第5話 ぐちゃぐちゃ

「そのまま力尽くで襲われてあたし誕生!的な?」


梨里は両手を広げポンッという効果音を付ける。

長いこと語ってくれた梨里には少し疲れが見えた。明るく振る舞っていたとしても、この話に対し知らず知らずのストレスがかかっていたのだろう。そう思う雫の胸には鈍痛が走るり口ごもってしまう。

しかし、梨里には悪いが強姦魔の子供なら中絶する選択肢もあったのではないだろうか?そんな雫の疑問に気付いたように、梨里は笑顔で人差し指を立てる。


「何であたしが堕ろされず無事生まれてきたか!でしょ?」


またも図星を突かれ手汗が滲む。せっかく梨里の為に履いてきたお気に入りのスカートなのに、皺がつくほどの力で裾を握ってしまう。雫の顔が強張る中、梨里は気にする素振りも見せず話を続ける。


「そんな事ありゃその辺りデリケートにもなるし、事が事だからそりゃ両親にもバレる。手遅れ段階まで放ったらかしなんて事もまずないよね」


涼しい顔で平然と話していた梨里だけれど、突然彼女の表情は幸福に満ちた満面の笑みへと変わり、両手をバッと広げる。


「レイプ魔とあたしは無関係だってさ!ママはあたしを1人の人間として生きる権利があるって言ってくれたの。両親や親戚からは、そんな子供が幸せになれるはずないだろーーって言われたらしいし、まだママも子供だったから考えが浅かったのかもしれない。けど…それでもあたしを生んでくれた。そして、あたしは今、間違いなく幸せなの!人生が楽しくてしょうがない。もし中絶されてたって考えるだけで死ぬほど恐くなる。最初はね、ママもあたしにそんなネタバレはしたくなかったらしいんだけど、当時はこの話が近所のお茶の間を賑わせたみたいでさ。6年生の時に同級生の男子から「レイプ魔の子供!」なんて言われたんだ。何言ってんだコイツ?って思ったよ!子供の無垢さだよね。それでママにどういう事か聞いたら、あたしにも分かるように話してくれたんだ。そしてね……生まれてきてくれて ありがとうって言ってくれたの!」


雫は何も言えず固唾を飲み込む。

雫の両親は愛し合った末、雫を授かり、そして生んでくれた。2人の愛の結晶として雫は大切に大切に育てられてきた。しかし、そんな境遇から生まれた梨里は誰よりも人生を謳歌している。生きている事の尊さ、その事を慈しむ事を梨里は知っている。


「ママには言えないけど、レイプされた事を感謝しちゃうときだってあるんだ。だってそいつじゃなきゃあたしは生まれてこないんだよ?そいつの精子ありきであたしだからさ。納得いかん所なくはないけど、ママを苦しめた事は許せないけど…お前がいてくれて良かったわって素直に思っちゃってる。………凄いイヤな女だよね、あたし…」


「そんな事ないっ!」


「ははっ」と笑う梨里に雫の声は反射的に飛び出した。肩を震わす梨里の手を雫は両手でぎゅっと握り締め、梨里の両目をジッと見つめる。

そんな事を言わないでほしい。生まれてきてくれて嬉しいのは雫も同じだ。言葉には出来ないが梨里にそんな悲しい事を言ってほしくない。握る手が痛くならないように優しく力を込めた。それが今、雫に出来る精一杯だった。


ー梨里がいないなんて絶対にイヤだ!梨里がいない人生なんて考えられないー


彼女に聞こえない声が心で大きく叫ぶ。

そんな雫の真剣な眼差しに梨里はきょとんとしながら、まっいいか!と話を続ける。


「それで、そいつの家が金持ちってのもあるし、社長やってる親父さんが……あっ、あたしのお祖父ちゃんなんだけどさ!息子とは真逆の超善人なんだ。あたしも会ったことあるんだけど、凄いダンディなおじいちゃんなの。で、今でもあたしら家族が生活出来るように支援してくれてるってわけ。これほど素晴らしい罪滅ぼしないと思うね」


「その…梨里のお父さんにあたる人は今どうしてるの?」


「知らない」


その言葉の冷たさに雫の背筋が凍る。

日向のような彼女から、氷点下のような声音が零れ落ちた事に雫は驚く。


「その一件で勘当されちゃったらしいけど、その後は消息不明。チャンチャン」


最後におちゃらける梨里だが瞳の色には寂しさが滲んでいた。人の人生を狂わせておきながら逃げたの?雫の心にトゲが逆立つような苛立ちが込み上げる。

しかし、梨里本人口では気にしていないと言っている。お祖父さんにあたる人には感謝もしている。ここで雫が苛立つのはお門違いではないか、そう思うと込み上げる感情を噛み締め殺すしか出来ない


「これが白樺家の事情。どう…?引いちゃったかな?」


恐る恐る訪ねてくる梨里に雫はハッキリとした口調で、心に届くように言葉を放つ。


「大丈夫だよ。梨里は梨里だし、梨里が生まれてくるより前の話なんだから本当に梨里とは無関係じゃん。そりゃビックリはしたけど…だからって何かが変わるなんて絶対にありえないから!」


気づけば雫は自分が前のめりになっている事に気がつき、慌てて身を縮め込ませる。こんな熱量を込めて言葉を紡ぐ事は普段の雫からはあまり考えられない事だ。熱くなった顔を両手でパタパタ扇いでいると。


「ありがと。雫は本当にいい子だな〜」


梨里が優しく頭を撫でてくれた。しかし、そんなスキンシップでさえ雫は照れて俯いてしまう。頭を撫でられるのは嬉しいが、雫の高鳴る心臓が保たない気がして気が気じゃない。その心臓の高鳴りを誤魔化すように雫は視界に入ったギターを指さした。



「梨里ってギターも弾くの?」


雫の頭を撫で回している梨里は視線をそらし苦虫を噛むような笑みでぽそりと呟く。


「弾けなくはない…」


「梨里のギター聞きたいかも!」


ベースを弾く梨里はいつも見ているが、ギターを弾く彼女は見たことがない。

雫からするとギターとベースの違いも最近になって分かってきた程の音楽知識だ。

何にしろ梨里が演奏する姿が雫は好きだった。ギターを弾いている梨里もきっと素敵なのだろうと雫の中で期待が膨らむ。


「別にいいけど、下手だよ?」


「やっぱベースとは勝手が違うの?」


「似てるのは見た目だけだからね。でも…まぁいいか。貴重だよ〜」


そう言うと梨里はアコースティックギターを手に取り、膝の上に乗せる。その姿はなかなか様になっており、チューナーで音を合わせる梨里の姿ですら雫はまじまじと見つめてしまう。


「いや、ここで見つめられてもハズい」


「はわっ、ごごめん」


「ははっ、別にいいけどさ。よっし、準備完了」


舌で唇を湿らせ呼吸を整える梨里の表情は少し強張っており、その表情を見つめる雫の背筋も自然と伸びる。梨里の「ふぅ」と吐き出す呼吸に部屋は彩られ、


「1.2.3.4」


最初の音が鳴る。その瞬間、目に見えない波のようなものに雫の身体は飲み込まれていった。心臓の隅々をぐるぐると掻き回され感情は丸裸にされていくような音の洪水。

それはまるで少女の人生が脳から足先まで 流れ込んでくるような激しく儚く、これが同じ高校2年生なのだろうか?どうやったらこんな風になれるのだろうか?疑問符が無限に浮かび、憧憬と焦燥の混同体は雫の全てを満たして溶かした。



「ふぅ………どう?下手っしょ?」


演奏を終えた梨里が照れ笑いで問いかけてくる。梨里のギターはお世辞にも上手いとは言えなかった。所々リズムはずれ、音も外し、歌も上手いとは言えなかった。けれど、失敗を恐れず技術にとらわれない演奏は、正に梨里の生き方を体現しており、そんな目の前の少女に対して掛ける言葉を今の雫は持ち合わせてはいなかった。

すると、瞳から一滴の水滴が膝に零れ落ち、それが何なのか気付いた時には抑えられない感情の粒が一つまた一つと雫の膝を濡らしていった。



「うわわわ!どうした!?」


肩を震わせながら、抑えられないこの感情を何処へ持っていけばいいのだろう?瞳に押し戻すように目元を拭うが、次々と溢れ出す感情をコントロールする術を雫は知らなかった。



「あ〜あ〜、こんなに流しちゃって」


笑いながら梨里は服の袖で涙を拭き取ってくれる。その事がまた嬉しくて、嬉しくて…さっきまで梨里に頭を撫でられ、しどろもどろしていたというのに、いつの間にか雫の耳は梨里が奏でた幸せの音の粒でいっぱいに満たされていた。



-♡-



カラスが鳴いている。日が沈み出し、子供達は帰る時間帯。雫と梨里は近所にある自然公園へ散歩に来ていた。

茜色に染まる池に浮かぶ鴨を目で追いながら、ひび割れた年季を感じはせるタイル張りの散歩道をのんびり歩く。




「雫帰るよーーー!ついでに公園行ってくるねーー」

帰り際、梨里が美咲にそう伝えると、パタパタ スリッパを鳴らした美咲が玄関まで見送りに来てくれた。

ご飯を食べていけばいいのにと、美咲は雫に駄々をこねていたが、最後には優しく、「また来てね」と微笑んでくれた。

その微笑みは雫の心に浸透し、梨里から聞いた壮絶な出来事など彼女は一切感じさせる事はなかった。

この人は喜びも悲しみも全てを飲み込み幸せに還元する力があるのだろう。雫は美咲の強さに感動し、そして、こういう人こそ大人と言えるのだろうと心から思った。




幼稚園ぐらいの少女が陽気に歌を歌いながらお母さんと手を繋ぎ歩いている。小学生の頃に習った童謡だったと思う。これから家に帰り、美味しい夕御飯を食べるのだろうか。


「カートはさ凄くアコギが似合うのね。その姿が堪らなく格好良いんだ!あたしもあんな風になりたくてギター始めたんだけど、ベースとは勝手が違うんだよね。似たフォルムしてるくせに詐欺かよーーーって」


梨里の歌を聞いてから心の置き場所を見失った雫は、何も口に出せないまま黙ったままになってしまい、そんな彼女に梨里はひたすら話しかけ続けた。


「いつか路上ライブやりたいと思ってるんだけどさ、メンバーからはやめろって言われるんだよ!あいつら、いつか見てろよ!」


無言を貫く雫に無邪気に梨里は笑いかける。

その笑顔に笑顔で返すことが出来ない雫は今どんな顔をしているのだろう。笑顔を作る事はこんなにも難しい事だっただろうか?自分の不甲斐なさから舌唇を噛みしめる。


すると、突然梨里は雫の前に回り込み、雫の頬を両手で挟み込んだ。目の前に立つ梨里は俯いているせいで顔が見えない。そんな急な出来事に雫はおののいてしまう。

ずっと無言で無愛想だった自分に怒ってしまったのだろうか?無視していたと思われたのだろうか?自業自得だとしても雫の心臓がざ

わつきだす。


「そんなに感動した?」


すると、雫が想像していたものとはまったく違う問いが梨里の艷やかな唇から紡がれた。

次の瞬間、足元のタイルには一粒の水滴が零れて弾けた。


「泣けちゃうぐらい感動してくれたんだ」


声は出せないが雫は挟まれている顔で何度も頷いた。


「嬉しいな…嬉しいな…」


ひび割れたタイルは沢山の水滴で黒く染まっていく。顔の見えない彼女の震える膝、口から漏れる嗚咽、溢れる涙。

出会って一年、決して短くない時間だ。

最近の梨里は沢山の表情を見せてくれる。けれど初めて見る梨里の涙に、彼女がどんな顔でどんな気持ちで泣いているのか雫には検討もつかない。


-抱きしめたい


脳裏にそんな言葉が過ぎった瞬間、雫の腕の中には既に梨里の体が収まっていた。一瞬驚いた顔をした梨里だが、次の瞬間には懐いた猫のように雫の胸へ身を寄せていた。

暖かく柔らかい梨里の体を身体中で感じながら、雫は空を見上げる。紫掛かった夕焼け空。飛行機雲。一番星。子供を呼ぶ母親の声。それに答える子供の声。池で鯉が跳ねる音。葉っぱの匂い。梨里の匂い。



【私にはこの子が必要で、この子にも私が必要だ】


公園の秒針がどれだけ時を刻んだだろう?

抱き合う2人の横を通行人たちが物珍しそうに、または心配そうに、または無関心に通過する。

風が吹き、残り少ない桜の花は吹雪となって2人を包み込む。日は既に沈み空が黒く染まる中、街頭はスポットライトのように2人を照らす。今、この瞬間を切り取れば、きっと誰もが見惚れる美しい絵画になるだろう。




「好き…」



それは無意識だった。


雫の意志とは関係なく言葉は勝手に口から溢れ、腕の中で梨里がビクッと肩を震わせた。


やってしまった。


雫の中で焦燥が駆け抜けるが、それでも雫は抱きし続ける事をやめなかった。やめられなかった。


心とはこんなにもコントロールが効かない代物だっただろうか?思考とはここまで絡まるものだっただろうか?身体とはこんな勝手に動くものだっただろうか?


いくつもの取り留めのない疑問が雫の中で生まれ、消化される事無く蓄積されていく。



もう分からない。

唯一雫に分かるのは自分が梨里をどうしようもなく好きだという事。それだけだ。

絡まり合う思考は渦となり楠木雫の心を飲み込んでいく。



あぁ…もう、ぐちゃぐちゃだ。

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が〜るず びぃ あんびしゃす みらい @debukinoko

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