寒椿
「カンツバキ」
「カン……ツバキ?」
「そう、椿」
それは彼女の名前だろうか。とにかく彼女は椿と言った。白い肌に映える真っ赤な唇は確かに、雪の中に咲く椿を想像させた。決して下品とは言わないが、どこか崩れた品が彼女にはあった。落ちぶれた貴族の娘が売春宿で男を誘いながら、失いかけた誇りは唯一彼女を守るナイフとなる。その鈍く光る刃先を向けられた男は怯み、思わずたじろぐ。そんな危うさが彼女にはあった。
「あと6日。今日が、最後なの」
私が完璧でいられるのは。彼女の目は揺らがなかった。静かに真っ直ぐに見つめられて、そのまま入り込まれてしまいそうなそら寒さがあった。不気味であるのに、立ち去りたいとは思わなかった。何も色の見えない彼女の目、表情、声に、すがるような思いを感じたのは、きっと冬の寒さがみせたノスタルジーだ。人恋しいのは僕の方だ。
「来ると思わなかった」
真っ白な頬に、微かに赤みが差したように見えるのは、彼女の右腕の辺りを覆っている真っ赤な花びらが空気に溶けているからだろうか。
「椿」
「そう、椿の花びら」
細い指で1枚つまんでみせると、僕に差し出した。薄い花びらは、僕の手のひらに触れた瞬間、消えた。
「空気に溶けたみたいでしょう。偽物だから」
花びらをつまんだ指でそのまま、素早く僕の手首をつかんで、彼女は右腕の花びらに僕の手を引き込んだ。ざわっと赤が舞って、そこには、腕は無かった。
「昨日が、最後だったの」
完璧な君が?僕がそう尋ねると、赤い唇の端が持ち上がり、初めて笑った。
彼女は座っていた。片ひざを立てて、相変わらず赤い花びらに右腕を覆われていた。地面に広がった花びらを左手で掬って、頭上から降らせる。無言でそれを繰り返していた。
「今日は左脚なんだ」
ぱらぱらと椿の雨が降る。花びらと花びらが触れるしっとりした音がやけに大きく聞こえた。
「どうして泣いてるの」
「明日、あなたに触れようと思っていたの」
彼女の左腕は、もう無かった。
「もう全てが、手遅れ」
うつむいた彼女の睫毛は震えていた。その目の端から零れそうな涙を、そっとぬぐった。この雫は椿にはならないのだろうかとふいに思った。
「昨日なら、ここから立ち去ることができたのよ」
「でも君はどこにも行かなかった」
「そう。行かなかった」
両腕と両脚を失った彼女は、上半身だけになっているのだろうが、山のような花びらの中にいて、ただ、美しかった。
「抱きしめて」
彼女の声は小さく、しかし凛としていた。僕は、柔らかく、彼女を包んだ。温かく、甘い香りが辺りには満たされていた。
「私の名前、覚えてる?」
さすがに、花びらの山に顔だけが乗っている姿には、息を詰めるしかなかった。努めて、事も無げに答えた。
「そう、寒椿。椿って、満開の姿で花が落ちるでしょう。一番美しくて、完璧な姿で、死ぬのよ。でも寒椿は違う。1枚ずつ花びらが力尽きて、最後は無惨な姿。私は、完璧な姿で死にたかった。こんな姿、見せたくなかった。最初に出会った姿のまま、消えたかった」
「それでも君は、ずっとここにいた」
「そう」
「そして僕は、ここに来た」
「そう」
「君は僕の手の中にいる」
「………そう、ね」
「君があの時、完璧な姿だったあの時にいなくなっていたら、僕は君に触れることもなかった」
赤い椿の色をした唇をそっとなぞった。
「花びらに包まれてる君は、いつだって、完璧だったよ」
彼女はもう何も言わなかった。薄く開いた唇から椿の花びらが溢れて、彼女だった赤は風に舞って消えた。最後の一片が僕の唇を掠めて。
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