第20話

 頭があまりにも熱くなったので休憩室に行くことにした。


 海堂に、ちょっと休んできていいですか、と訊いたら「休憩は好きにとれ」と言われたのだ。今までは勝手にサボっていて、後ろめたく思いながら抜け出していたので、これで気が楽になった。


 人間関係が良くなると、こうも状況が変わるのか。


 俺は今まで人との対話を避けてきた。避けてると俺自身が意識してなくても、一方的につながりというものを持たないようにしてきた。いや、持たないように、ではない。持てなかったのだ。関係性を構築することができない。俺自身に何か問題がある。それがなんなのかは絡み合った感情の中からじゃ判別できなかった。


 俺は、もう長いこと、逃げることだけを考えて生活していた。頭の中は先の見えない迷路についてのことばかり。人生袋小路だとずっと思っていた。だけど、もしかしたら、今の会社でも、これから自分の、なんていうのか、居場所のようなものを作れるかもしれないと思えてきた。でも、「それじゃ、転職やめるわ」とは単純に思えない。


 選べない。急に現れた「残る」という選択肢にどう向き合うべきか、判断がつかないのだ。残ることも、できる可能性がある。でも、上手くいかない可能性だってある。仕事があまりにできなくて、愛想を尽かされることもありうる。だからといって、転職が上手くいくのかどうかも、予測できない。


 そこで俺はまた思い出す。あの勉強会の奴らは、移るも残るも自由自在に決められる。でも、俺にはそれができない。俺があいつらみたいだったら、どんなに良かったかと思う。そう、俺は、あいつらになりたい。


 見えてこない自分像。ただ、一つ見つけたことは、あいつらに対する嫉妬心。俺もあの発表台に立ちたかった。俺がなりたいのはああいう人種。好きを突き詰めたすごい奴。だけど、それは自分像ではない。漠然とした憧れでしかなく、他人になりたいという願望は自分像とイコールではない。もっとはっきりとした、自分というものが欲しかった。でも俺の中は空っぽで、隣を見ては羨ましがるだけ。個性はない。憧れは指針ではあるがゴールではない。真似をしても、幾分かの満足を得るにすぎないのだ。


 残るにしても、移るにしても、俺は自分というものがない。職務経歴書一つ埋められない。俺は自分がどうしたいのか、分からなくなってきた。

 とりとめない思考を続けていても、何も始まらない。そろそろ戻るか、と椅子から立ち上がり、外に出ようとすると休憩室の扉が自動で開いた。


「あっ」

 北条だった。なんて間の悪い奴。

 俺は入り口を開けてやった。今更なんて言葉をかければいい。

「お疲れ様です」

 そう言われて、「ああ、うん。お疲れ」と返した。よくある社交辞令のつもりで言ったのだが、見ると北条は本当にやつれていた。なんていうか、どんよりとした暗い空気が彼女の周りに集まっている


「なんかあったの」

 思わず聞いてしまった。そう聞きたくなるくらい北条は曇った目をしている。放っておいたら、なんか階段から足を踏み外しそうな。


「お話、聞いてくれますか」

 考えなしに聞いてしまったので、そんな素直に言われると想定していなかった。なにより、俺でいいのか? と思った。


「座ったら」

「そうですね……」

 俺は以前そうしたように、コーヒーを買って北条に渡した。まあ、それでも飲んで元気出してよ、とか言いながら。俺は話を聞く気があるのか微妙な線だ。

 北条は黙って受け取ったが、中身を飲まずに、ぼーっとしていた。


「なんかあったの」

 もう一度同じことを聞いた。


 北条は「ああ、そうなんです」と宙を見ながら返事をした。いつもみたいに目が合わない。


「何があったの」

 どうしたら彼女が話しやすいのかわからず、俺は一辺倒に尋ねるしかない。北条は「ああ、そうなんです。そうなんです」と繰り返している。


「三枝さんが」

 やっと北条は話し始めた。

「三枝さんが、高血圧が悪化して、しばらく休職されるんです」


「え、じゃあ君どうするの」

 と、聞いて俺はバカな質問をしたなとすぐに理解した。人事部長の代わりの人間などいない。雇っている余裕もなければ時間もない。そして控えた新卒採用。


「どうしよう……」

 北条は俺に向かって話してなかった。ただ独り言のようにそう呟いていた。

「どうしよう……」

 それしか言ってない。


「新卒採用って言ってもさ、ほら、適当に会場借りて、会社概要話してさ、アンケート用紙なんか配ってさ、面接のアポイント取って面接するだけじゃない」

 北条は黙って俺のいうことを聞いている


「集客はさ、なんか中堅どころの就活サイトに載せてもらってさ、エントリーできるようにして、文面は去年のデータ使い回せばいいじゃない」

 全部これ、一人でやるのかな、と話していて思った。これじゃなんの励ましにもならない。


「それでも」

 北条が口を開いた。


「それじゃ、ダメなんです。それじゃ、入社してくれないんです」

「どういうこと?」


「会社に魅力を感じてくれないと、面接にも来てくれない。だから、仕組みだけ整えてもダメなんです」

 北条のいうことは最もだった。


「ねえ、白鳥さん」

 俺はなんだか嫌な予感がした。

「白鳥さん、説明会で、社員代表で喋ってくださいよ」

 予感が、的中した。


「白鳥さんなら、できるはずです」

「ごめん、それは無理だ」

 突き放すようで、言いたくはなかった。でも、できないものは、できない。

「お願いします」


「その役目は僕じゃない。もっと、若い奴がいいなら重里とか、ああいうやつのが向いてるよ」

 重里には悪いが、あいつなら、簡単にやってのけると思う。

「白鳥さんのが向いてます」


「さっさと辞めろじゃなかったの」

 ああ、また言いたくないことを言った。

 北条はあの日と同じように、黙って、俯いてしまった。

「ごめん、でもできないよ」

 俺はそう言った。


 俺はその役目を引き受けることはできない。

 俺が振りまける夢などないからだ。

 何でこいつは、俺なんかに頼んだのだろう。

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