第19話

 俺は仕事に集中している。


 あのレストランの日ことを思い出したくなくて、転職のことを考えると、北条のことも必然的に記憶と結びついて思い出してしまうので、仕事に没頭していた。そんなことをしても何も変わらず、停滞したまま。この会社で俺にできる範囲のことなど限られている。かといって他の会社に移ったところで、できることは変わらない。前に進める気配が、ない。それでも、俺はこれまでの三年間の中で一番真面目に仕事に打ち込んだ。


 あの出向以来、海堂とはまともに話をしていない。向こうも俺も、お互いに話したいと思わない。上司と部下の関係として、最悪の状態だ。望んでいたのではない。ゆっくりと、しかし着実にそういう関係に、なっていた。

 淡々と毎日仕事をこなしていく日々が続いた。これで良いのか、自問自答も避けている。重里の、「移るか残るか決める時期だよ」という言葉が脳裏にちらつくが、無視していた。俺は、どこにも行けない。流れ着いたというものの、漂着しているか怪しいところだ。俺はまだ、太平洋の真ん中に浮いているんじゃないかと思う。いや違うな。俺の浮いてる場所は、そんな広い場所じゃない。もっと濁って狭い、緑色の汚い川だろう。それも正しくない。川じゃないな。川はいつか海につながっているから。俺にふさわしいのは沼だろう。


 そこまで考えて、俺は思考を振り払った。仕事。仕事に集中しなければ。降ってきた数少ない仕事に全力で没頭する。これをひたすら繰り返した。だが、ついに壁にぶち当たってしまった。自分では解決できない箇所が出てきたのだ。


 俺はまずネットで似たようなことがないか調べた。少しだけ似ていることが書いてある記事を見つけたので、それを応用しようと試みる。だが似ているといえど、ケースが違う。応用力が身についてない俺は、少しでも違うケースだと対応できない。本屋に行った日に買ってきていた書籍を見てもわからない。よくよく発売日を見てみると、もう数年前の本だった。これじゃあ参考にもならない。どうしたらいい。どうしたらいいんだ。


 ここで最悪の解決策が一つある。

 質問する。

 助けを仰ぐ。


 俺は鼓動がどくどくと打ち始めるのを感じていた。話かける、勇気がない。どこれもこれも今までの日頃の行いが悪いせい。自業自得。そのツケが回り回って訪れた。


 聞くしかない。


 俺は炭酸水を一口飲んだ。それでもすぐに、口の中は乾いた。隣を見ると、そんな俺の様子になんて気がつかないまま海堂は仕事をしている、ように見えた。が、すぐに俺に気が付いて、こっちを向いた。


「なんだ」

 いつもと同じ鋭い目つき。目が合うだけで震え上がる俺。

「用があるなら早くしろ」

 お前に割く時間なんて勿体ないんだよ、という言い方。


「あの……」

 俺は言い出せない。


「あの……」

「なんだ」


 聞くしかない。それが仕事というものだ。聞くしか前に進めないのだから。


「分からないんです……」

 なんて返事が来るかなんて、想像もできなかった。俺は雷に打たれる覚悟をした。海堂は俺のモニターを覗き込んだ。


「どこだ」

「え?」

「どこが分からないかと聞いている」

 俺は指で、「ここです」と示した。震えている。

「そこは、こうだろ」


 海堂は俺に向かって、どこがどう間違っているのかを説明しだした。丁寧で、分かりやすい説明だった。俺はそれを必死に聞いて、メモした。そして説明が終わった。


「あ、あの……」

「なんだ」


「ありがとう、ございました」


 礼を言うなんて、初めてだった。今までこんな事態がなかったから。俺は気が動転していて、ただ無意識に礼が口から出てきていたのだ。


 海堂はいつもと同じく「ふん」と鼻を鳴らした。

「いつもそうやって仕事しろ」

「え……」

「分からないところはさっさと聞け」

「え……はい、すみません」


「仕事に戻れ」

 それだけ言うと、海堂はまた席に戻った。

 俺は、ふわふわした気持ちだった。いつもそうやって仕事をしろ。分からなかったらさっさと聞け。その言葉を何回も反芻していた。そんな言葉をかけてもらうのは、初めてだった。自分の仕事に向き合うのも、海堂と向き合うのも、どれもこれも、初めてだった。

 

 人は俺が思う以上に、俺のことを見ている。

 これまでのやる気のなかった日々のことを。

 ならば、これからの心を入れ替えた日々のことも、見てくれる人は、いる。

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