第26話
スケートリンクは、クソ寒かった。
「まさ〜し〜! お前そんな薄着で大丈夫? 寒くない? オレ流石に脱いで服貸すのやだよ?」
「いらねぇよ」
全身が小刻みに振動している。なんだっけか、海に漂流した時は身体を震わせた方が体温が保たれて良いとかいう話を聞いたことがあったのを覚えている。……俺は漂流も漂着もしてないけれど。
アイススケートに行こうなどと言い出したのはもちろん重里だ。
俺の席にふらっとやってきて、「俺ね、スケート行きたいの。でも一人で行くの寂しいから、まさーし一緒に行こ?」と言われたのだ。俺は他の奴と行けよと言ったのだが、「他の奴らは下手だからね、俺についてこれないの。俺、めっちゃ上手いからね」とかなんとかぬかしやがって、じゃあ俺と行く意味ねぇだろと言ったのだが、「次世代の俺を育成したいんだよ〜。まさーしに是非とも伝授したい。ねっ?」とかほざいて、どんどん日付と日時を詰められて結局今日に至ってしまった。
受付で先に会計を済ませ、中に入ってスケート専用の靴を履いた。金属が足の裏に一直線に通ってるのに違和感がありすぎて、立ち上がってビビった。氷の上はさらに足元が滑りやすい。当たり前か、滑るための場所だもんな。
「まさーし意外と滑れてるじゃん! なんだよ、俺の次世代育成計画が変更だよ!」
「ベラベラ喋んなよ。今、全集中力使ってんだ」
絶対行ってやるもんか、と思っていたのだが、念のために「アイススケート入門」とかいう感じのサイトを見て予習してきていた。流されている。
スケートリンクには初めてきたので、これが広いのか狭いのか判断はできない。だが明らかに素人じゃないような奴らが滑っていて、しかも横にはコーチみたいなのがいた。おそらくプロ育成の場に素人の俺らがお邪魔しているのではないかと思う。
重里は俺の速度に合わせ、実に余裕をこいて滑っている。ポケットに手なんかつっこみやがって、しかもフォームも良い。
「お前一人で滑ってこいよ。俺は一人で満足だよ」
俺がそういうと「え〜、まさーしひど〜い」と文句を垂れた。
「疲れたら無理しないで休んでいいからさ、のんびりゆっくり滑ろうよ。ねっ!」
「俺はもう疲れてるよ。お前と待ち合わせた瞬間から疲れてるよ」
「なんだよそれ〜」
重里は楽しそうだった。いつものおちゃらけた重里だ。でも、なんの理由もなくわざわざ俺と、しかもサシで、なぜかスケートなんかしようと思う奴などいない。こいつが腹の中で何を考えているのか予想できない。一つわかるのは、良い話じゃないということ。俺は、その瞬間が来ないようにと祈っていた。
「疲れたから一回上がって休もうぜ〜」
客席のように椅子が並んでいる入り口の前まで着くと、重里がさっさとリンクから上がって行った。俺だって一人で滑りたいわけじゃない。重里に従って俺も椅子に座った。
靴を脱ぐと、足に氷の上にいたという違和感が残っている。自販機で温かい飲み物を買って飲みたいな、と思ったら、重里がサクッと買ってきて、俺にくれた。こいつの飲み会スキルを始めとする、人を気遣う能力は人よりずっと高いと思う。なぜ売れないのか疑問だ。
「まさーしくん、上手じゃないの」
わざとくさいニコニコ笑顔で話しかけられる。
よくない兆候。
「変に褒めなくていいから」
「じゃあ、オレ、本心から話すわ」
「は?」
いきなり始めやがった。
「話があるのくらい、まさーしなら気がついてるでしょ」
避けられなかった。こいつは何かを話そうとしている。それも聞きたくない何かを。
「オレさ、公務員試験受けることにしたの」
「あ?」
オレね、と話し始めた。
「オレ、売れてないでしょ。でもさ、あんまりそういうの、気にならないわけ。周りの人には申し訳ないふりしてるけど、どうでもいいんだよね」
重里はスケートリンクを眺めながら、話している。
この独白はどこに向かうのか。
俺は、口を挟むべきではない。
「生き甲斐とかね、ないの。だから仕事もどうでもよくてね。だけどそろそろ、人生なんとかしないといけない時期が来ちゃったの」
「なんで公務員かっていうと、公務員の仕事を舐めてるわけでもなんでもないんだけど、なんか、オレに合ってる気がしたってだけね。直感っていうのか。オレ、地方出身だし、地方創生の全く興味がないわけでもない。オレの出身地、限界集落だからね」
「オレ、東京に出て来て何してんだろ」
「心ってさ、旅したら軽くなったりするじゃん。そういうの期待してたんだけど」
重里は、まっすぐに俺を見た。
「何にもなかったわ」
そこで言葉が止まった。
そして、足元を見て、うなだれた。どんな言葉をかけるべきか、見つからなかった。楽しそうな子供。転倒する大人。真剣に教えるコーチ。そういうのを、ただ眺めた。
「あ〜、ごめんねこんな話しちゃってさ〜」
明るく言っているつもりなのだろうが、いつもの重里になりきれてない。俺の方に向き直ると、目尻に、かすかに涙が滲んでいるのを、普段人の顔なんて見ないのに、気が付いてしまった。……会議室にいた北条の時と同じように。
重里は隠そうとしてか、努めて軽く話す。
「同期がさ、突然いなくなったら、寂しいっていうか、すげー欠落感があると思うんだよね。心に穴が開いちゃった的な。だからまさーしには前もって言っておきたかったっていうか。でも……」
「なんだよ」
「なんか、まさーしのが先に辞めちゃいそう」
すぐに反応できなかった。辞めたいなんて一言もこいつに言ってない。
「まさーし、なんか辛そうだから」
「辛そう?」
太田原の言葉を思い出す。
「うん。辛そう。辛かったら、言ってよ。オレ、聞くよ? だって同期だもん」
ああ、俺は誰から見てもそんな風に見えるのか。
「何もないよ。ちょっと疲れてるだけだ」
「本当に?」
「嘘ついてどうすんだよ」
重里は、「そういうけどさ、」と言った。
「悩みがあることくらい、簡単に分かるよ。隠したいなら止めないけど、人に話さないと、進展しないことってあるじゃん。お前、ずっと前に進んでる感じしないんだよ」
重たいボディーブロー。
「気持ちの整理くらい、日記で十分だから」
「それで自分の考えを信じられるの?」
華麗なローキック。
「言ってる意味がわからないよ」
「人に、あ、いいんじゃない、って言ってもらわなくて前に進めるなんてまさーしは強いな。オレは、無理。今日はね、オレの素晴らしき人生プランを聞いてもらってね、いいね、が欲しかっただけなの。付き合わせてごめんね、まさーし」
重里は靴紐を編み出し、「もっかい滑ろうよ〜」とリンクに帰っていった。
俺は重里に、いいね、を押してあげることはできない。
俺なんかにもらった、いいね、に価値などないからだ。
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