第18話

 風邪をひいた。


 身体が重く、胸のあたりにも大きな石が入ってる感じがする。だが俺は内科じゃなく歯医者に行くしかなかった。歯が痛いのだ。それも痛烈に。俺はいくつになっても歯医者が怖い。なんかの海外の歌で、「可愛い女の子と歯医者が怖い」みたいな歌詞があったが、分かる。


 咳と鼻水が止まらないのだが、熱は微熱だった。だからインフルエンザではないと思うのだが、歯を削ってる時に咳が出たら医者の手元が狂ったりして大変なことにならないか、甚だ心配だ。混んでないはずなのに、前の患者が長引いているのか、待ち時間が長かった。さっきから何分経った? 時計を見ては、避けられないドリルの音を想像して怯えている自分がいる。何歳になろうが怖いものは怖い。

 待合室は清潔で真っ白く、無菌室のようなのだが、独特の、消毒液のような匂いがする。雑誌がいくつか置いてあって、気を紛らそうと手に取るのだが、近隣のグルメ情報とかそんな雑誌ばかりで、俺の興味は引かなかった。


 あとはウォーターサーバーとマッサージ機が置いてある。さっきから緊張で何杯も水は頂いている。マッサージなんてして緊張した身体を無理やりほぐしたら筋肉が吊りそうだ。


 手持ち無沙汰。

 これがなんでもない待ち合わせだったら良かったのだが、生憎そうじゃない。楽しくない時間へのカウントダウンとは世の中の嫌なものの上位にくるのではないか。

 居ても立っても居られない。

 そんな俺の目の前にはちびっこコーナーがあった。


 さっきから無限にアンパンマンが放映されており、見飽きた。ちびっこコーナーには一人だけ女の子がいて、余裕こいて順番を待っている。俺は、あの女の子よりもビビリか……。

 女の子はLEGOで遊んでいた。でも自由に作っていいと言われると、何も作れないタイプの人間らしく、縦に繋げて行くだけで独創性に欠ける。俺と同じ。他には人形、それもなんかあんまり可愛らしくないやつが置かれていた。髪の毛がギシギシで、ホラーだ。それ以外には布を縫い合わせて作った大きいサイコロがほっぽって置かれていた。

 女の子はサイコロに乗っかってみたり、転がしてみたりしたかと思えば、人形を逆さにして眺めてみたり、LEGOの部品を壁に投げつけたりして、ちょっと荒っぽかった。この子、将来どんな子になるんだろうか。ちびっこコーナーは設けてある割につまらなそうなのだった。女の子はついに長い待ち時間にうんざりしたのか、待合室内をうろちょろし始めた。ちょこちょこと走っている。そしてなぜか俺の方へ駆け寄ってきた。


「お兄ちゃん、何してるの?」

 不審者を見るような目なのは気のせい。気のせい。

「何って言われても……」

 地獄へのカウントダウンを待っています、と言っても伝わらない。

「お兄ちゃんも歯を削るの?」

「そうだよ……」

「怖い?」

「怖くないよ」

 俺には妹もいなければ弟もいない。どう接するのが正しいのか。


 女の子は「ふーん」と得意げな顔をしたかと思えば、「まっ、お兄ちゃんは男の子だから泣かないわね!」と言った。このような性差別は良くない。親の教育は良くないとみた。


「ねえ、お兄ちゃん」

 呼ばれ慣れない。なんだか恥ずかしい。

「何かな……」

「絵本読んで!」

「え? 俺が?」

「他に誰がいるの?」

「いないけど……」


 女の子はちびっこコーナーからなんか本を持ってきた。何十人ものちびっこが読み回したせいでボロボロになっている。本の表紙を見ると、あの例の、有名な、キラキラした鱗をみんなに配る魚の話だった。勝手に嫉妬された上に自分の身を削るとんでもない話だと俺は思っているが、世間から見たら俺はひねくれ者の少数派。で、俺がこれを読むのか?


「早く読んで」

「はあ」


 読み聞かせなんて、したことがない。でもこの女の子は当然のごとく俺にさっさと読めや、という態度でくる。この子、将来どうなるんだろう。

 俺が仕方なく咳を必死に我慢しながら読んでやると、「違う」と言った。


「もっと寅さんの始まりみたいに読んで」

「あ?」

「お兄ちゃんの読み方面白くないの」


 全く世代じゃないものをリクエストされても困る。親の影響を受けている以外に考えられないのだが、渋い親だ。

 葛飾柴又……くらいしか知らないのだが、適当にそれっぽく導入したら、お気に召したらしく、黙って聞いていた。なんで俺がこんな子守をしないといけない。親は何をしてるんだ。


 一冊読んでやると、その女の子は「ありがとう!」と笑顔を俺に向けた。

 ああ、可愛い女の子は怖い。この笑顔で何もかも許されると思ってやがる。


 気にしないでいいよ、と言うと、「じゃ、もっかい読んで。今度はデスノートのエルっぽく読んで」

「あ?」

 めんどくさい。そう思った瞬間、治療室の扉が開いた。


「ともちゃん、何やってるの?」

 綺麗な人だった。この人が母親なんだなぁ、と思っていると、その女性は俺に近づいてきた。


「やめてくれます?」

「え……何を?」

「うちの子に構わないで。風邪が移ったらどうしてくれるの?」

「え……、……すみません……」


 綺麗な母親は女の子を連れてさっさと会計を済ませ、出ていった。

 そして看護師さんから何度も名前を呼ばれていた。


 何も間違ったことをしていないのに、簡単に傷つく自分が、嫌だった。

 いつから俺は、こんなに傷つきやすいのだろう。


 何に、こんなに傷ついているのだろう。

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