粗雑な日記、あるいは覚書

雪乃 伴哉

ペットについて朝早くに少し考えたこと

 生活習慣的に個室に閉じこもることの多い私であるが、体温とのふれあいを寂しさの内に希うくらいの感情は持ち合わせている。むしろ閉じこもるからこそ人一倍強いのかもしれない。


 そこで人間が得られないとなると、まず容易に考えられるのはペットを飼おうということである。欲求欲望をペットに投射して人間相手に得たい、むしろ与えることで満足を得たいというのが適当だと思うが、そのような歪な愛情を満たそうという禍々しい思考である。


 歪な愛情という表現が、そもそも愛情ということのうちで概念矛盾してはいまいかということも十分私の気を引きうるのだが、まあペット飼育禁止の住まいで生活を送っている身としては部屋の中で隠して飼えるものでないと困る。だからなにかしらの小動物に的を絞る。


 また私の部屋は、自室というものを持って以来どうもエアコンというものとの運命の折り合いがつかないらしく、一度でもエアコンがあったためしがない。だから室温はいつも自然に服従せねばならないようなもので、夏になれば高いときで摂氏三十六度、冬になれば低いときで摂氏十五、六度といった具合である。そうなると当然、Googleでの検索欄に「暑さ 寒さ 強い」という語がさらに並ぶ。


 面白いのはこんなに自己中心的我儘な検索をする不届きな輩が私のほかにもまあいるようで、Yahoo!知恵袋なぞを開こうものなら類似の質問がいくつも散見される。そしてその質問が一様ならその回答もまた一様、温度管理もしない、あるいはできないような人にペットを飼う資格はない、ペットはモノではないのだから。いやはやごもっともでございます。


 別にこちらとしてはお説教をもらいたいわけではなくて、そういう回答を見れば貴様なぞに資格の判定など微塵も頼んではおらぬ、ましてはペットはモノではないなどと、何を寝ぼけたことを、と思わずにはいられない。ここで今私にお説教をくらわせたくなったあなたはもう少し我慢して先を読んでくださると随分助かります。


 私はペットといえば、夏祭りですくって持って帰ってきた金魚やら、子どもの日にいつも狙って売りさばかれていたカブトムシやらを飼ったことがあるくらいで、カブトムシはわりとよく世話したように記憶しているがひと夏の思い出程度の寿命だったし、金魚は最初の数週間くらいは喜んで餌やりをやるがすぐに見向きもしなくなった。餌やりも水槽の水換えも全部母がやっていた。だからまあ、自分で振り返ってみても今までペットを飼ったと胸を張って言えるような経験はないに等しい。


 ペットを飼ったことがないので、ともに育った友達が死の局面を迎えるときの感情もしらないし、ともに暮らすということの責任も味わったことはない。そうするとそのような感情の経験の欠落、というよりは空白、は仕方のないことだろう。考えればわかる、ということを普段から信用しない私にとってはなおのこと、やはり経験してみなければわからないことのほうが圧倒的に多い。


 逆にそんな軽い気持ちでペットを飼うなと言う動物飼育経験者はそこを経験していて、ペットというものに対する豊かな感情を持ち合わせているに違いない。おそらくはそういう忠告を授ける人は自分は倫理的に善いことを言ったのだと酔いしれているのでも、狂信的に動物愛護を唱えることで何か抽象的な正義感に溺れているのでもないだろう。多くの時間を共有する一つの生命として自分が大切にしてきたペットを通じて、体験的に直接的に生命に対する畏敬の念を抱いているに違いない。


 こんな言葉で表せば大仰なものに聞こえるが、つまるところ、ペットに対して非常に濃度の高い「好き」という感情を通過しているからこそ、ペットを粗雑にしようという人に怒りが湧くものと思う。人間の都合とは別のところに一つの生命が生きているということをよく知っているのだ。だからこそ、彼ら彼女らがペットというあり方自体そのもので人間の都合に合わせてくれるのと同じくらい人間も彼ら彼女らの都合に合わせてゆかなければならないことを知っている。


 ここまで考えてくると、いかに自分が邪な気持ちでペットを飼おうと思ったかが大分明瞭に認められはじめ、寂しさの埋め合わせのためにすべての責任を放棄したしかたでペットを飼うなどという馬鹿げた考えは即座に棄却しろという命令が心に導かれる。はじめに比べれば随分利口になった気がする。


 だが、やはり私はまだ何も手に入れてないのだ。生き物を飼育することを通じて得られる豊かな感情を何も得てはいないのだ。ただ思考だけで偉そうな想像を述べただけである。一切経験が伴わない。経験が伴わない思考ならさっさと捨てて経験に出かけたほうが良いに決まっていて、とすれば生き物を飼育することに対して責任感がない私のような人間ほどペットを飼ったほうがいいということになりはしまいか。


 つまり、ペットを飼うことに対する責任感の欠如が、ペットを飼うということの経験の空白からくるのだとしたら、避けるよりは一度ペットを飼ってみたほうが責任感を導きうる様々な感情が得られるのではないだろうか。ペットはモノではないと実体験で語りうるのではなかろうか。それともやはり飼育ということを人間の利己的な手段としてしか捉えられない人間は、お気に入りの玩具が壊れてしまったからまた買おうというあり方を示し続けることになるのだろうか。もしそうなるとしたら、過剰に成長した物質消費に生きる社会の寂しさを思わずにはいられない。




 さて、ここで話を終わりにしておけば一丁前に格好のついたひとまとまりの文章になるのだろうが、これは雑記なのでもう少し続けたいことを続けます。


 最初の話に戻るのだが、そうやってペットのことを調べているとペットは随分ナイーブなものだと気づく。ペット自身の体温調節に任せるのでは人間世界の室内では生きていけないらしい。だから室温をこちらが調節することになる。逆に人間はそういう室内でも容易に生き残る。真夏で室温三十六度でも、真冬で室温十五度でも容易に生き残る。もちろんここで話しているのは小動物のペットを想定しているから、この条件で生き残るペットは種を変えれば当然いるし、だから人間があまりにも特別というわけではない。


 しかし、飼育という視点から見れば一見か弱く見える小動物類も、自然の中で当然生きているわけである。当たり前のことである。「人間から見て外」の気温というのは室内よりもより厳しい。室温が三十六度にも上る日の昼間に外に出て歩いてみれば、空気の持つ熱に加えて直射日光の輻射熱が加わるし、アスファルトの照り返しがきついというのも日常で感じられることで、よっぽど外の方が過酷だと思うに違いない。冬にしたって室温十五度であれば外気温は一桁だと思うのが普通である。


 どうしてよっぽど厳しい外の環境のなかでは生きられるのに、人間の室内に連れてきた途端にこうも生きられなくなるのだろうか。それは考えるまでもなく、自然環境の中では小動物は生きる工夫を欠かさないからである。というより、彼ら彼女らにとって生きられる選択をしているからである。


 自然環境の中には多様な選択肢があるのは間違いない。様々な生物がそのニッチで選択肢を活用するようにして生きている。人間は人間の文明というかたちで自然のうちの選択肢を活用している。私は生態学に疎いのでただの臆見にすぎないが、あらゆる生物が自分が生きられるかたちで巣をつくる。生きられるかたちで巣をつくるという選択肢の活用のしかたをしている。巣をつくらない生物がいるにしても、巣というあり方以外のしかたで常に生きられるかたちで選択肢を活用している。自然は多様な選択肢という、それだけの懐の深さを持っているために、人間からしてよっぽど条件のきつそうな自然のなかで様々な生命が生きていゆけるという事態になっている。


 だとすると、その生物が生きていけるかたちで選択肢を活用した場面ではエントロピーは上昇している。ウサギがリスの巣で暮らすにはウサギ側の選択肢が足りていないし、逆もまた然りであろう。同様にして、人間の室内というのは人間が生きられるかたちをとった結果であり、選択肢を人間のしかたで活用した結果であり、エントロピーは自然に比べて格段に高い。人間にとっての生きられる選択肢をかき集めたのであり、人間にとっても選択肢はよっぽど少なくなった空間に他の生物を放り込めば、選択肢不足で生きてゆかれないのは必定である。


 ここまできて、はじめのペット愛好の話とは別の角度から納得が得られた。こんなにエントロピーの高い空間に人間以外の生物を招き入れて選択肢不足の苦にうちでもがくのを見るとは何と残酷な趣味だろう。そういう残酷な趣味を持ち合わせていないなら、やはり招き入れた生物の方に選択肢を作らなければならない。先ほど責任感という言葉が表していたのと近い地点に向かっている気がする。




 こんな空間に招き入れるとすると、もっとも適したペットは人間ということになる。人間をペットにすれば、ほかのどんな生物をペットにした場合よりもペット側の選択肢が多くなるだろう。夏の室温三十六度にも冬の十五度にも自分で対応してくれる。汗腺を十分に活用して暑さに耐え、寒ければ布を着込んで耐え。排泄も同じ便所で良いし片付けいらず。食事量は身体の体積的に小動物より圧倒的に多いが、なによりも意思疎通が容易に図れるのが大きい。また大分長生きしてくれる。だが人間をペットにすると言うとそれはもう危険思想である。受けとられる意味としては、愛玩動物の一種か、性奴隷である。こうなれば常識のうちではまともな人間とは呼べない。


 まともな人間などいないといういかにもな口ぶりはこんなところで用いるべきではなく、だとするとペットという言葉が何か怪しい。ペットとはどういうものだろう。ともに人生の時間を分かち合う存在ということなら人間をペットと呼ぶことに抵抗はない。しかし、人間のパートナーは決してペットとは呼ばれない。ペットという言葉の中に従属関係や生命をモノ化するような視点がどこかにこっそりと紛れ込んではいないだろうか。そうであればペットという言葉を使いながらペットはモノではないというときの転倒が感じ取られる。


 ペットという言葉の意味内実が変化することは当然認められる。もともとペットは人間にとって従なるモノであったのが、ともに並び立つ生命として捉えられてくれば、ペットという語はそういう意味で用いればよい。しかし、そこで先ほどの疑問に戻ってしまう。ペットという語は人間相手には通常使わない。ペットがともに並び立つ生命になっても人間には用いない。やはりどこかペットは愛玩の域をでないのであろうか。人間優位なところを残す存在なのだろうか。おそらく「人間」ということで確保されている境界線が、実のところは色合いのグラデーションになっているのではないか。


 言葉に縛り付けられても仕方がないのだが、考えていて私の興味を引く題であった。道端に置き去りにしたようで後ろ髪を引かれる話もいろいろと残っているのだろうが、朝の五分少々で思ったことを文字に書き起こしてみると次々と考えられることがあって、本来書こうと思っていたものとはだいぶ違うものになっていき、そうこうしているうちにもう二時間も使ってしまったので、この辺で止めにしておきたいと思います。


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