窓だった。身動きの取れない女を、その窓は高みから冷笑しているように感じられた。女はカーテンがあればあそこから注ぐ不快な光を遮ることができるのに、と思った。




 何もない部屋だった。女はすることもなく寝そべって、まとわりついていた眠気を吸い込み、眠りに落ちた。




***




 目が覚めると、女は見覚えのある白い部屋にいた。




 しんとした白い壁、床、天井。それらが高みにある窓から投げかけられる、不穏な光に照らされている。コンクリートの冷感が、以前と同じように全裸で横たわっていた女の半身に浸透した。


 また同じ夢か。女は肌寒さを感じ、不意に咳き込んだ。咳の音は一瞬のうちに天井まで巡っていき、反響して降ってきた。すぐに元の静寂が取り戻された。

 

 何もない部屋にいても退屈なだけので、女はこのまま寝てしまおうと思い、しばらく何もせず横になっていた。しかし、いつまでたっても床の硬さが鬱陶しく眠りを阻害し続ける。どうも眠気がなくなってしまった。


 うんざりして寝返りをうった女の目に、何かが映った。部屋の端、窓の真下の壁際に、何かがある。


 目をこらすと、それはジーンズのようだった。


 前はあんなものはなかった。一面白色の部屋の隅にぽつんとひとつ、ジーンズが無造作に置かれているというのはなんとも奇妙な光景だった。


 女は重い上体を起こし、ジーンズに近寄ってみた。丈は長く、色は淡いブルーだ。形状からして、おそらく男物だろう。何にしても女はこのジーンズに関しても心当たりは全くなかった。


 ジーンズを手に取ってみた。デニム生地の荒い触り心地が、新鮮に感じられる。強く握ってみると布地はじんわりと折れ曲がり、放すとそれは床に落ち、柔らかい落下音を鳴らした。


 新品ではなく、ある程度年季が入っているように見えた。ところどころに見つかる白っぽい色落ちは、誰かがこのジーンズを穿き古した結果の産物だろう。床に落としたジーンズの表面を片手で撫で付けながら、女はこのジーンズの持ち主はどんな男なのだろうと考えた。

 

 そして何気なく、女はそのジーンズを掴んで左右の足を通し、穿いた。


 サイズがひとまわり以上大きく、全く身体に合わなかったため不格好だったが、肌寒さは幾分か和らいだ。骨盤からずり落ちそうになるウエスト部分を片手で押さえながら、女は無意味に部屋を歩いた。窓からの光は、床に明るさのグラデーションを作り出していた。


 しかし、やはり何もない部屋だった。しばらくすると女はまた白い床の上に寝そべって、誰かのジーンズのざらつきを両脚で楽しみながら、徐々に眠りの世界に入っていくのだった。




***




 目が覚めると、女はまたあの白い部屋にいた。




 最初にこの部屋に来た時は身体が弛むような安息を得ていたのだが、なぜか今は得体の知れぬ不安感に漠然と呼吸を荒くしていた。女は一刻も早くこの部屋から出たいと思った。冷たいこの部屋にいては凍死してしまうと思った。


 穿いたまま眠ったはずのジーンズは跡形もなく、女はまた裸だった。氷のようにそびえる壁が跳ね返すまばゆい白色光が、残像として焼きつくのを煩わしく思いながら、女は部屋に何かないか探した。


 すると、部屋の端、窓の真下の壁際に何かが落ちているのを発見した。前にジーンズが置かれていたのと同じ場所だ。窓からの柔らかな光を受けて小さな影を落とすその物体は、ジーンズよりずっと小さかった。女は立つのも面倒だったので這うようにして近づき、それを手に取った。


 腕時計だった。見覚えはない。白地に1から12までのローマ数字が円形に並ぶ、シンプルな腕時計。クリーム色の皮革のベルトは、表面に引っ掻き傷や色むらが生じていた。


 ジーンズの持ち主と同じ男の所有物なのだろうか。女はその腕時計を左の手首に巻き、装着してみた。


 自分の肌の色よりも色調の穏やかなベルトのクリーム色を見ていると、女は自分の左腕が壁の白に溶け込み、引き摺り込まれて、最終的にはこの部屋の一部になってしまうのではないかという予感がした。


 寒さは一向に和らがなかった。全身を冷気に包まれ、女はひどく心細くなった。眠ってしまえばここから出られると思い、身体を寝かせた。脚を畳み、両腕で抱え込む。


 目を閉じ、右手の親指で時計の文字盤を覆うガラスをこすりながら、瞼の裏に広がる闇のみに意識を集中する。修行僧のように心頭を滅却しようと懸命だった。そうでもしないと、二度とこの部屋から出られないような気がしたのだ。


 足先から忍び寄る寒さに怯えながら、女はまた、眠りについた。




***




 目が覚めると、女は例の白い部屋にいた。




 凍てつく密室に女はたった一人で閉じ込められている。腕時計も消えていた。純白の部屋は、まるで全てが消し去られた跡のようだった。そんな不気味な空想に戦々恐々としながら、女は身に付けるものを探した。


 しかし、あったのは一本のビニール傘だった。畳まれたビニール傘が、窓の真下の、部屋の隅の辺に沿うようにして置かれている。ジーンズや腕時計と置いてある位置は同じだったのだが、いまにも床に沈んで消え入りそうにひっそりとしていたので、見つけにくかった。


 手に取り、開いてみる。濡れている様子はない。ビニール傘は透明ではなく、白い半透明な生地が張られていた。あまりにも白いので、背景と同化して境目がわからなかった。


 女は裸のまま、その傘を閉じたり開いたりした。そのうち、持ち手から伸びる棒の先、放射状に伸びる骨格が収束するあたりは、ビニールの白が少し汚れて黄ばんでいることに気づいた。これもあの男の持ち物なのだろうか?


 女はしばし、その顔も名前も知らない男のシルエットに思いを馳せた。


 だがそんなことをしている間にも、部屋の温度が女を身体を震えさせ、心を戦慄かせた。この部屋に来る回数を重ねれば重ねるほど、心室に土砂が詰め込まれるような圧迫感が増していき、なぜか女を焦らせた。私が白い部屋に閉じ込められている間に、世界はどんどん遠ざかっていく、女はそう思った。


 寒かった。女はビニール傘を両手に抱えながら、窓の方を見上げた。射す光はどんどん心細くなっている気がする。それなのに直視することはできなくて、女は座り込んだ。床につけた生身の尻は、張り付いてしまったかのように重く、再び動くことを拒んだ。


 女は絶望に打ちひしがれていた。二度とこの部屋から出ることはできないのだ、と。動くのを断念して、寝そべる。傘を差し、天井に向けて掲げてみると、上方からの光は遮られ、眩しくなくなった。


 そのまま身体をまたぐように、開いた傘を立てかけた。両手はその持ち手をすがるように握ったままであった。


 女は眠った。




***




***




 目が覚めると、女は赤い部屋にいた。



 

 瞼を持ち上げた瞬間、鮮やかな赤が視界に飛び込む。床にくっつけた側の頬に液体が触れる感触がある。女は仰天して飛び上がった。衝撃に息が止まった。


 ここは何度も来たことのある、あの白い部屋だ。だが今は、とても部屋とは呼べない状態だった。


 床一面が、深紅の液体を湛えているのだ。




 刺すような臭いで、状況を理解した。この液体は血だ。大量の血が床を覆っているのだ。


 女の動作に呼応して液体が波打ち、窓のある壁に跳ねてくっきりと赤い染みを刻みつけ、戻って来て女の両足の間に滑り込む。部屋がまた一段と赤みを増した。


 この鮮血は、男の身体に流れていたものなのだろうか。


 女は矢庭に横たわり、身体の背面を血の海に満遍なく浸けた。


 鉄の臭気が鼻を侵すのも構わず、そのまま転げまわり、全身を濡らす。女の身体が液体を押し出して発する音は、波打ち際に押し寄せた波が岩肌を激しく噛む時のものと同じだった。

 

 素肌を優しく舐めてくれる彼の血液は温かかった。女は死に物狂いで四肢を大きく振るい、液体をかき混ぜ、飛び散らせた。白かった壁が血が染みてどんどん赤く色づき、息吹きだす。


 飛び散って跳ね上がった一粒の血の雫が、閃いた。その様子を、猛り狂っていた女はスローモーションで捉えた。窓から溢れる光が粒の中で屈折し、女の目に届いたのだ。




 窓だ。今こそ脱出せねばならない。




 女の身体中に力がみなぎった。即座に立ち上がり、窓のある壁際に駆け寄った。そして手を伸ばし、窓を掴もうとした。しかし背伸びしても全く届かない。今度は飛び上がるが、一向に指先が窓の縁に触れる様子はなかった。窓まで人3、4人分の高さがあるのだから、届くわけがなかった。


 でも、今しかないのだ。私は最後のチャンスを与えられているのだ。あの窓からこの部屋を出て、世界に追いつかなければ、見捨てられてしまう。何を犠牲にしてでもあの窓に手を届かせないといけない。どうすればいい。


 


 女は、自分の右腕を噛んでいた。


 左の手で自分の右腕を固め、顎を引き締め、上下の歯を容赦なく肉に食い込ませる。


 切断されていく皮膚や繊維が溶岩が流れ出すようにどくどくと痛覚を刺激し、その痛みに女は悲鳴をあげた。


 それでも女は腕を喰むのをやめなかった。




 やがて食い破られた後から女の血が吹き出した。滝のように滴り落ち、音を立てながら床面に注がれていく。女は呻きながら、口から腕を離した。


 女の血と彼の血が混ざり合い、一体となって深紅の海に流れが生まれる。




 このまま血液で部屋を満たし、水位を上げれば、あの窓に手が届くはずだ。女はそんな愚蒙な企てをしていたのである。実際は例え女の血液を全て出し切ったとしても、水位が目に見えて高まるわけはなかった。


 そんなことにも気づかず、女は窓の外の世界を思い、赤い部屋の隅々にまで広がっていく自分の一部を長いこと見送っていた。

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紙と週末 佐藤有機 @anthracenec14h10

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