第4話 美咲の過去と梨里の種

さらっと口に出された言葉はとても軽やかで、しかしドス黒く。ハンマーで殴られたような衝撃が雫の脳髄に走った。


「ど………どういうこと?」


梨里の口から発せられた言葉は単純明快。


【あたしはママがレイプされて出来た子供なの】


確かに梨里はそう口にした。こんな簡単な言葉を聞き間違えるはずがない。

言葉の意味は理解できる。しかし、脳は言葉の意味を、真相を拒もうとしていた。

いやな汗が滲み、口の中は乾き、無性に水分がほしくなる。何か言おうとしても喉で引っ掛かり、声が出てくる気配はない。



「あ〜〜〜〜、やっぱりこれ他人にはショッキングなんだ!今のなしなし!」


梨里が両手で慌ててバッテンを作り撤回を申し込んでくる。慌てる梨里を見て、雫はそこで初めて自分が唖然としている事に気が付いた。

しかし雫の中で今更この話題を無しになど出来るはずもない。ここで話を打ち切ってしまえばどうなる?雫が梨里に対し今後どう接したら良いのか、いよいよ分からなってしまう。最後まで聞くことで心の行き先が変わるのなら、聞くしかない。それが雫の選んだ選択だった。


「大丈夫…話して」


雫から強い意志を向けられた梨里はバツの悪そうな表情で頭を掻き、数十秒悩んだ末、観念したかのように口を開いた。


-♡-


梨里が話してくれた内容はこうだ。

当時 美咲は私立の名門高校に通っており、校内でもマドンナとして男女問わず大層な人気だったという。

入学したての1年生ながら、彼女に告白する男子はあとを絶たず、毎日のように呼び出しを受けていた。その時の美咲は特別恋人がほしいという感情もなく、言い寄る男子の申し出は丁重に断り続けていた。

しかし、ある日の放課後、父親が一流企業の社長をしているという漫画に出てくるような男に体育倉庫へ呼び出された。


もちろん彼も美咲へ告白を申し込みに来た男の1人だ。男は美咲より2つ年上の先輩で、校内でも人気が高く、女子からは高嶺の花と崇められる存在だった。


「将来僕と結婚すれば君は不自由なく暮らせるし、欲しい物は何でも買ってあげられるよ」


美咲は本当にこんな口説き文句を口にする人間がいる事へ驚く以上に、男は高校生だというのに恋人以上の関係を求めきた事に驚いた。これが未来を約束されている人間の思考なのだろうか?唐突過ぎる申し出に美咲はたじろいでしまう。

何より怖かったのは男の瞳の色だ。

ほがらかな笑顔を貼り付けた表情と甘い言葉の裏側で、欲しい物は必ず手に入れるという欲に塗れた色をしていた。


体育倉庫の埃や砂、汗の混ざった臭いが鼻につく。なぜこんな薄暗い所に呼び出したのか?ロマンの欠片もない。閉められたドアからは微かな光が指しており、美咲はその光が無性に恋しく感じた。


「ほら、こっちにおいでよ」


麻薬のように魅惑的な声音で男は美咲に手を差し伸べる。

甘美な笑顔。きっと誰もがその笑顔を向けられたいと願うのだろう。


「僕との赤ちゃんをつくろう」


その瞬間、美咲の脳内に警報が鳴り響いた。この男はやばい。情景反射でドアに向かって踵を返す。しかしドアに手をかけてもビクとも動かない。


「無理だよ。僕の友人たちがこの素敵な空間を作ってくれているんだ。早くこっちにおいで」


ドアをいくら動かしても一向に開く気配はない。ドアの向こうで人の気配がする。恐らく外から何人かで押さえつけているのだろう。

男が美咲にゆっくり近づいてくる。

欲に塗れたその立ち振る舞いですら品位があり、こんな状況でなければ美咲も彼を優しく紳士的な人間なのだと思い込んでいたに違いない。

美咲の身体が震えだす。恐怖でどうかなりそうな心は、今にも悲鳴を上げそうだ。

男が美咲に触れようとゆっくりと手を伸ばす。その時、恐怖が臨界点を到達した瞬間、美咲の頭で何かがカチッと噛み合う音がした。男の手が美咲の肩に触れそうになるその瞬間。


「ふざけないで」


美咲は伸びる手を勢いよく叩き侮蔑を孕んだ瞳で男を睨みつけた。


「何なのあなた?人の気持ちが全部あなたの思い通りに動くとでも思ってるの?自惚れないで。あたしはあなたのような人と付き合う気はないし、金輪際関わろうとも思えないわ。もうあたしの前に姿を見せないで!」


米神を痙攣させながら美咲は男に怒鳴りつける。温厚な美咲が喉を熱くするほど声を荒げたのはこれが初めてだ。そんな自分の隠れた感情に驚きを隠せずにいると、目の前に立つ男はまるで老人のように腰を曲げ、頭を抱え何かをぶつぶつ呟き出した。


「やだ、君といっしょじゃなきゃ、君といっしょじゃなきいやなんだ君は僕だけの僕だけのなんだ…君と僕のアカちゃんはきっとかわいいから、そのコをタンジョウさせないことはつみだツミだ罪だ罪だ」


男の言葉は早すぎて何を言っているのか聞き取れない。分かるのはその姿がとても不気味で、正常とは程遠い状態だという事。いくら嫌な人間だろうとこんな状態にってしまうと、さすがに心配にもなる。美咲は恐る恐る男に近付き声をかけてみた。


「ねぇ、あの…ごめん。大丈「罪なんだっっっっっっ」


男に掛けた美咲の言葉は男自身の声に掻き消され、その瞬間、男の拳が美咲の頬にめり込んだ。勢いよく吹き飛ばされた美咲の体は背後にあるバスケットボールの入った籠に激突する。沢山のバスケットボールが床で跳ねては転がり、それを視界に入れながら美咲は何が起きているのか理解出来ずにいた。

分かるのは物凄い剣幕で美咲を見下す男の顔。きっと鬼とはこういう顔をするのだろうと、美咲は場違いにもそんな事を思ってしまった。ドアの外では男子生徒の慌てる声が聞こえる。「おい、やばいんじゃね?」「だけど絶対邪魔するなって言われてるし」「金貰っちまってるしな」


殴られて変になってしまったのか、現状に反し外から聞こえてくる声が美咲を冷静にさせていく。こんな状況は絶望以外の何物でもないのに、美咲は自分の脳が急激に冷え切っていくのを感じた。


男は息を荒げ、美咲に覆いかぶさる。

もうダメなのだろうという諦めが美咲の心に自然と溶け込む。しかし、それと同時にこの男との歯車が噛み合う音が確かに聞こえた。


【子供が出来たのなら名前は何にしよう?男ならリク、女ならリリかな?】


美咲の思考もすでに正常と言えるものではなくなっていた。


乱暴にワイシャツのボタンが弾け飛び、下着は剥ぎ取られ、美咲はあられもない姿にされていく。

その中、視界に映る無機質な天井が、まるで祝福するように美咲と男を優しく見守っていた。此処は臭いな…自分の初めてがこんな汚い場所であることに落胆しながら、美咲の顔から零れたのは涙ではなく笑みだった。



そして



もう何を言っても聞く耳など持ち合わせていないその男の頭を、美咲は優しく抱きしめる。愛しい愛しい我が子を抱きしめるかのように。


人生は狂い始めている。


もう止めることは出来ない。


それはそれでいいじゃないか。


そして男の耳元で優しく囁く。


「いい子ね」

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