紙と週末
佐藤有機
ふりだし
午後3時を回ってから急に雨が降りだした。雨の日の夕方は窓から入り込む光が心もとなく、室内では明かりをつけないと何も見えない。自室の照明のスイッチは入れず、あえてちっぽけな電気スタンドの光だけで400字詰めの原稿用紙を照らし、俺は小説を書いていた。
絶え間なく雨の降り注ぐ音はむしろ家の静けさを際立たせ、思考をクリアにしてくれるし、スタンドの電球が発する暖色は、机の上の用紙だけに意識を集めてくれるのだ。
***
9枚目の原稿用紙の、終盤あたりまで書き進めたところで唐突に、得体の知れない違和感に思考を蝕まれ、俺はボールペンを無造作に手放した。そして頭をぼりぼりと掻きながら用紙をめくり、綴った文章を見返す。
この登場人物は支離滅裂な思考回路をしているのではないか? この言動は主題から逸れているのではないか? そもそもこの人物は俺の物語に必要なのか? 冷静に見れば、文章の粗が溢れるほど目についてくる。9枚の原稿用紙に俺が細心に記した物語は、実のところは虫食いだらけの駄文だったということに、やっと気付いた。
行動の是非、人物の是非、表現の是非を脳内でかき回して、正解を探して悶えているうちに頭が熱くなってきた俺は、考えるのを止めた。9枚の用紙を、ぐしゃぐしゃに丸めて後ろの床に放り投げた。
子の産めない体になってしまった女が苦悩し、立ち直る物語を書いていた。俺の妻がそうなので、そのリアルな心情を描ける気がしたのだが、書き進めてからある時ふと読み返してみると、巧みな表現などどこにもなく、凡庸な、それどころか欠陥ばかり見つかる粗悪品になっていることが、いやでもわかってしまう。
「なれそう? 小説家」
背中越しの声に振り向くと、隣のリビングで居眠りしていた妻が、いつ目覚めたのか俺の部屋に来ていた。すぐそこにいても部屋が暗く、シルエットしかわからない。
「なれるかよ。小説で食っていくなんて正気の沙汰じゃない」
「読書感想文でなんとか大臣賞貰ったこととかあるんでしょ。有望株なんじゃない?」
「まだ書ききったことないから分からないよ」
「ふうん。それよりさ、昨日部屋片付けるって言ってなかったっけ」
皮肉交じりにそう言い、妻はおもむろに俺の部屋を片付けだした。片付けるということが苦手な俺の部屋は物で溢れ、足の踏み場もない状態になっていたのだ。埃をかぶってはいるがほぼ新品のままのギター、一度だけ試しに描いてみた割と自信作の水彩画など、床を占めていた俺の思い出の品々も一緒に壁際に積み重ねられていき、一つの山になった。
「これは捨ちゃってもいいの?」
そう訊ねた妻は、俺が床に棄てた紙の塊を片手に持ってしゃがんでいた。いいよと言うと、彼女はそれをごみ箱に放った。
適当に片付け作業を切り上げ、物をどかして出来上がった空間を前にして、妻はあぐらを組んで座りこんだ。それから、どこからともなく片手サイズのカードの束を取り出す。トランプのようだ。片付けの最中に見つけたのか。
「トランプなんて二人で何やるんだよ」
「一人でトランプタワーを作るんです。ヒロキはよそ見してないで執筆作業を続けなさい」
妻は2枚のカードを両手に1枚ずつつまみ、かがみこんで小さくなった。手以外の部位をぴくりとも動かさず、じりじりとカードをカーペットの上に立てる。だいぶ集中しているのか、とてつもない体勢でカードを組み立てていく妻の姿は微笑ましく感じられた。どうやら俺がずっと机に相対している間、彼女は暇を持て余していたようだ。
俺は机に向き直って、再び1枚目の原稿用紙に物語を書き出した。雨音を脳内からシャットアウトし、視界を用紙のマス目に限定するように努めた。
***
妻の不妊症が発覚したのはつい先月のことだった。今になってこそ俺たちは気に病むことはないが、いつか自分たちもそうなれると思い描いていた『普通の家庭』というものが、自分たちの手の届かないものだと告げられた時は、妻はやはりひどく沈み、ふさぎこんだ。一方俺は何を思ったかというと、ただ漠然と、失敗したな、みたいなことを考えたような気がする。
病名を告知された瞬間の、妻の表情を再度思い起こす。あの一瞬の戦慄を、悲嘆を、絶望を書き表してみたい。美しく形として残したい。そんなことを考えながらペンを走らせていく。いや、実際は「走らせ」てはいなかった。一つの単語を探し出すのにひどく時間をかけることもあったし、書いた文字をすぐに掻き消してしまうこともあった。遅々として進まない執筆作業の中で俺は、先のような違和感の来訪に常に怯えていた。
***
しかし、再びやられてしまった。5枚目の真ん中あたりだった。
言葉の扱い方が稚拙すぎはしないか? もっと適した表現は見つからなかったのか? 一度そんなことを考え出すともう、机上に偉そうに寝そべっているこの文章は、なんら有機的なつながりのない心と言葉を接着剤で無理やりくっつけただけの、硬質で血の通わないものにしか見られなくなる。目眩とともに、両腕がまるで骨を抜き取られたように脱力した。
気がつけば紙束を潰して、先ほどと同じように5枚まとめて投げ捨てていた。
「ちょっと! タワーに当たって崩れたらどうすんのよ」
「あ、悪い」
まだ2段しかないそれをタワーと呼んでいいのかわからないが、妻による塔の建設は一応進んでいた(何度再建したかはわからないが)。2枚のカードで三角形を形づくり、それを上へ上へと組み立てて高さを伸ばしていくのだが、1段目にはその三角が綺麗に6つ、一列に並んでいた。つまり、妻はこれを最終的には6段の塔にするつもりなのか。相当の大建築である。もう用紙は投げないことにした。
5枚の用紙を無駄にしたせいかすっかり書く気が失せてしまい、意味なく部屋を見回す。夕方の5時にさしかかっているため、室内は夜に近い闇に覆われていた。当然見渡しても目新しいものなど何もないが、そんな中、棚の上の写真立てに差し挟まれた写真一枚が暗がりのなか目に止まった。
俺と、妻と、俺たちの共通の友人であるコウジが、澄み渡る夏の空をバックに3人ともカメラに向けて笑顔を見せて写っている。俺も妻も、今より幾分か若い。確か5年前、3人で行った旅行先で撮った記念写真だ。妻が気に入り、今もこうして棚の上に飾っているのだ。
「コウジの子、そろそろ1歳になるか?」
「覚えてないよ。コウジくんの結婚式以来会ってないでしょ? かわいい奥さんだったなあ」
「え、そんなに美人だったか?」
「そうよ。上玉仕留めやがってって彼のことからかったじゃない」
「ふうん。だったら子供も美形なんだろうな。旦那の方の顔も悪くないし」
俺は棚に近寄り、写真立てからその記念写真を、何気なく抜き取った。あとでここに飾る別の写真を探そう。
そして息をついて、再び机に向き直った。左手で1枚目の原稿用紙を引き寄せ、右手でボールペンを握りしめる。数分脳内で物語の方向性を吟味し、それから書き出した。だが、その書き出しの時点で不穏な何かがまとわりついているような気もした。俺は構わず進めた。
***
数十分の格闘の末、結局出来上がったのは3枚のゴミだった。いや、3枚目の1行目で書くのをやめたから、実質書けたのは2枚分と言っていい。充分すぎるほどの時間を割きながら、注意深く、かつ一心不乱に物語を紡いだが、結局水泡に帰するのだ。比喩表現が的外れだ。接続詞の使い方がナンセンスだ。漢字を間違えている。字が汚い。
電気スタンドの赤い光が顔面を刺す。苛立ちを通り越した破壊的な情動に脅かされ、俺は脳震盪が起きたような錯覚にとらわれた。
そもそも俺は一体何をしている。特に面白みもなく人生を送ってきた男が、三十が近い年齢にもなって、情緒を感じる間もないほど執拗に雨降りしきる梅雨時の夕方に、なぜ小説を書いている。今まで完成させたこともない小説をなぜ。雨粒がベランダの床を叩きつける音が鼓膜を痛めつけた。
処女作となるはずだった3枚の紙くずは丸められ、見慣れた塊に変貌していた。もう今日は諦めて、明日またやり直そう。如何せん頭が痛かった。
そう思って体を机から退けた目の前に、こちらを見る妻の姿があった。
「ねえ、見て。完成した」
自慢げな口調でそう言う妻の指差す先を見ると、確かにトランプタワーと呼べるものがカーペットの上に出来上がっていた。カードが支え合ってできたたくさんの小さな三角が隙間なく積み重なり、全体の三角形を形成している。
だが、直立するその建造物を見て即座に、俺は違和感を覚えた。
思っていたよりも、ちっぽけだったのである。
そう思うのも当然であった。妻が指し示すトランプタワーは最下段から頂上まで4段しかなかったのだから。さっきまで6段に挑戦していたはずなのに、これで「完成した」と言う、この女は何をほざいているのだろう。
「まだ4段しかできてないじゃないか」
「最初はね、6段にしようと思ったの。でも無理だったからやめた。これで完成でいいや」
「……それに、2段目、ちょっと形が歪んでないか」
「そう? まあいいじゃない」
頭痛のせいか、どうにも頭が働かなくなってきた。俺は書き損じの三枚を捨ててしまおうと思い、膝に力を込めて立ち上がり、ゴミ箱に向かう。妻は自分の渾身の作を眺めていたが、俺が近づいてくるのを見てこちらに顔を向けた。
「それ、またボツなの?」
俺の右手に握られている紙くずを指差して喋り出す。なぜだか、この女の口から出てくる言葉にこれ以上耳を傾けてはいけないような気がした。こいつが話しかけてくることさえ不本意に感じられた。といっても、無視するのもよくないだろう。
「……ああ。頭が痛いから、ちょっと寝る」
「はやく完成させてね」
「うるせえな。だいたい、俺は小説家でもないし賞に応募するわけでもないんだから、締め切りなんてないだろ」
「まあそうだけど……。あ、布団敷くなら気をつけてよ」
「わかってるよ」
真夜中の屋外にいるような、ぼーっとする感覚がある。とにかく、全てがどうでもよい。頭蓋骨の中身が泥で満たされたような気分だ。一刻も早く横になって目を閉じたい一心で、ゴミ箱に紙を投じ、押し入れから布団一式を取り出す。
出来損ないのトランプタワーといえど壊すと怒り出しそうなので、風を巻き起こして揺らしたりしないよう、一応慎重に布団を広げる。合間、妻はゴミ箱を漁ったのか、俺が捨てたはずの原稿用紙を数枚広げて、読んでいた。自分の醜い部分が舐めるように見られているように感じられて腹が立ち、あとで取り上げようと思った。
しかし、布団を敷き終えたときには女はすでに読み終えてしまったようだ。紙を折り畳み、それを掴んだまま両手を膝の上に乗せて小さく息を吐いた。
そして最も言ってはならないことを言った。
「ヒロキの小説、面白いと思うけどなあ」
その一言のせいで、腹の底でぐらぐらと煮立っていたある種の感情を押しとどめていたものが決壊した。
溜まり溜まったありとあらゆる腐敗物がごちゃ混ぜに凝縮されて、爆発して身体中から吹き出る機会を今か今かと伺っていたような、そんなどす黒い感情である。
感覚が一気に鮮明になり、視界がその感情で一色に染め上げられた。
布団をその場に放って俺は大股で女に歩み寄り、折り畳まれて両手に掴まれていた数枚のゴミをひったくった。
女は次に俺が何をするつもりなのか悟ったらしく、俺の脚を必死に両手で抑え込もうとしたが、無意味だった。
俺はとめどない感情の奔流のままに、取りすがる女もろとも右脚でトランプタワーを力一杯薙いだ。
背の低い、脆弱な塔は音もなく崩壊し、カーペットにトランプのカードが散乱した。跡形も無くなった。転倒した女は起き上がり、キッとする。
「なにすんのよっ」
「離婚だ」
「え?」
「離婚だ」と何度も呟きながら、壁際に積み上げられた俺の思い出の品々で構成された山を、両手で崩していった。
さっき一瞥したギターや水彩画も、続けざまにはたき落としていく。なぜだかそうしたくてならなかった。
ギターが落下したとき、何かにぶつかったのだろう、弦の音が頼りなく響いた。
山を粉々に破壊してもやるせない俺は、布団を蹴り上げ、棚を倒して中身をぶちまけた。
女のおかげで中途半端に片付いていた俺の部屋は、俺のせいで一瞬で元のガラクタの海に戻ってしまった。
暴れ狂う俺を、妻はただ見ていたと思う。暗がりでどんな顔をしているのかはよくわからなかった。彼女は今何を思っているのだろう。突然離婚を告げられ、馬鹿らしいと笑っているだろうか? 理不尽な仕打ちに対して怒っているだろうか? それともあまりの唐突さに呆然としているだろうか? もしくは、悲しんでいるだろうか?
「離婚届を貰ってくる。ここにいろ」
妻は何も言わなかった。
床に先の記念写真が落ちていた。見ると、あけすけな笑顔を見せる妻とコウジの2人に比べて、俺の笑顔は何かがおかしいような気がした。直視できなくなった俺はそれを踏みつけ、雑な歩調で玄関に行った。
靴をつっかけながら勢いそのままに玄関ドアを思いっきり開ける。マンションの廊下に設置されているランプの灯りが家の中に射し込み、一瞬目が眩んだ。俺はマンションの廊下に出た。
***
玄関ドアが閉まる鈍い音は、雨音に溶け込んで反響しなかった。土砂降りの音で自分の脳内の声さえもかき消された。飛び散った雨粒が時折頰について顔を伝い落ちた。俺は玄関ドアの目の前でそのまましばらく突っ立って、向かいの家のベランダにかけられた、取り込みを忘れられ雨に打たれっぱなしの哀れな洗濯物のことを見ていた。
玄関ドアを開けた時に振り返っていれば、射し込んだランプの光で照らされ、妻がどんな表情をしているのか見ることができたな、と今になって気付いた。
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