scene50*「真夏」

初めての人は塾講師の大学生だった。

2番目の人は中学の先輩で、3番目の人はバイト先で知り合った社会人だった。

4番目からはもう覚えていない。

同じ人だったり違う人だったり。



だけど、その中に私の好きだった人なんてどこにもいない。

一番欲しい人は手に入らないの。どうやっても。


そうして気がつけば、あたしは「ビッチ」と言われているらしい。




【50:真夏 】



この人も私の一番にはならないみたい。


そう思ってベッドから抜け出して、軽いだるさを残しながら下着を身につける。

ブラウスのボタンをかけて制服のスカートのチャックをしめたところで、隣で寝ていた彼も起きたらしい。


「え、ヨシノもう帰るの?もう一回くらいしとかない?」


煙草を探すそいつをよそに、私は軽くメイクをする為に鞄から鏡とメイクポーチを出した。

「疲れたからもう帰る。家帰って夕飯作んなきゃだから」

そう素っ気なく言うと、相手は点けたばかりの煙草の煙をフーッと吐き出した。

「なに、ヨシノご飯作れんの?今度何か俺にも食べさせてよ」


そんな都合の良いセリフに内心ため息をついて、メイクを直した私は試すみたいに意地悪く言ってみせる。

「本命の人以外には尽くさないって決めてるからムリ」

すると相手は面白いと言いたげな顔をして煙草を吸う。

本命なんて作る気がさらさら無いのを気付いてるみたいに。


「俺、ヨシノのそういうとこ可愛くて好き。だから俺お前にやみつきなんだけど。相性もすっげぇいいし、暇だったらまた俺と寝てよ」

「あんたこそ、彼女が物足らなかったらどうせ私に声かけるんだから、暇も何もないでしょうが」

「あ、ばれた?」

「最初から分かるっつーの。じゃ、そろそろ行くね」


軽薄な笑顔で手を振る彼に、同じように愛想笑いをして部屋を後にした。

時計を見ると夕方の6時半。

このままスーパーに寄ってひき肉を買っていこう。頭の中で献立を考えるまでもなく、既に決めているのでスーパーに長居することなく自宅のマンションについた。


玄関ドアに鍵を差したところで、隣の家の玄関が開いて誰か出てきたので挨拶しようと思って見ると、幼馴染である大学生のマーちゃんだった。

これからどこか出かけるらしい。

マーちゃんは私に気がつくと、昔から変わらない優しい笑顔を私に向けてくれた。


「あれ?サクラ、今帰り?」

「うん。マーちゃんはこれからバイト?」

「そう。これから夏休み入るし稼ごうかと思って。サクラ、今日何作んの」


マーちゃんは私の持っていたスーパーの袋に気がついたようだ。


「あぁ、今日はキーマカレーって決めてんの」

「キーマカレー?」

「そ。まぁドライカレーのインド版みたいな感じ」

「カレーにインド版とかってあるのかよ」

「マーちゃんもオシャレご飯くらい分かってないと彼女に捨てられちゃうよ!沢山作るしお裾分けしたげるから、おばちゃんにも後で言っといてね。ほら、もう行かないとバイト遅れちゃうんじゃない?」

「あ、やべ。って、お前今日親父さん帰ってくんの?」

「うーん。分かんない。忙しいからここ一週間顔見てないけど、毎日洗濯物はあるから家には帰って来てるっぽい。一応作っといてるご飯も食べてるみたい」

「……そっか。まぁ、何かあったら遠慮なく電話でもなんでもしろよ」

「いつも心配してくれてありがと。バイト、頑張ってね」

「おう。あと!彼女に捨てられるのは余計だかんな!」

「はいはい。じゃ、行ってらっしゃい」


マーちゃんはすれ違いざまに、私の頭をぽんと優しく撫でてエントランスへと向かうエレベーターに乗って行ってしまった。

マーちゃんを見送ったところで頭に触れてみる。

自分でぽんと撫でてみるけど、マーちゃんと同じ力加減にはどうしてもならなくてちょっと悔しくなった。

……今さっきまで私が男の子と寝てたなんて、マーちゃんは思いもしないんだろうな。

玄関前にはまだマーちゃんのいた温かな空気が残ってるような気がして、少し寂しくなる。


「……ひき肉、とりあえず冷蔵庫入れなきゃ」


夏の温度にやられる前に早く家に入らなければ。

玄関のドアはいつも重たく感じてしまう。

暗くてシンと静まりかえった家に私一人。もうこんなのは小学生から慣れっこだ。


家中の電気をつけてとにかく明るくして、お肉を冷蔵庫に入れてエアコンもテレビもすぐつけると、一気に家が涼しいながら賑やかになってホッとする。

帰ってくると必ずする儀式みたいなものだ。


私服に着替えを済ませた私はキッチンに向かって夕飯作りにとりかかった。

今日はキーマカレーとタマゴサラダ。

いつも朝に夜の分まで沢山ご飯を炊くので、カレールウと副菜を作るだけだ。

料理をしている時が一番気持ちが楽で、一番好きな時間だったりする。

無心で、自由で、寂しくない。

料理しながらテレビを見ると、芸能人の結婚と離婚をテーマにしたバラエティがやっていた。


『旦那さんと出逢ったとき、この人だ!って思ったんですよぉ~』

『私は全然タイプじゃなかったんですけど、いつの間にかケータイにアドレスが入ってて~……』

『もうね、お互いワガママすぎで我慢ならなくなっちゃった!』

『元主人に、実は女がいたんですよ。しかも某事務所の○○○○さんだったんですよー』

『えー!!!ちなみに慰謝料は……』

次から次へと出てくるよくあるコメントにため息が出る。馬鹿じゃないのって思う。


「……みんな最初は信じて一緒になるのに……ばっかみたい」


私の家には、お母さんというものがいない。

私が小学5年生の時に出て行ったからだ。

いわゆる不倫というやつで、お父さんは物心ついた時から忙しくしていて家にあまりいなかった。

正直どこの会社に勤めてて何の仕事してるかもよく分からないし、あんまり気にした事がない。


……正直言えば、何となく私にはお母さんが出てっちゃうんじゃないかって気づいてた。

お父さんと顔を合わせるたびに口論してたり、私の話を聞いても上の空だったり、夜に出かけることがだんだん増えてったから、もしかしたら離婚するのかなってどこかで思ってた。


そしてある日、私が学校から帰ってきたら、もういなくなっていた。

書き置きなんかなかった。

その日は珍しくお父さんが仕事を休んで、一日家にいた気がする。

だから仮に書き置きがあっても、私がそれを見る前に捨てられてたのかもしれない。

ちなみにあれからお母さんから連絡がきたことは今日まで一度もない。

なんて薄情。11年間、私の事をどう思いながら育ててくれたのか分からないけれど、そんなに好かれてなかったのかなって思うことにしている。

だから会いたいとさえ思えない。


「……分かんないもんだなぁ」


出来上がった夕飯を前に呟く。

分かんないもんだ。

だって、恋とか愛とか家族とか、そういったものをどこか呆れて見てる癖に、恋とか愛とか家族が結びつきやすい行為をしてしまうようになっちゃったんだから。


「……美味し」

色んなスパイスを入れた本格的なキーマカレーは、作ってる途中から空腹を刺激してきて早く食べたくてしょうがなかった。

もちろん裏切らない味につい自画自賛しそうになるけれど、これを誰かと分かち合うなんて考えられない。

自分の親とでさえ叶わないのに他人に求めるはずがない。


『何かあったら遠慮なく電話でもなんでもしろよ』


ふと、マーちゃんの言葉を思い出す。

今日だけじゃない。

会うたびにマーちゃんは言ってくれる。頼れない私の気持ちに気付いてるみたいに。


一人でいい。一人がちょうどいい。

だけど独りはいや。一瞬だけでいいの。

一瞬だけ独りじゃなくさせてほしい。


矛盾した気持ちと行為に流れるままにしてたら、男の子のほうから私を甘えさせてくれるようになった。

元々体の成長も早かったし、他の女の子よりか大人びていたから早かったのかもしれないけれど、優しくしてくれる人に甘えていたら女の子の友達はいなくなってた。

でも、それで別に寂しいわけでもないし、誰にも怒られることもない。

お母さんがいて甘えられることのできる女の子たちには私のこの空っぽな感覚も感情も分かりっこないし、私だけの気持ちを味わってたいからそれでいいのだ。


無心になって食べてたら見ていたバラエティー番組は終わり、また次の違うバラエティー番組になっていて、芸能人の結婚話と同じくらいバカバカしそうな芸能人の食べ歩きの様子が映されていた。



1



しばらくしたある日。

休み時間に次の授業の準備をしていたら、見た事のない女子がもの凄い勢いで私の机にやってきては、いきなり机を叩かれた。

それも思いっきり。


まぁ、こんなことは時々あって、そういう場合たいてい私はずっと黙り続けながら相手の様子を見つめている。

やってくる子は見覚えのある女の子だったり、見覚えのない女の子だったり様々だけれど今回は後者だった。


リアクションゼロな私に腹が立ったのか「お前、調子づいてんじゃねぇよ!」とドラマみたいにヒステリックな声が教室中に響き渡る。

クラスメイトも当然のごとく黙りこくって私たちの様子をうかがっていた。

自分たちが注目されているのなんて気にも留めず、彼女は鬼の形相で私を睨みながらまくしたてるように続ける。


「人のものって分かって、男に手だすとかほんとふざけんなよ!気持ち悪いんだよっ!!」

「はぁ……」


心当たりのなさにそんな言葉しか出てこない。

人の男と寝ても校内なら彼女の顔くらいは見知ってる場合が多いのだけれど、今回ばかりは全く心当たりがない。

それか私と寝た時はフリーですぐ彼女ができたとか?


まったく心当たりのない女の子が私を怒鳴っているなんておかしくてしょうがないのだけれど、私が喋ればもっと腹立つだろうから何も言わずにいると彼女の顔がもっと真っ赤になり、次の瞬間思い切り手を振り上げた。


「何か言えよっ!!!!」


あ、平手くる、と思ったと同時に、振りかぶった彼女の手を誰かが後ろから掴んだ。


彼女は驚いて掴んだ人を見るなり「カナタ!?とめないでよっ!!!」と叫び、制する彼とそのままもみ合いになった。


カナタと呼ばれた男子は、たしかに校内ではちょっとした有名人だ。

たしかに見覚えある生徒だけれど、寝た覚えはまったくなかった。

カナタは困ったように笑いながら彼女をいさめる。


「ちょいちょいちょい!お前さ、ちょっとコイツに手あげんのは違うだろ。俺にならまだしも」

「うるさいっ!!こいつなんて人の男寝取りまくりのヤリマンビッチじゃん!!」

「ヨシノさん殴ることないだろ」

「ふざけんなよ!!!」


バチ――――――――ン!!!!


ものすごい音が教室に響いた。

彼女が繰り出した平手はあまりにも強烈だったのか、カナタの唇の端が切れて血が出ていた。

それを見た私は思わず鳥肌が立つ。


何故なら間近で見るカナタは、ものすごく綺麗な顔立ちをしていたからだ。


色白で華奢で、髪も染めてなさそうなのに色素が薄いのか綺麗な栗色で。

まつ毛も長くて女の子みたいな顔をしている。

それでも目線は鋭くて、どこかミステリアスな雰囲気は誰が見ても「美少年」と言ってしまいそうな顔立ちだった。


「二人とも死ね!!!!!」


彼女はそれだけを吐き捨てて、教室を出て行った。


少しずれて教室がざわつきはじめ、

「てかヨシノ、また手出したのかよ」

「ウチの校内で何人目?サオ兄弟多すぎじゃね?」

「それならカナタもどんだけ姉妹いるんだって」

「でも俺もヨシノになら寝取られてーわww」

「てかカナタもカナタだよな」

と、それぞれ言いたい放題の呟きが漏れまくっていた。


出ていく彼女の背を見送ったカナタはホッとしたのか一息ついて、口が切れているのに今になって気付いたのか親指でさっと口元をぬぐった。

思わずそれに見惚れてしまいそうになったけれど、今のくだらない茶番で一番の被害者は私だ。

そもそもカナタと寝た覚えなんてないし、むしろ会話した事さえない。

なのにどうして私がカナタに手を出したこと(私が出されたのではなく、私が出したというのも気に入らない)になっているのか。


「ねぇ、ちょっと後で話あるんですけど」


クラスメイトの噂話をよそに話しかけると、カナタは私の存在に今気がついたというように私を見ては「俺も話あるわ。とりあえず昼休みまた来る」と勝手に決め付けて教室を出て行ってしまった。


教室を出るカナタの後ろ姿を見て、何とも面倒臭そうな男に巻き込まれたのでは?と思ったところでちょうどカナタと入れ違いで次の授業の先生が教室に入ってきたものだから、結局モヤモヤしたままで授業を受けることになってしまいテスト前で危ないというのに内容が全く身に入らなかった。


カナタと話したことはないけれど、彼の噂くらいなら友達のいない私でさえ知っている。

私の男版と言った感じに聞く。

つまるところヤリチンだそうだ。

だけど私と違うところはとにかく手当たり次第、とっかえひっかえ、それも寝たらすぐに次らしくあんまり女の子と続かないらしい。

それが災いして前の女が次の女へケンカをふっかけることも多くその逆もあり、カナタ本人も生傷が絶えないらしい。


それなのによく友達と楽しそうに話してたり、交友が広い様子を校内で見かけるので、友達が多いただの女好きというのが正直な印象だ。

私とは関わりたがらない人がいるのは自分でも分かっているほうだけれど、よりによってどうして私の名前を出すのか。どういうつもりなのか本当によく分からない。



昼休みのチャイムが鳴ってしばらくすると、宣言どおりカナタが教室にやってきた。

目が合うとどこかに移動するのか「こいよ」という仕草をしたので、貴重品とランチボックスを持ってカナタの後をついて行く。

予想していたことだけれど、休み時間怒鳴りこみ事件は一瞬にして学校中に広まったようで、私とカナタが廊下を歩くとみんな静かにして避ける癖に、通り過ぎた先から一斉に噂話が後ろから聞こえてきたので呆れてしまった。


お互い何も喋らないまま向かった先は放送室だった。

カナタはポケットから鍵を出して中に入る。

私も後をついて入り、初めての放送室にあたりを見回した。



放送室には二つの部屋が続いていて、真ん中がガラス窓で仕切られていた。

ドア側にある手前の狭い部屋にはマイクやツマミのある機材やらがあって、いかにも放送室って感じだった。

奥の窓側の部屋は6畳くらいの広さで、撮影機材とかが雑多に置かれテーブルと椅子があり、カナタはそこに慣れたようにパンとジュースを乱暴に置くと「とりあえず座れば」と私を促す。


そのままカナタの真正面に落ち着くと彼は手前の放送機器のある部屋に行き、予め持っていたらしいウォークマンを機材につなげた。

するとすぐに校内に洋楽が流れ始めて、いつもお昼に流れる曲は彼が流しているのだと、そこで初めて知った。


放送部らしい作業を終えるとコンビニで買ってきたパンを開けて食べ始めたので、私も持ってきたランチボックスを広げる。

カナタが口を開けた瞬間痛そうな顔をしたので、どうしたかと思ったけれどさっきの平手で彼が唇を切った事を思い出した。

切れた唇の端はちょっと赤く染まっていた。


私が食べ始めたところで、

「それ、手作り?」

カナタの咀嚼しながらの言葉に呆れながらもそうだと答える。


「料理うまいじゃん。一口ちょうだい」

「やだ」

「ケチだな」

「自分の為に作ったお弁当を何で初対面のあんたにあげなきゃいけないの」

「あぁ、休み時間のやつ、マジでごめんな」

「名誉棄損もいいとこなんだけど。あんたの恋愛事情に、知り合いでもない私を巻き込むとか最悪なんですけど」

「あははは」

「あはははじゃないし。迷惑」

「いや、でも今回のでヨシノさんモテると思うから心配ないよ。男って他の男のもんになったのに燃える奴多いから」

「だから、私あんたと寝た覚えないんだけど。それにモテなくていいし」


あんまりにも軽薄な言い分にイラッとしてそう切り捨てると、カナタは両手を頭の後ろで組んで伸びをしながら面倒くさそうに言った。


「あれさぁ、俺の元カノ面してるだけだけど、何回かエッチしただけだから。そしたら何か本気になっちゃったみたいでしつこくて、予防線のつもりでヨシノさんの名前出しちゃった」

「はぁ!?」

「ヨシノさんって有名じゃん?良くも悪くも、さ。だから咄嗟にヨシノさんの名前が浮かんじゃって」

「……誰かれ構わずとっかえひっかえのあんたに言われたくないんだけど」

「まーまーいいじゃん。ヨシノさんだってそういうのキライじゃないんでしょ?」

「……勝手な事言わないで」

「あ、図星だ。え、もう依存症とか?」

「あんたに関係ないでしょ!」


そう怒鳴って立ち上がると、ヘラヘラしていたカナタの雰囲気が打って変って鋭い顔つきになって私を見つめた。

ただそれだけなのに、ギュッと胸の奥を掴まれたような変な感覚になった気がして、言葉を続けられなくなる。

そんな私にカナタは改まって言った。


「ほんとにさ、俺と付き合ってくれない?」


「は?」


「いや、これマジなお願い。もちろん、キスとかデートとかナシでいい。まぁご要望とあらばキスでもセックスでもお相手するけどね。それにヨシノさんが他の男とデートしようが寝ようが干渉しないし。とにかく、ふりでもいいから何にもしないのナシで俺と一緒にいてほしいんだけど」

「……何言ってんの?何の為によ」


疑うようにして見ていたらカナタは「まぁ座ってよ」と開き直ったように笑いかけたので、とりあえず話を聞くことにして座った。

カナタはジュースを一口飲んで、リラックスしたように言う。


「色々事情があるんだけど、簡単に言うと女よけに協力してくれたらなぁと。もちろんヨシノさんだって俺と付き合っとくことにしとけば、ヤれればいいだけって馬鹿は寄ってこないから良いと思うよ?」

「…………」

「見てれば分かるよ。ヨシノさんだって手当たり次第やみくもに男とヤッてるわけじゃなさそうなの。他の奴らはそこまで気づいてなさそうだけどさ。ヨシノさんが思ってるより俺けっこう友達多いから、ヨシノさんと寝た奴とも何人か知ってるし話とか聞いてて、そいつら自身からヨシノさんの悪い評判とかは聞いたことないし」

「……それって結局ヤらせてくれるからでしょ。それなのに悪口なんて言うわけないじゃん」

あんまりにもバカバカしくて自嘲気味に言うとカナタは手のひらを見せて否定した。

「だーかーらー、それが違うんだって。なんつーか、みんなヨシノさんのことがどっか好きっていうか」

「私、そういうの信じてないから」

「え?」


私はお箸をピシャリと置いてカナタを真正面から見た。

ムカつくくらいすごく整った顔をきょとんとさせながら私を見ている。

男子の割にはすごく華奢だし、おとなしくしていると女の子の顔みたいだ。

これでヤリチンなんだから、そりゃあ女の子だって怒鳴りこんでくるわ。

でも私はそんなのには惑わされないし、ただえさえビッチって言われてるんだから、ヤリチンな彼氏だなんて更に笑い物だ。


「あのさ、一方的にそんなの持ちかけられてもすごく迷惑だし、話したこともないのに勝手に付き合ってる設定にされてるのはもっと迷惑だし、何で実際に付き合うことまでしなきゃなんないわけ。それに自分の身は自分でも守れるから仮初めの彼氏なんていらないし、好きとかそういうのも信じてないから。私、人のことなんて信じられない人だから恋愛とかムリ。恋なんかしないから」


きっぱりそう言って、私はお弁当を完食する前にさっさとランチボックスを片づけて立ち上がった。

カナタはそんな私を見て面白そうに笑う。


「やっぱり。俺とヨシノさんなら、ベストカップルになれそうだと思うんだけどな~」

「ていうか、それなら私と付き合ってるデマ撤回してよね」

「うーん。じゃあまた今度改めてお願いするから」

「今度なんてのもないから」


私はカナタを睨みつけると放送室を後にした。


2



話してもやっぱり腹の立つ奴だった。


付き合うふりでいい?

でもお互いの事には干渉なしって、そんなこと意味分かんない。

いくらビッチだろうがヤリマンって言われようが、そんなことをホイホイ鵜呑みにするほど不自由もしてないし。

それもよりによって女遊び激しいカナタとだなんて。

馬鹿みたいな明るい洋楽ばっかり流れるのも気に食わない。


せっかくの貴重な昼休みがとんだ無駄な時間となったことに憤慨しながら階段を上がったところで、突然名前を呼ばれた。

前方を見ると、休み時間に私を怒鳴った女の子とその友達がいた。


偶然なのか待ち構えられていたのか分からないけれど、一難去ってまた一難、という言葉が浮かんで頭痛がしてきそうだ。

女の子の顔は怒ったままで、その友達まで私を睨んでいる。

そりゃそうだ。友達の敵は敵、というのが女子という生き物だからだ。


「誘ったのどっちよ。あんたなの?」

「……それ、完全にあいつの嘘なんですけど」

私がそう答えると友達のほうが鼻で笑いながら喋った。

「ヨシノさん、喋れるんだね~。いつも黙ってるから喋れない人かと思った」

「…………」

「あれ?まただんまり?」

「さっきもだけどさ、黙ってりゃ終息して引き下がるとか思ってんの?」


女の子が私ににじり寄り、胸倉を掴んできた。

どうやらカナタを叩いただけでは気が済まなかったらしい。


「カナタがさ、あんたみたいなのとヤるわけないじゃん」

「えぇ、残念ながら貴女の大好きなカナタ君とはまだ寝てないけど」

私もさすがにイライラしてきたのでそう吐き捨てると、女の子の目の奥に炎が灯った気がした。

「はぁ??」

「だから、残念ながら私はカナタ君とはそんなことしてないの」


一息ついて、思いっきり嫌な笑顔を作ってやる。


「あ、それかもうシててほしかった?でも関係ないよね。だって貴女、彼の彼女じゃなかったみたいだから」


私の胸倉を掴む彼女の拳がわなわなと震えるのが分かった。

もういっそ、このまんま階段から突き落とされちゃってもいいかもしれない。

このまま突き落とされてケガをすれば必然的に私は被害者だし、実際カナタとは何にもないし、こんなことに巻き込まれて学校に行くのもめんどいし。

……それにマーちゃんに甘えられるかもしれない。

マーちゃんなら私の事心配してくれる。

お父さんだってほとんど家にいないから、課題さえ出せば悠々自適に家で過ごせるだろう。


……もうそれでいいや。


私は追い打ちをかけるように言った。


「だってしょうがないよね。カナタ君が私の名前出すのも無理ないよ。本気と遊びの付き合い方を察せないようじゃ、そりゃカナタ君に遊ばれてもしょうがないんじゃない」

「黙れよお前!ビッチが言ってんじゃねぇよ!!!」

「あぶない!!」「やめろよ落ちる!」「誰か!」


彼女の怒りとギャラリーの声が重なると同時に、掴まれた胸倉にある拳が私の体を押した。

体が後ろに傾く瞬間、不安定な体勢に背筋がひやりとしたけれど、覚悟を決めようと思い切り目をつぶった。そんな時、


「ヨシノさん!!!!」


後ろから一際デカイ声が聞こえたと思ったら、転落しそうな私の背中がとっさに抱きかかえられしっかりと支えられた。

見上げるとさっきまで私が一番イライラしていた元凶のカナタがいた。


「カナ、」


名前を呼び掛けたら、それを封じられるみたいに……つまるところキスされた。


突然の出来事にビックリして唇を離そうとするにも、柔らかな舌に唇をそのまま割られる。

思ったよりも熱い口づけに息が出来なくて、カナタの服をギュッと掴んだところでやっと解放された。

離れたカナタの顔を見ると、まつ毛が本当に長くて肌も陶器のように滑らかで白かった。


カナタは小さく「ごめんね」と呟いて、私の頭を撫でて自分の胸元に押し付ける。唇に感じた熱とは正反対に体はひんやりとして、思った通りに細かった。

私の頬のほうが熱いくらいだ。

これじゃあ本当に抱き合っているのと同じだと思ったところで、ギャラリーのざわめきを蹴散らすみたいに女の子のヒステリックな声が響いた。


「カナタ!?何でそいつ庇うの!?」

「だって俺の彼女だし。ってかさ、俺いつお前と付き合うって言ったよ?そもそも前の彼氏に振られて俺に慰めてよって言ってきただけだよな?それでいつお前の彼氏になったわけ?」

「だって……シたじゃん!デートもしたじゃん!!何でそんなこと言うの!?」

「あのさぁ、お前何か最初から勘違いしてない?」

「……え?」


カナタは私を庇うようにして前に出ると、彼女は後ずさりした。

カナタはどんな顔して彼女の前に立っているか私には見えないけれど、多分ものすごく冷たい目をしているんだろうなと思った。


「俺さぁ結構そこらへんの価値観ユルいの、お前も知ってるよね?つーかさ、そんなの分かって寝てるもんだとてっきり思ってたわ」

「カナタ、何言ってんの?私の事可愛いって言ってくれたじゃん!」

「うん。可愛いよ。だけど俺、それ誰にでも言ってるから」

「は?」

「俺ね根っからの女好きだから。それでも良いなら付き合うけど。でも、一番にできないから」

「じゃあヨシノさんは、」

「ヨシノさんはトクベツ。特別可愛くて、特別に今までで気になってる子だから、俺のヨシノさんだけはあんまりいじめないでね」

「はぁ!?」

「言い忘れてたけど、お前の元彼と俺よく話すんだけど、お前のそういうキツくて、そこの友達の悪口言うとこが嫌だったって言ってたよ?」

「なっ!!??」

「は!?ちょっと、何それ!!」

「まぁ俺も思ったけどね。そこの友達、すげー彼氏自慢するんでしょ?でも全然カッコ良くないから男の趣味悪いって、お前俺にも言ってたもんな?」

「……ひどい……そんな風に言ってたんだ……」

「違うから!言ってないよそんなこと!!カナタの言う事嘘ばっかだから!!それ今関係なくない!?」

「でもお前、そんな嘘つきの俺のこと好きとか彼氏だとか言ってるんだから、お前の男見る目もどうかと思うけど」

「やめてよ!!!」

「カナタ、もうやめなよ!」


あんまりの修羅場に見ているのが居た堪れなくなり、思わず止めに入った。

振り向いたカナタはきょとんと悪びれのない顔で、どうしてここまで酷い事が次から次へと口から出るのかさすがに私でも理解できなかった。

女の子とその友達の間にも微妙な空気が流れていて、とりあえずもうこの場から私たち二人がいなくなるのが一番いいんじゃないかと思えたので、カナタの腕を掴む。

女の子の顔を見ると表情を失くしてしまったような顔をしていて、こんな馬鹿男を見抜けずに夢中になった彼女がちょっと可哀想だとも思ったけど、恋とか好きとか信じなければよかったのにと馬鹿みたいにも見えてしまった。


とりあえずカナタの腕を強引に引っ張って、私たちはその場から離れた。


3



「ふぅ~。間一髪だったな。ヨシノさん、あの時わざと突き落とされようとしたでしょ」


結局放送室に戻ってきた。

もう予鈴が鳴るので、このままここでサボりになりそうだ。そう思ってドアには鍵がかけてある。


何だか疲れてしまったのでテーブルに突っ伏してため息をつく。

ついさっき座っていたところにまた座るとは、出て行く時に思わなかったけれど、修羅場の後に身を隠すのには残念ながらちょうどいい。

今日は授業出るのも面倒なので、5限が終わったら荷物だけ持って早退しようと思った。

さっきの出来事に痛くも痒くもなさそうなカナタを見て、女の子によくあそこまで酷く冷たい事が言えたもんだなと思う。


「ねぇ、カナタ。私も酷い事彼女に言ったけど、あんた何でもっと酷い事言ったの」

「それはヨシノさんが突き落とされそうになったから。俺ヨシノさんと付き合うことにしたわけだし、彼女が突き落とされるってのに助けない彼氏いないじゃん?」

「私は了解してないんだけど」

「恋愛とかムリって言ってたけど、恋愛じゃなくていいよ」

「え?」


顔を上げると正面に座るカナタが私に優しく笑いかける。

……その笑顔が正直すごく苦手だと思った。


「だから、恋愛じゃなくていいから、俺の彼女になってほしい」

「……そんな事言っても私、絶対にあんたのこと、好きにならないし寝ないから」

「言うねぇ」

「私、好きな人はちゃんといるの」

「恋しないのに?」

「……恋じゃないよ。恋じゃないけど、好きなの。人間的に」

「その人、彼女いるの?」

「いるよ。ラブラブで、清楚でふんわり優しそうで可愛らしい、私とは正反対の子がね」


私は、マーちゃんのことが好きだ。多分男の人として。

だって本当ならマーちゃんに抱いてほしいもん。


だけどマーちゃんには大事にしてる彼女がいて、私の事なんて絶対にそういう風に見てくれないし、見ることもないのも知ってる。

それに彼女を大事にしているマーちゃんの優しさが好き。


本当に大好きな人は、私の傍にいてくれない。

……マーちゃんじゃなければ誰と寝たって同じならば、誰が傍にいたって私にとっては同じことなのかもしれない。


「私、付き合うならどんな私でも許してくれる人が良い。それも私が好きになれなくても許してくれる人じゃないと嫌」

「都合の良い男がいいってこと?」

「都合の良い男で良いの。だって一番になるって怖いことだから」

「ヨシノさんさ、一番になりたくないの?」

「一番にしてくれる人なんて……いないもん」


憎たらしいはずなのに、するっと本音が出てきてしまうのがもっと悔しい。

一番になるってことは、傍にいるってことは、いつかは一番じゃなくなるってことだし、離れる日がくるってこと。


そんな怖いこと、私はできない。

ならば最初から手にしなければいい。

覚悟していればいい。ずっとそうやってきた。

付き合おう、恋人になろうって言われても、続けられる自信もないし愛される自信もないし、失くすことのほうが嫌だから拒否してきた。


今の私、きっと表情がないだろうな。あの女の子の顔みたいに。

いつも私が一人で夕ご飯を食べながらテレビを見てる時の顔をしているに違いない

だけどカナタはそんな私の顔を見て、面倒臭い表情もせず、かといって話を聞いてないわけでもなく、ずっと私を見ていた。


「私は一番も特別な人もいらないの」

「だから、それでいいよ」

「あんた人の話聞いてないでしょ?大体なんで私なの。他にも軽そうな子いっぱいいるじゃん。カナタ顔は良いんだから私じゃなくてもいいじゃん」

「他にヤれそうな子いるけど、ヨシノさんはちょっと違う。ヨシノさんなら、俺の事馬鹿にしなさそうだし」

「馬鹿にしないってどういうことよ?」


そう問うとカナタは明後日の方向を見ながら、気まずそうにした。そしてしばらく考えてから、言いづらそうにして打ち明けた。


「昼話した時に色々事情あるって言ったけど、俺、ガチなセックス依存症なの。それやめたくて、ヨシノさんに協力してほしい」


ヤリチンと言われる男子の突然の告白に、ちょっと驚いた。

真剣な顔をしてるんだから、本当なんだろう。

けれどそれなら、彼の出した提案を思い出すとあまりに矛盾しているので頭が混乱してしまう。


「ちょっと待って。そんな人が、付き合う条件にキスもセックスもナシでいいよって提示する?」

「ヨシノさんならそういう事しなくても一緒にいれそうだと思って」

「私とはしなくて他で解消するってこと?」

「あ~~~~~だから違くて……!」


カナタはもどかしそうに頭をかいた。どうやら彼には彼なりに本当に悩んでるらしい。


「結局セックスばっかりな関係で済ます自分が嫌なの。悪い癖って分かってるんだけど、女の子は好きだし、傍にいるとつい手出しちゃって。一時期はヘラヘラとヤリチンライフでいいかって思ってたんだけど、寝た後だんだん気持ちがしんどくなって、それでも止められなくて。

……本当はそういうのじゃない付き合いがしたいのに、自業自得だけど結局毎回修羅場だし。そんな時にヨシノさんの噂聞いて。それに今日話して、ヨシノさんは他の女の子とやっぱり何か違った。キスは手前でもうしちゃったけど、ヨシノさんとなら体だけにならない付き合いができそうな気がしたから声をかけたんだ」


「ごめん、全っ然分かんない、それ」


「えぇ!?ここまで説明してもダメ!?」

「だって付き合ってお互い一番になるのに、セックスしたくないとか、でもご要望とあらばセックスしてもいいとか訳わかんないそれ。何で私なら平気そうなのかも分かんないし」

「ヨシノさんが誰を好きでもいいよ。女子って他の女子のものになると引いちゃう子多いから、ヨシノさんと付き合ってるって事にすれば、他の女の子絶対に近づいて来ないし。……ヨシノさんが他の誰と寝ても束縛しないし、彼氏彼女のふりだけでいいんだ。ヨシノさんにとって都合の良い男で構わないから。

上手く言えないんだけど、ヨシノさんとなら何にもしないで付き合えるかもしれないって。自分でもよく分からないけどヨシノさんじゃなきゃダメなんだ」


食い下がらないカナタを見て私が答えに迷っていると、彼は立ち上り、こともあろうか私に頭を下げ出した。思わずぎょっとする。


「協力してください。お願いします。このとおりです」


……本当に困った。


女の子にいい加減なことしてたくせに、こうして頭を下げてまでお願いされても調子いいとしか言えないけれど。


つまり、カナタはセックス依存症で本当は治したくて、でも上手くいかなくて結局最後はいつもトラブル起こしてしまう。

そんなだからそういうのナシで女の子と付き合ったことがないし、付き合わなくても平気でしちゃう自分が嫌だったと。

そこで私なら性行為なしで付き合えるんじゃないかと思ったってことだけど…。

私は他の男と寝てもいいよってのはそういうことか。


まぁ、私と付き合えば他の女の子が来ないって言うのは引っかかるけど、私のセフレたちでそんなことチマチマ言うような男はいないなとも思った。

……多分盛大に笑い飛ばされるだろう。


下げた頭を見つめる。うなじは真っ白くて細かった。

でもこのうなじに私がキスをすることなんて多分ないだろうし、私自身カナタとしたいとも思っていないわけで、私に求めてるのは彼氏彼女の肩書だけで良いってこと。

それに干渉もしないのだから、私は今までどおりにしてればいいのだ。

私は盛大にため息をついて、もうどうにでもなれという気持ちで言った。


「……いいよ、そこまで言うなら分かったよ」

「ほんと!?」

「だってそんな大事な事打ち明けられて、それに別に恋人らしい事はしなくてもいいんなら今までと変わらないってことでもあるし。それに私の行動に口出さないなら、いいよ。名ばかり彼女になってあげる」


顔を上げたカナタは信じられないといった顔をした。

そして私の傍まで来ると、座る私を見上げるようにして跪く。

王子様がお願いするみたいに、膝に置いていた私の手を両手で包む。

優しそうな手をしているのに、体と同じように指先もひんやりしていた。


軽薄な男がこんな事すると、本当なのか調子がいいのか分からないので、どうしたらいいのか分からなくなる。

けれどカナタは本当に自分を変えたいようだった。

挑んでくるような真っすぐな瞳を私に向ける。

それを見て動けない自分に気がついて、あぁ、やっぱり苦手だと思う。


「俺ホントに今までテキトーだったから、また今日みたいなこともしかしたら起こるかもしれない。だけどヨシノさん全然悪くないし、俺絶対守るから。これは嘘じゃないから。その為なら今日みたいな酷い奴にいくらでもなれる。だからもしヨシノさんも今日みたいな事が俺の知らないとこであったらどんなに小さいことでも報告してほしい。……まぁ俺の自業自得だから、できれば俺本人に報復してほしいとこだけど」

「分かった。本当に今日みたいなのは勘弁してよね」

「それから、なるべくヨシノさんに触れないようにする。……って、既に今みたいに思わず手とか触れちゃうのは許してほしいんだけれど……」

「キスもしたくせに?」

「うっ……マジでゴメン。……俺ほんと無意識に女の子に触れ過ぎだよなぁ……」


そう言って手を離そうとしたので、思わず引き留めるようにして私のほうから手を掴んでしまった。

そんな私の行動にカナタはビックリした。

「あっ……私こそごめん……つい」


微妙な間が流れる。

沈黙の後に目が合うと、どちらともなくふきだした。

さっきまでの真剣な話がお互いのキャラと全然かみ合わなくて、今になっておかしくなってきてしまったからだ。

まさかヤリチンで女たらしと言われるカナタのこんな面、誰にも想像つかないだろう。

ましてや、お互い不名誉な称号をもらってる二人が、こんな秘密を交わすだなんて少し前の私が見たらなんて思うだろう。

ひとしきり笑ってしまうと、最初に感じていた距離も壁も感じなくなっていた。


「カナタさ、自分でもすぐ女の子に触れちゃうって言ってたけど、キスもあんな風に誰にでも簡単にできちゃうのもんなの?」

「うーん、あんまり考えた事ないかも。それにキスとヤんのは別だし。ヨシノさん、さっきの嫌だった?」


おいおい、キスとヤんのは別って、とんだヤリチンだ。

しかも相手が嫌だったかとかも頭になくするとか大丈夫か。

さすがに私でもいきなりあんなキスをした事はない。

ビックリしただけですごく嫌というわけでもなかったのが幸いだけれど、それよりも瞬間的に気付いてしまった事があったので、すっかり能天気そうなカナタに言ってやった。


「お昼に食べた2個目のパン、カツサンドだったでしょ」

「おっ、ヨシノさんさすが」


「……超ソース風味だったんですけど」

「いやん、そこまで俺の舌を味わってくれちゃうなんて。ミントガムいつも俺持ってるから必要な時言ってよ☆」

「そんな話してないから」

「まぁまぁ。カレカノなんだし、仲良くしようよ」

「自分から頼んできた癖に偉そうにしないでよね」

「とりあえず今日から都合があう時は一緒に帰ろ。周りに怪しまれないカレカノとしての情報交換さしてよ」

「いいけど…………カナタの名字って何だっけ?」

「そこから!?マジで!?」


そんなやりとりをしていたらちょうど5限が終わるチャイムが鳴った。

触れるカナタの指先はまだ冷たいままだ。

これからくる真夏に、恋人ごっこのテストとして手を繋ぐのにちょうどいいかもしれないなと思った。


恋とか愛とか信じてない。

好きになる事も、一番になったり手に入れる事も考えてない。

だけど私たちが付き合う理由にそんなのは必要ないし、ままごとみたいな恋人ごっこだ。

だから私はカナタに縛られることもないし、誰といても遠いところで幸せなマーちゃんに焦がれてるだけで終わると思う。


最初からずっと一緒にいてくれる人なんているわけがない。

お母さんでさえ一緒にいてくれないものなんだから、どう転んでも私は一番にはなれない。ましてやそれをカナタになんて求めるつもりもない。


それなのにカナタは、体の付き合いから入らない恋愛をちゃんとしたいと思ってる。

何にもしなくても女の子と一緒にいれるかどうか、その練習台として何にもしない交際をしてみるだなんて、どこか空っぽな私からすれば羨ましい話だ。

ちゃんと人を好きになって大事にしたいって求めようとするだけ、私なんかよりも温かい何かを持ってるのかもしれない。



「今日からよろしくね。カナタ」

「……ごめん、ヨシノさん」

「何が?」

「今、無意識にキスしそうになっちゃった。だってヨシノさん雰囲気がエロいんだもん」

「真剣に悩んでた傍からそれとか、ふざけんなよ」



……始まったばかりの恋人ごっこは前途多難だ。



(  ミナミくんの恋人(仮) )

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