第19話 遺体

 タヌキんど一世は崖下にいた。

 弟子をみつけたそのあと、崖下にあるやわらかい地面に爪をたて、穴を掘り、人が入れる程度の穴を縦に作った。

 現代人の発想では、墓といったら、人を寝かせるものと思っているだろうが、ここではそれは違った。なぜならそれは、ここが地球ではないからだ。

 この世界では、生物は死んでもなお生き続けるものだと信じられ、なお稼働し続けるものだと信じられているからだ。現に今ここに墓を作ったからといって、数時間後にもそこに遺体が埋まっているとはかぎらないからである。

 現代人はこう思うだろう。そんなの虫が喰ったに決まってる。

 しかし、遺体が動き出さないと誰が決めた?それはゾンビではないか。というかもしれない。しかし、違う。

 それはモンスターになる。モンスターに変化(へんげ)するのだ。表現がおかしかったかもしれない。体がモンスターに作りかえられるといったほうが正しいかもしれない。意思を持つモンスター。それが最初っから存在しているモンスターだ。対して、意思を持たないモンスター。それが遺体の体が生前はこういうふうになりたかったと思って変化した姿だ。

 それを動かしているの頭ではなく、意思でもなく、体であるため、意思を持たないのである。しかし、体はあるため、言葉を発することは容易にできる。話しもできる。だが、それは、決まりきった黙句(もんく)だけだ。

 例えばの例をあげてみよう。

 「世界はきまりきっている」

 「あーそれはそうだろう」

 ということをいう人が大抵多くないのは事実であるわけがない。

 よーするに決まり切っているとか、絶対的なものは存在しないわけである。

 「あのー例をあげてるんですよねー」

 「そうだが?」

 「いきなり例に黙句をつけるなー」

 「ぶぎゃぼ」

 といってパソコンにパンチをくらわされ、ふっとぶ作者。

 「わかりましたよ。やりゃーいいんでしょやりゃあ」

 「それでいい」

 それでは、例をあげてみよう。

 1、「世界は廻っている」

 「それはわかってる」

 2、「世の中は廻っている」

 「それはわかってる」

 1と2の文は一件同じようにみえて違うのはわかると思う。しかし、これが1と2が続けていわれたとしたら普通は、2の最後は、

 「うん、それもわかってる」

 となるはずだろう。

 あなたたちの言いたいことはわかる。普通は世界では通用しないといいたいのだろう。しかし、これは例ということを今一度忘れないでほしい。

 というふうに同じような問いを聞かれれば全く同じ黙句で返す物体があったとしよう。それがモンスターになった遺体なのだ。

 そのため、モンスターとモンスターになった遺体を見分けるのは簡単である。遺体になったモンスターには、話しはできる。しかし、臓器が動いていないため、感情というものが存在していない。正確にいえば、臓器はあるが、稼働していない。

 ようするに見分けるやり方がふたつ存在しているということがこの文からわかる。

 それがモンスターとモンスターになった遺体の見分け方である。

 だから、遺体が動けるように、タヌキんど一世は、遺体を横ではなく、縦に入れたのである。

 タヌキんど一世は、その墓の上から土をかぶせなかった。それはまだ遺体が動いているからだ。

 死んでいない生物に土をかぶせるのは道理にそぐわない。

 そして、タヌキんど一世は、弟子に向かって最後の言葉をかけた。

 「我のことをわすれるな」

 タヌキんど一世は、閉じていた両手を開(ひろ)げ、立ち上がり、背中を向け、瞳(め)に誓の感情を病したまま、その場から背を向け、立ち去ったのだった、弟子をその場に残したまま。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る