「どうしよう」

杳太は握りしめた拳をそっと緩め、チョロQが消えてないことを確認すると、何十回目かのため息をついてまた痛いほど握りしめた。僕は万引きをしちゃったんだ。それがいけないことだというのはよく分かっていた。やってしまったことは取り返しがつかないのだという声が頭の中でぐわんぐわん鳴り響いていて、杳太はさらに強く強く拳を握りしめた。

「おかあさん」

どうしようと血の気が引くばかりで、涙も出なかった。この苦しみを母親にすがって取り除いて欲しかった。でも、母親を全能的な存在と思えるほどにはもう8歳の杳太は幼くなかった。母親と言えど、こんな自分が受け入れられると思えなかった。

「杳ちゃん、ごはんできたから手を洗っておいで」

階下で母親の呼ぶいつも通りの声がする。言わないと。でも言ったらこの、優しい声は二度と聞けない。だって取り返しのつかない、僕は悪い子になってしまったのだから。母の温もりを失うには、杳太はまだ幼かった。

「あなにすてちゃおう」

自分の思いつきは、これ以上ない最良の策だと思った。杳太は意を決して、ぴかぴかの青いカーペットをそっとめくった。その穴はいつの間にか空いていて、覗いても何も視界にきらめきもしない、べったりとした穴で、杳太は少し怖い気がしていた。でも今、指でつまんだチョロQをその黒に押し込めようと考え付いたとき、何だか温かな存在として目に映った。

「ごめんなさい」

そう口に出して指の力を緩めた。売れ残りワゴンの中でひときわ輝いて見えた赤いチョロQは、闇に溶けていくように姿を消した。じっと目を凝らし耳を澄ませても、微かな光の反射も音も何も感じなかった。まるで始めからチョロQなど無かったかのように、穴は静かにそこにあった。

杳太はそのとき生まれて初めて、自然に呼吸ができたような気がした。

「杳ちゃん!早く降りてきなさい!」

「はーい!」

カーペットをぱたんと戻し、杳太は跳ねるように部屋を出た。

階段を駆け下りる軽やかなリズムが次第に遠ざかり、部屋は、静まり返っている。

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