青
空の澄んだ青地を、くっきりと白い雲々が飾っている。太陽は強い日射をグラウンドに投げかける。南東の空から絶えず流し込まれる光と、地面の砂粒から沸きあがる熱によって、押し出されるように汗が僕の鼻先をつたう。
晴れた夏の日の温度を抱え込む広大なこのグラウンド。その中心に向かい合って立っている僕と彼女は、今、この街の誰よりも、空を広く見晴らすことができていると思う。
僕はこの場所を選んで、彼女に告白をした。
「君のことが、好きだ」
どこの街にもあるありふれた公園の中の、ありふれたこのグラウンドは、午後になると学校終わりの地元の小学生で溢れるところもまたありふれている。子供らは飽きるまでボールを蹴ったり駆け回ったりして、奔放に砂を巻き上げる。夕暮れのチャイムが鳴ったら、疲れ果てた彼らは晩御飯の献立は何かなと胸を膨らませ、家族の待つ家に帰っていく。
なんとも素朴な、カラッとした告白だった。「好きだ」という言葉を聞いた彼女は、うっとりとした顔つきで視線を上に少しずらした。まるで僕の言った「好きだ」を口の中で味わっているようだった。そんな風にして、彼女は僕の背面に広がる空を見つめていた。僕は彼女の返事を待った。
しばらくして、彼女は気付いたように僕を見、悪戯っぽい表情をした。ひときわ綺麗な彼女の瞳は見つめているうちに、海に溶け込んでいるような心地にさせられる。でも、この時は見つめる間もなく彼女はくるりと体を翻し、僕から遠ざかるように歩き出してしまった。面食らった僕に、彼女は向こうを向いたまま、言った。
「一緒に来て」
***
ようやく戦争の名残も消え去り、今年度からいわゆる「普通」の学生生活を送れることになった僕たち高校生。みんな取りこぼした青春をかき集めようともがいている。そんな学校中の急くような空気に嫌気がさして、僕と彼女はしょっちゅう学校をサボった。
二人とも片親ということくらいしか共通点はなかったが、自然と馬が合った僕たちは、頻繁に肩を並べて平日の午前の街を歩き回った。今日も例によって午前9時に公園の噴水広場で彼女と落ち合ったのだが、いつもと違ったのは、午前10時にグラウンドで彼女に告白したことだった。
僕を誘って歩き出した彼女についていくと、すぐにグラウンドを外れ、今まで入ろうと思いもしなかったグラウンド脇の奥深い林に入った。整備されておらず、木々も雑草も生い茂っている。照りつけていた日光は木の葉のフィルターに通されて木漏れ日となり、林の快い涼しさを演出した。スカートから下は素足なのに、彼女はためらいもせず草むらを突き進んでいく。僕も背の高い草をかき分けながらそれについていく。
やがて僕たちの目の前に、視界の左右にずっと伸びる金網のフェンスが立ちはだかった。フェンスの真上には平行して有刺鉄線が張られている。この向こうからは公園ではないのだろう。大きな公園だけど、林の奥にフェンスがあることは知らなかった。だが、多分この向こうがどこなのかは僕は知っている。
彼女はフェンスに沿って進み出した。左手の指をフェンスに這わせ撫で付けながらどんどん歩いていく。一体どこに向かっているのだろうか。邪魔な木々のせいで空が見える余地が無く僕は少し不安になったのだが、彼女の次の言葉を聞きたい気持ちが勝り、ついて行くしかなかった。
鬱蒼とした林をしばらくフェンスに沿って歩くと、金網がちぎれ、人一人くらい通れそうな大きさの穴が開いた部分を見つけた。彼女は揚々とそこに駆け込み、制服のスカートを片手で抑えながら屈み、よいしょ、と穴をくぐり抜けた。ずいぶん都合良くフェンスに穴が開いてるもんだ、と思った。
向こう側に出た彼女は金網越しに手招きする。しかし、目の前に佇む境界は、ひどく僕を拒絶している気がした。ここから先は、ひどく不潔な領域のように感じられたのだ。彼女はさっさと先に進んでしまっている。僕はやれやれ、と思いながら同じように穴をくぐり、彼女の弾む黒髪を追いかけた。
***
ついに林を抜け、開けた敷地に出た。地面はいつの間にかアスファルトになっていて草を踏み分ける必要もない。グラウンドにいた時のように広角で空を見渡せるようになり、僕の気持ちは幾分か和らいだが、そこから見下ろしたところに鎮座する巨大な造形物が視界に飛び込み、再び心がざわついた。
それは巨大なパラボラアンテナだった。半径が8メートルもありそうな、今まで見たこともない圧倒的な大きさの器が、天を仰いでいる。よく見ると、全体的に黄ばんでいて、ところどころ錆びて崩壊している。その枯れ果てた様子から、僕はそれが人工物にも関わらず、まるでこの街を支配する主かのように思えた。僕は、やけに恐ろしく感じられ、しばし釘付けになって見ていた。
背後の木々が風でたなびき、ざわざわと騒ぐ。雲の量がいつの間にか増し、太陽を隠したり隠さなかったりする。風が強まっているのだ。パラボラに気を取られていた僕は我に返った。彼女を探すと、だいぶ前方を歩いていた。
彼女は滑走路を横断していた。右の地平線から左の地平線に、均質に伸びた太い直線はやはり戦闘機の滑走路だろう。すっかり距離の離れてしまった僕は慌てて彼女を追いかける。
やはり、ここは基地跡だ。僕たちの住む国が十数年前に敗けてから、敵国の兵がここに駐在していた。公園の隣に軍事基地があるということは知っていたが、その中に入るなんてこと想像もしなかった。この広大な土地に立っている人間が僕たち二人だけというのは、不思議な感覚だった。
ようやく去年条約が交わされて、彼らはここを引き払って自国に帰っていった。それ以来、この基地は利用されることなく、有刺鉄線付きの柵で囲まれて放置されているのだ。
僕も滑走路を横切る。途中でふと横を見ると、地平線まで続く直線の収束していく先が、陽炎となり揺らめいていた。その光景がどうしても気になり、また足を止めて少しの間見つめてしまった。ここは、どうも落ち着かない。
陽炎の一部に基地の本部と見られる建物の集合体が見えたが、彼女の進行方向はそちらではなかった。彼女が歩を進める先には、滑走路の向こう側に孤立してぽつんと佇む直方体の建物があった。
彼女の目的地はそこらしい。自分が告白をしたという忘れかていた事実がふと蘇り、彼女の返事を追って僕は再び駆け出した。滑走路の横幅は見た目以上に長く、建物にたどり着くのにはとても時間がかかった。
***
ようやく辿り着いた直方体の建造物は、ツタにびっしりと表面を覆われ、壁面のコンクリートも黒く不気味に変色していた。年月に侵食された、まさに廃墟という有様だ。この建物の向こう側は、すぐまた奥深い林となっている。入り口にドアはなく、彼女は僕が追いついたのを確認すると、するりと入り口に入っていった。僕も後に続く。
内部も荒廃しきっていた。瓦礫や鉄パイプが散乱し、ガラス片が窓際に散っている。コンクリートや露出した鉄骨に反響する僕たちの足音以外には何も聞こえない、静かな空間だ。立ち込める錆びた臭いに息が詰まる。
この建物は二階建てで、部屋数もわずかだ。彼女は入って早々に階段を登り、二階のとある一室に入った。迷いない歩みから察するに、この部屋が目的地なのか。基地の敷地内に入ってからずっと高鳴っていた胸の鼓動が、どんどん強まってきていて、苦しい。
***
僕も部屋に入った。全身に感じる抵抗感に足が竦んだ状態で、恐る恐る部屋の様子を見てみる。
まずはじめに目に入ったのは、大きな天窓だった。天井の面積の半分以上を巨大なガラスが占めている。全体的に黄ばみ擦り傷だらけだが、割れてはいない。また分厚い雲でも通っているのだろう、あたりが陰っていることがガラス越しに見てわかった。
次に床に目を落とす。なんだろう、汚れた床の上に、いくつか布が乱雑に散らばっている。大きさから、布はシーツのような寝具と考えられる。ここは寝室だったのだろうか?
考えてもみれば、ここの寂れようは、一年前まで使われていたとはとても思えない。つまりこの建物は、軍事基地が機能していた時期からすでに廃墟だったはずだ。しかし床に放置されたシーツからは、去年や一昨年ごろに使われたような、妙な生々しさが感じられた。基地から少し離れて羽を伸ばせる兵士たちの溜まり場、のような感じでこの廃墟は利用されていたのだろうか、と考えてみたりした。
怖々部屋を観察する僕を、彼女は観察していた。この建物がどういう建物なのか、彼女は知っているようだ。試すように僕の顔を覗き込んでくる。僕は考えを巡らし、部屋の隅まで目を巡らした。
ふと一角に、何か不自然なものが床に落ちているのを見つけた。近づいてみると、それが何であるかは呆れ返るほど明白だった。薄汚れたコンドームだった。
そういうことか、と納得した。この廃墟は、基地に住む敵軍の兵士がこの街に住む女性を連れ込んで弄ぶのに使われていたのだ。
納得すると同時に、基地が出来たての頃は、兵士がこの街の女性を無理やり穢し子を孕ませることが数え切れないほどあった、という話を思い出した。
戦争に敗れた僕たちの住む街を、彼らは我が物顔で練り歩き、めぼしい女に目をつけては屈強な腕で押さえ込み、この廃墟に引きずり込んで、泣き叫ぶ女は殴りつけて黙らせ、犯したのだろうか。複数人で一人の女を囲んだりしたかもしれない。そんな嫌な想像をしてしまい、鳥肌が立った。鼓動がやがて痛みに変わり、僕は胸を押さえた。
「こっち向いて」彼女が言った。
はっとした僕は、立ち上がり、グラウンドでそうしていたように、彼女と差し向かいになった。彼女は意を決したような顔つきに変わっていた。
瞬間、烈風が吹き付けた。天窓がガタガタ軋み、砂埃がぽろぽろと落ちる。向かいの部屋の割れた窓から、木々が揺れ葉が擦れ合う大音量が流れ込む。まるで、熱帯の密林の中にいるような感じがした。向かいの部屋に気を取られていた僕が再び彼女を見ると、彼女が一つ、瞬きをした。
そして、彼女はこの場所を選んで、僕に告白をした。
「私も、君が好き」
風が吹きやみ、再び静寂が訪れる頃、太陽を隠していた雲が流されてなくなったのだろうか、突然空が晴れ渡った。天窓から光の柱が降りる。空気中の塵が流動しながら、彼女の顔をぼやかすように陽光にきらめくのが見える。胸の痛みは、なぜだろう、一生おさまらない気がした。
この建物は、僕たちから青春を奪った戦争のにおいが染み付き、たくさんの女性がレイプされたという物々しい歴史の古傷を抱えたまま、時と共に朽ちた地獄の跡だ。
どうして彼女はこんな舞台をわざわざ選んで、戦争という混沌とした血なまぐさい文脈の中で愛の告白を紡いだのだろう。
どうしてそれなのに、彼女のいう「好き」はどこまでも透き通っていたのだろう。
外から、ヘリコプターの駆動音が聞こえてきた。
僕は、彼女の瞳の澄んだ青を見つめた。彼女も僕を見つめた。ヘリが通り過ぎていって、その翼を回す音が次第に小さくなって聞こえなくなるまで耳をすませながら、僕たちは互いの目の色を観察していた。
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