第27話

 ついに面談の日が来てしまった。


 あの休憩室での依頼を受けてから、俺は北条をできるだけ避けていた。また頼み込まれて、丸め込まれるに決まっているからだ。あいつも避けられていることに気がついていないわけじゃない。最近の挨拶はどこか影がさしている。

 俺は面談で話すべきことを一つに絞ることにした。四半期目標。その話題だけで乗り切る。他の話は一切しないし、させない。説明会など俺は知ったことではない。


 小会議室に入ると、既に北条はちょこんと座っていた。俺の四半期の目標シートを眺めている。

「……お疲れ」

 扉を開けて社交辞令の挨拶をすると、「お疲れ様です」と控えめな笑顔が返ってきた。

「四半期目標の件だよね。それでいい? いいよね」

 俺は三分で終わらせる気だった。とりあえず椅子にだけは座ってやる。


「たしかに……よく書けてると思います」

 向かいに座る北条は、浮かない顔をしている。

「嘘じゃないよ。履歴書と違ってね。だからもうそれ海堂さんに渡してくれて大丈夫だか——」


「ダメです」

「は?」

 遮られた。

 何だこいつと思ってみると、北条は悲しそうな顔をしていた。

 どうして、俺を見るときはみんなそんな表情をするんだ。

 俺が、何だっていうんだ。


「これ……転職したい人の、目標です……」

「それが何か?」

 反射的に言ってしまって後悔した。

 どうしてだ。


 人事なんてエンジニアの仕事など何にもわかってないはずのに。

「白鳥さんが、こんなに高い目標を書いてくるとは、思いませんでした。どこかに、採用されることを、意識して、いますよね。それくらい、わかりますよ……」

「さっさと辞めろじゃなかったの」

 北条はまた俯いた。こいつは真っ直ぐ向くか。下を見るかのどっちかだ。


「あれは、つい、つい、言ってしまっただけなんです。でも、そう言うしかなかったです」

「どんな事情があって社員に辞めろだなんて言う人事がいるんだよ」

 落ち着けと言う俺と、あの理不尽さを未だ許せない俺がいた。


「だって、白鳥さんは……」

「なんだよ」

「白鳥さんは……」

「だからなんだよ」


「白鳥さんは、もう誰が何を言っても、何の言葉も届かない人じゃないですか……」

 何でもなさそうにしている俺。

 でも北条が言ってる意味を理解……したくない。

「人の助言は聞く方だよ」

 そう言ってみるが空々しい。

 北条は黙っている。


「別に、誰の話も聞かないなんてわけじゃない」

 これは、嘘じゃないと、言えるのか?


「何か言いたいことがあるなら聞くよ、言いなよ、平気だよ」

 なぜ俺はこうも言葉を重ねている?

 北条は、唇を噛み締めて、何も言わなかった。


「ねえ、君は何が言いたいの」

 何でもないですよ、で流させない。

 何が、俺の何がそんなにいけないんだよ。

 俺のどこがそんなに、気まずい顔にさせるんだよ。


「言いたいことがあるなら言ったら」

 返事はない。

 太田原と重里の顔。

 前に進んでるように見えない俺——


「お前は何が言いたいんだよ!」

 これじゃあの昼飯と変わらない。

 なぜこうも俺はこいつに当たってしまう?

 北条は俺のこの態度を待っていたかのように、ゆっくり、話し始めた。


「白鳥さんは、転職したい人なんだと、初めて会った時から、思いました」

「でも、できないんだって思いました」

「だって、夢を見つけることと、現状から逃げること、転職が全て一緒になってるんですもの……」


「そんなの、俺が一番知ってるよ……」

 ああ、聞きたくないことを聞いている。

 知られたくないことを知られている。

 こいつは、どうしてこんなに俺を見透かしているのだろう。

「そうだよ、俺は、残るか移るかも決められない。自分がなくて、夢もなくて、だから主体性もなくて、自分の居場所にホッとして、とにかくもう、どうしていいか分からない人間だよ」


 これで満足か?

 俺がいかに淀んだ人間か知れて満足か?

 北条は少し考えて、また、口を開いた。


「自分の居場所にホッとするのは、悪いことじゃないですよ……。新しい居場所を求めてしまうのも、わかります……。でも、どうしてそんなに、ここじゃ、ダメなんですか?」

 どうしてか、だと?


「そんなの……、簡単にわかるかよ。今の会社でいいと思うのに、楽しそうにしている奴らには嫉妬する。他の居場所が気になるよ。夢と転職の区別もつかない。分んないんだよ。別に楽しくないわけじゃない。仕事はそれなりにやりがいも出てきた。でも、それでも満たされないこの、渇きがあるんだよ」

「嫉妬するのは、他人と自分を、比べてしまうんですね」

「ああ、そうだよ悪いかよ」

「他人と自分を比べて、勝手に、もう死にたくなるほど自分を否定してしまう気持ちが、あるんですね」


 ダメだ、これ以上は聞きたくない。

 なのに言葉が心から漏れてくる。


「そうだよ。もっともっと、楽しそうな奴が世の中にはたくさんいて、自己実現とやらをしていて、アスリートはメダルを取って。そういうのに、俺は、俺は、自分がなんて生きる価値のない空っぽな人生なんだろうって思うゴミみたいな人間だよ。……違う、こんなのは俺じゃない」


 自分が何を言ってるのか理解できなくなっていた。

「俺はそんな、そんなゴミみたいな人間じゃない」


 理解不能。

 だが、俺の意味不明な独白を聞いても、北条は何の軽蔑の色も示さなかった。そしてまた、ゆっくり話し始めた。まっすぐに、俺の方を向いて。

 どいつもこいつも、どうしてそんなまっすぐに人のことを見つめられるのだろう。俺は、どうしてその瞳を受け止められないのだろう。


「楽しそうな人に、劣等感を持ってしまうんですね。……そんなに真剣に自分と向き合ってるのに、自分がないと、思ってしまうんですね」

「慰めならやめろよ」

 これじゃ反抗期のガキ以下だ。


「これ以上、聞きたくないですか?」

「聞きたくないよ。もう、やめて。この話はやめにしよう」


「じゃ、じゃあ、これだけは言わせてくださいね」

 北条はゆっくり目を閉じた。これだけ、の言葉を選ぶためのように。

 そして目を開いて、そっと息を吐く。

 選び抜いた言葉はなんだと言うのだろう。


「生きてるだけで、百点満点ですよ」

「は?」

「生きてるだけで、百点なんです」


「ごめん、分かるように言ってくれるかな」

「真剣に悩む自分を否定して自分を追い詰めないで」

「なにそれ……」

 意訳しすぎじゃない……と言おうとしたのに。言おうとしたのに。

 涙が出てきて、言えなかった。 

 百点満点。


 ずっと聞きたくても聞こえなかった聞きたい言葉。

 さっさと辞めちまえとまで言った、こいつから聞くとは思ってない、思ってなかったのに、ずっと欲しかったその言葉。それが急に降ってきた。


 聞こえないのは自分が作った壁のせい。人を避けて生きてきた。分厚い高い硬い壁。それをなぜか容易くぶち壊し、どでかいスピーカーで叫ぶやばい奴。

 人生を、採点してくれる奴。

 この俺の、失敗人生を認めてくれる奴。

 それが、よりにもよってこの女。

 北条は俺に構わず話し続けた。


「白鳥さんが、頑張ってるの、私、知っています」

「初めて休憩室お会いした覚えていますか? あれは偶然なんかじゃないんです。あんまりにも白鳥さんが頑張って、頑張り疲れちゃっていると思って、跡をつけてしまったんです。ごめんなさい」


「謝ることはそれだけじゃありません」

「初めての面談の時、本当はもっと優しい言葉をかけたかった。でもどんな励ましの言葉も、白鳥さんにとっては鋭いナイフになってしまう。だってもう誰に何を言われても、白鳥さんは聞ける状態じゃなかったから」

「何にも助けてあげられない、下手くそな自分に憤ってあんな言い方をしてしまった。でも本当は前に、ただ前に進んで欲しいだけだった。ごめんなさい」


「白鳥さんが悩んでいるの、分かります」

「でも白鳥さんは、毎日お仕事に来ていて、大学も高校も卒業されて、もうこんなに頑張ってるじゃないですか」

「勉強会にも行って、とっても頑張っているじゃないですか」

「白鳥さんは、真剣に悩んでいるじゃないですか」

「白鳥さんはもう十分自分でできることをしているんです」

「悩んでいることは、停滞なんかじゃないです。でも、白鳥さんはそれに気付かずに、自分を追い詰めてしまっていると思うんです」

「白鳥さんは、とても真面目な人なんです」

「だから、私は白鳥さんに代表で話して欲しかった」


「だって、一番、人生に向き合ってる人ですもの」

 ずっと聞きたかった言葉の雨。

 涙が、止まらなかった。


「一言、だけじゃ、なかったの……」

「一言じゃ、収まりきらないことでした」

 ごめんなさい、と北条はまた謝った。

 俺はその謝罪をどう受け止めていいのだろう。

 だって、こんなの初めてで。


「君さ……、人に踏み込むの、やめなよ……」

 自分の心を知られた時、どんな気持ちが正しいのか、俺には、分からない。

「ああ、そんなに泣かないで。猫、猫の写真でも見ましょう」

 そう言うと北条は自分のスマホを出して、猫の写真を見せてきた。数え切れないほどの猫が部屋の中に好き好きに遊んでいる。


「これ、私の部屋の猫なんです」

「え、多すぎ……」

「拾ってたら増えちゃったんです……」

 何だよそれ、と言って俺は笑った。

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