第3話 初めての訪問

土曜日と日曜日。この2日間がどれだけ幸福なものなのか、それは大人の階段へ足をかけた時に初めて知るのだろう。


澄み切った晴天のもと、楠木雫くすのき しずくは桜の木が立ち並ぶ遊歩道を歩きながら、週末の幸せを噛み締めていた。


せっかくの週末だというのに特に予定がない雫は、近所にある自然公園へお花見がてら散歩へやって来ていた。

ランニングをする老人、キャンバスに絵を書く老人、ベンチで空を眺める老人。思いのほか老人が多い事に気が付き、まだ20代の自分が場違いではなかろうか?と、うなじを撫でながら苦笑する。


4月にもなると舞い散る桜の木は満開時より膨らみを無くし、終わりの予感を感じさせていた。

しかし、満開に華やいだ桜よりも、しおらしく咲く桜の方が雫には儚くも愛おしく感じる事が出来た。


そんなことを考えながら歩いていると、正面から仲睦まじい2人組の女の子が、手を繋いで歩いてくる。互いに隔たりを感じさせない2人の空気感はとても微笑ましく、きっと親友同士なのだろうと自然に理解が出来た。2人の頭上からは花弁がはらはら舞い落ち、少女らを美しく彩っている。もしこの瞬間を切り取る事が出来たなら、どれだけ綺麗な絵画になるのだろうとついつい見惚れてしまう雫だった。

10代は生きていればすぐに終わってしまう儚い瞬間。10代を終えたからこそ感じられる切なさが雫を締め付ける。

だからこそ、今でもその瞬間に囚われている雫は、自分の横から姿を消してしまった少女の残像を追いかけ続けているのかもしれない。


-♡-


とある日の日曜日。

楠木雫16歳は最近気になる存在であり、親友でもある白樺梨里しらかば りりの家の前でぽつねんと立ち尽くしていた。閑静な住宅街はとても上品で、見るからに裕福な人々が暮らしているであろう家が立ち並らんでいる。この住宅街は一般家庭で育った雫には少し形見の狭さを感じさせた。


4月でありながら妙に暑さを孕んだ気温は雫の額を汗で滲ませ、そんな中、白樺家の前ですでに10分近く立ち続けているのは、雫の臆病な性格が災いし、押せば簡単に開く門すら潜れずにいるからだ。

1年間の付き合いでありながら、初めて訪問する梨里の家。今まで雫の家に梨里が出入りする事があっても、なぜか雫が梨里の家に行くことはなかった。


金曜日の放課後。

梨里の突拍子もない「日曜日あたしんちに雫を招待するよ!拒否権はないと思いたまえ!Hahahaha」という有無を言わせぬお誘いにより、雫はこの状況に立たされていた。


チャイムを鳴らせばいいのか、到着した事を電話で伝えればいいのか。

そんなつまらない事で雫はかれこれ10分間も頭を悩ませ続けている。

今後の人生が大きく左右されるわけでもなし、こんな事で梨里に嫌われるわけでもなし。しかし、この局面に立たされている雫本人には 、いくらくだらない事だろうと重要すぎる選択肢であった。

そして、悩みに悩んだ長考の末にチャイムを鳴らそうとしたその瞬間。


「あっれーーー、来てたの?早く上がってきなよーーー」


頭上から突然かけられた声に雫の肩がビクッと跳ねる。声が聞こえた方へ顔を向けると、大きく手を振る梨里が2階の窓から顔を出していた。いつもは長い前髪を横に流している彼女だが、今日はヘアピンでアップにしている。


「あっ、やっぱそっち行くねーーー待っててーーーー」


窓から覗く頭は内側へと消えていき、数秒と経たない内に目の前のドアが勢いよく開かれた。


「Hey!らっしゃーーーい」


「い、いらっしゃいました…」


「はい、スリッパその熊さん柄の使っていいよ!ママーーー雫が来たよーーーー!!」


大きな声で梨里が母を呼ぶ。

どうやら今日 梨里の母は家にいるらしく、対面する緊張感からか雫の体は無意識に硬くなってしまう。


「あらっ、あなたが雫ちゃんね!お話はいつもリーちゃんから聞かせえもらってるわ!わたくしリーちゃんのママ、白樺美咲しらかば みさき34歳と申します。専業主婦しています!この子いつも突拍子もないこと言うでしょ?呆れないで仲良くしてあげてね?あとあと甘いもの好きかしら?女の子だし好きよね?さっきクッキー焼いたのよ!あとでお部屋に持ってくから是非食べてね!あっ感想も募集中だから!」


最初の一声から洪水のように言葉を流し込む梨里の母 美咲のインパクトは娘と同等かそれ以上。それでも梨里の母親なだけあり、日本人離れした整った顔立ちに、華やかさを纏う美しい女性だった。

しかも34歳と年齢も相当若く、雫達ぐらいの年齢ですでに梨里を生んでいる事になる。そして毎日梨里のキャラ弁を作っている張本人だ。


「もう、ママ!そんな一気に喋っても雫が理解しきれないでしょ!クッキーは後であたしが持ってくからママはリビングでアニメでも観てて」


「あたしも雫ちゃんと仲良くしたいのに〜!リーちゃんのケチんぼ」



プクッと頬を膨らませる美咲はとても愛らしく、梨里とは親子ではなく姉妹なのではと錯覚させられる。こんな純粋無垢な人に育てられたからこそ梨里はここまで真っ直ぐな人間に育ったのだろうと雫は納得した。


「とにかく先に2階へ上がってて!ジュース持ってくからさ!」


梨里に背中を押されながら美咲は雫に「ゆっくりしていってね」と笑いかけ、リビングへと消えていった。

白樺親子の勢いに呆然としていた雫は、そこで初めて自分が一言も喋れていない事に気が付き、焦りと不甲斐なさで肩を落とす。

しかし、このまま玄関で落ち込んでいる訳にもいかず、梨里に促されるまま雫は二階へと足を向ける事にした。


初めて来る人の家は心臓がざわつく。

これは雫の体質とも言っていいのだろう。梨里の家なら尚更だ。

先が見えない曲線を描いた階段を踏み締めるたび、軋む音が耳に響いた。

その音がまるで心臓と連動しているようで、鼓動は雫の耳に普段よりもザラつく やかましさを感じさせた。



2階へ上がってすぐのドアには【リリ】と掘られたプレートがぶら下がっており、このドアの先に梨里の部屋があるのだと意識すると、どうしたって雫は緊張してしまう。ハンカチで手汗を拭きながら、深呼吸を1回。雫はドアノブをゆっくりと回した。


カチャっと音を立て慎重に開かれたドアの向こう、最初に視界に入ったのはスタンドに立てかけられた赤色のベースとアコースティックギター。そして、さっき梨里が顔を出していたであろう青空映し出す窓。そして、壁に貼り付けられたギターを弾く外国人のポスターだった。


梨里と自分の部屋の違いに好奇心が疼き、趣味が悪いと分かっていながらもキョロキョロと梨里の部屋を見渡してしまう。


その部屋には、学校以外でまず見る事がない保健室にあるような質素なベッドが壁に面して置かれており、無機質に光るメタリックのラックには楽譜やCDが綺麗に並べらていた。ベッドの向かいにはテレビとCDプレイヤーが一台ずつ置かれ、普段騒がしい彼女にしては整理整頓されたシンプルな間取りの部屋だと雫は思った。初めての親友の部屋に、居場所を見つけられず立ち尽くしていると。


「あれ。どしたの?座んないの?」


「あひゃぁぁあ!」


背後からかけられた声に雫は驚き、今まで出したことの無いような可笑しな声を出してしまった。


「何その声!?ウケるんだけど!」

ケラケラ笑う梨里に雫は顔を真っ赤にしながら思わず目を逸らしてしまう。すると、先ほど目に止まったポスターの男と目が合った。その男の瞳に吸い込まれるよう見つめていると、それに気が付いた梨里が口を開いた。


「カート・コバーン。知ってる?」


海外の有名人をよく知らない雫は無言で首を横に振る。「そっか」と残念そうに呟き、梨里はポスターの前まで歩を進め、愛おしそうに男の顔を撫でた。


「あたしの好きな人」


梨里の顔から零れる優しい笑顔。それもまた雫が見た梨里の新しい表情だった。新しい発見は嬉しいけれど、梨里からこんな表情を引き出せるポスターの男に子供のような対抗意識を燃やしてしまう。そんな自分に対し気恥ずかしさを覚えてしまう雫だった。


「てか、いつまで立ってるの?座りなよ。ほれ!」


ベッドに座った梨里が自分の横をボスボス叩く。隣に座れという意味だろう。 始めからベッド?と、おかしな思考を巡らせてしまう雫だが、平静を装い、姿勢を正し ゆっくりとベッドに腰掛ける。緊張から足の指に力が入り、その力で床が剥がれてしまわないか心配になる。バカな心配ではあるが、少しだけ足を浮かす体制でベッドに座った。

笹原ささはらと付き合っていた時も2人で同じベッドに座る事はあっても、ここまで緊張する事はなかったと思う。


梨里のベッドは見た目とは裏腹に座り心地が良く、その優しく支えてくれる印象は梨里の性格と少し似ていると感じた。

すると、梨里は満面の笑みで雫との間合いをグッと詰めてくる。顔が近い。肩が触れる。反射的に背筋が伸び腋に汗が滲んだ気がした。


そんな緊張状態の中、何を話して何をすればいいのか皆目検討もつかず、普段の2人のやりとりを記憶の引き出しから一生懸命探そうとする。

すると、まるで助け舟のように部屋のドアが勢いよく開かれた。



「クッキーお・ま・た・せ〜〜〜!焼き立てで美味しいわよ!」


「もう、ママ!あとで取りに行くって言ったじゃん!」


突然の来訪者に雫の心臓が跳ね上がる。ドアの前では美咲がクッキーが盛られた皿を持ち、満面の笑みで立っていた。


「こんな寂しい部屋で面白味ないでしよ?ベッドも保健室みたいなベッドでビックリしたんじゃない?でもそれ寝心地は最高なのよ!不思議よね〜?つまらなくなったらリビングで一緒にベルサイユのばら観ましょうね」


「だから今日は女子会なの!おばさんはあっち行ったっ!」


シッシッシッと美咲を追い返そうと大げさに手首を動かす梨里だが、その光景はとても微笑ましく、まるで本当に仲の良い姉妹を見ているようだった。そんな2人を見ていると雫の顔から自然と笑顔がこぼれる。


「あら、リーちゃんのせいで雫ちゃんに笑われちゃったわよ?」


「ママのせいでしょーが、ママの!」


「ねぇ雫ちゃん。この子ね、家では結構変だし、きっと学校でも変だと思うの。友達連れてきたのも今日が初めてだし、学校では皆と仲良くやれてるのかしら?」


「うがーーー」と唸っている梨里を横目に、不安を瞳に滲ませ美咲は雫へ尋ねる。冗談めかしてはいるが、美咲が梨里を心底心配している想いがその瞳からも伺えた。


「だっ大丈夫です。わ……私がいますし、梨里はその…学校でも凄く人気者なんで!変わり者なのは否定出来ませんけど」


たどたどしくなったが、美咲に気持ちが伝わるように、雫は言葉を紡ぐ。美咲も安心したように笑みを浮かべ「ゆっくりしていってね」と、さっきと同じだけれど、少し熱の帯びた言葉を口にし、梨里の部屋から出ていった。


「優しいお母さんだね?」


「うん」


梨里にそう笑いかけると、照れくさそうに頬を赤らめ、素直な返事が返ってきた。その返事は梨里の素直さが真っ直ぐに伝わってきて、そんな彼女を雫はとても愛おしく思った。



「で、何する?呼んどいて何なんだけど、ぶっちゃけあたしの部屋面白いもんないんだよね」


頭に手を回し梨里がヘラヘラと雫に尋ねる。梨里が言う通り、確かにこの部屋には娯楽というものが少ない。完全に1人で完成されている部屋だった。


「と…特に私は…普通に話していればいいんじゃないかな?」


さっきまでは美咲がいてくれたお陰で場が保たれていたが、2人きりになった途端 雫の頭にはまたも霧がかかってしまう。話題など1つも浮かばないのに話すという選択肢を選んでしまう辺り、自分のボキャブラリーの貧困さを痛感する。


「一昨日さ、吹部の顧問が音楽室を定期ライブに使うのやめろ!とか言ってきて。こっちは部員同士で話し合って提供してもらってるのに腹立つよね!」


すると、梨里が気を利かしてか、自分の最近の話題を振ってきてくれた。

頭に何も浮かばない雫はこの話題を逃がすまいと、前のめりで相槌を打つ。それを見た梨里はクスッと笑い


「本当に分かってるのかYo!」


と、額をペシッと叩かれた。

叩かれた額は痛くないのに、熱を帯びたようで、雫は気恥ずかしさと嬉しさから表情を見られないように両手で顔を覆い隠した。

そんな雫に対し、梨里は優しく微笑み掛け話を続けてくれた。


「だからさ、こっちも何だと〜!ってなって、吹部の顧問と大揉めしちゃってさ!でも、吹部って結構あたしらのファン多いから、逆に顧問が自分のところの部員に文句言われちゃってるの」


大きな身振り手振りで話す梨里の姿に見惚れながら、雫は表情筋が緩まないよう気を引き締め話に耳を傾けた。

それからも梨里からは湧き水のように多くの話題が溢れ出し、そんな梨里の話を一言も逃さないように雫は大切に大切に耳の奥に…心に仕舞い込んだ。


2時間程が経ち、話し続けていた梨里もさすがにネタ切れといった様子で、一息つきベッドに仰向けになる。

再び部屋に無言が訪れ、普段自分がどのように梨里と話して接していたのか?普段出来ている事が出来なくなり、分からなくなる。状況の変化に付いて行けない自分がとても歯痒く、何か無いかと雫は思考を巡らせてみた。

そして、色々な話題を考えた結果、ふっと頭に浮かんだ些細な疑問を口にしてみた。


「そういえば、今日って日曜日だけどお父さんはいないの?」


「うちパパってのがいないんだ」


雫の肝が一気に冷えた。まずい事を聞いてしまったと あたふた慌てていると、それを見た梨里はクスリと笑う。


「別に気にすることじゃないよ。母子家庭なんて今どき珍しくもないでしょ?」


確かに2人の学校にも片親の生徒は何人かいるし、何ら不思議な事ではない事も分かる。しかし、ここに着てすぐ、玄関で美咲は自分を専業主婦だと名乗っていた。そのわりに梨里の家は立派な一軒家で、一般家庭より収入も多い印象を受ける。


「何となく違和感を感じている顔ですな」


図星を突かれ雫は苦笑いしながら素直に「はい」と認める。ポーカーフェイスが出来ない自分が何とも憎らしい。


「前に人に話したらドン引きされたんだけどさ、それでもうちの家庭事情聞く?」


言葉に比べて特に気にする素振りを見せない梨里自身、そこまで重たく捉えていないのかもしれない。

他の人に受け止められなくても自分なら受け止められるのでは?

根拠のない自信が雫の中で膨らむ。梨里だけではなく白樺家全体の問題に首を突っ込んでいいものかと思いもしたが、梨里の事を少しでも知りたいという好奇心から雫は首を縦に振った。



「あたしはママがレイプされて出来た子供なの」

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