第16話

 いよいよ母から「いつ出て行くの?」と訊かれた。


 俺は、転職するからその時まで待ってくれ、今勉強していて、すぐに決めるから、という旨を伝えてしまった。半分以上が嘘だ。


 あの勉強会以来、俺は、もうすぐにでも動かないとまずいと感じていた。圧倒的な差。同じ歳のはずなのに、どうして、こんなに俺とあいつらは違うのか。なんでもいいから動きたい。でも、その「なんでも」が、どういう道筋なのか見えてこない。



 今の会社に残ることはもう考えていなかった。勉強会に行った日にそう思った。「どこでもいいから逃避したい、今度こそやる気を見せればいい……」とはもはや思えなかったのだ。

 今の俺と似たような会社でも、転職をすれば仮には一応新天地。人間関係は一から立て直せる。でも俺は知ってしまった。身分のない服装。楽しそうな仕事ぶり。そういうものがあるということを知ってしまった。


 俺はできるなら、あの発表者みたいに、なりたかった。

 そしてこの会社の人間は、もう誰も俺に仕事を教えようとなんて思わない。上司との関係も悪い。やってる仕事も楽しくない。これ以上、この会社に通い続けたら、俺はきっと心のバランスを崩す。


 出社しても、特に誰とも会話がない。


 俺は誰にも話しかけられないのと大した仕事がないのをいいことに、ずっと転職について考えていた。今の俺にできること。未来の俺にできること。そういうことを考え続けた。今の俺にはなんのスキルもない。何がしたいかも見つからない。よって職務経歴書も書けない。ぼんやりとした憧れだけがそこにある。


 あの楽しそうな奴らは、職務経歴書なんて簡単に書けるのだろう。なんで、どうして俺はあいつらみたいになれないのか。どうやったら、あいつらみたいになれるのか。あいつらは今までどういう軌跡を描いてああなったのか。


 俺は運が悪かったんだ。運が悪かっただけ。こんな会社に入らずに、あいつらと同じような会社に入れていれば、俺も今頃はああなっていた。……。知っている。俺なんかがあいつらと同じ会社に入れるわけがない。だからやっぱり転職できない。今の会社に、いるしかない。ああ、やっと光が見えたと思えば俺は再び堂々巡り。


 ずっとそんなことしか頭に浮かばず、結局、思考をこねくり回したところで成果はない。あいつらは、新卒の時からすでに俺とは違うスタートラインに立っていたんだ。


 スタートライン、と浮かんだ言葉で「新卒」という言葉が頭をよぎった。俺は新卒のとき何を考えていた? きっと思い出しても後悔と自責の念にとらわれるだけだろう。でも、仮にも一枚一枚、手書きで綴った履歴書だ。何か、現状を打破するために参考になるものがあるかもしれない。


 俺は軽く立ち上がって、三枝を探した。四半期目標のためとか適当なことを言って、履歴書を見せてもらおうと思ったのだ。でもどこにもTedは見当たらなかった。できる限り接触を避けたかったが、この際、北条でもいいかと思って席を見ると、北条もいなかった。俺はすぐにでも履歴書を見たい。昼飯の時間にはまだ早いのに、なぜいない? 俺は重里の席に行く。

「まさ〜し〜! グミ? グミ食べに来たの? 今日はね、コーラ味なの」

 そう言ってグミの袋を差し出してくるので、俺は一個だけもらっておいた。コーラのような、偽物のような、微妙な味がした。


「多田くん。人事の人がどこにいるか知らないかな」

 俺がそう訊くと、重里は「ああ、それならね」ともぐもぐしながら言った。

「三枝さんはね、体調不良でお休み。北条さんは会議室じゃないなかぁ。なんかね、パワハラがあったらしいの。んで辞めるっていうんで色々大変みたいよ」

 なぜかこいつは社内のあらゆる情報を知っている。それを営業に活かせないのかと疑問に思うが、俺はありがとう、と礼を言った。


「あ、ところでまさーし」

「何?」

 重里に呼び止められた。

「この前、面談どうだった? 俺、売れないからやべーと思ってたんだけどさ、北条さん優しいの。オレ、ああいう人に人事やってほしいと思ってたよ」


「優しい……?」

 聞き間違えだろうか。

「うん。まさーし面談なに話した? ほら、オレたちお互いが何してるか意外と知らないじゃん」

「特に何も変わったことは話してないよ。仕事どう? とかそれくらいだよ。そして特に問題もない」

「やっぱりまさーしは違うなぁ。オレなんて励まされっぱなし。北条さんでよかったわ〜」

 俺は「そうなんだ、よかったね」と言って流した。


 あいつが、優しい?


 会議室は使用中の札が降りていた。が、電気がついていなかった。

 札の上げ忘れかと思ったが、中に誰かまだいるかもしれない。プロジェクターで何かスライドを写している可能性もある。二回、大きめにノックした。特に反応はない。俺はそっと、扉を開けて中に入った。


「誰……?」

 部屋の奥の暗がりに、北条が座っていた。

「北条さん、ちょっと用事があるんだけど」

 俺はそこまで言って気がついた。北条の目が腫れぼったくて赤い。

「ちょっと、あとにしてもらえますか。今、忙しいの」

 忙しいように見えない、なんていうのは野暮だ。「色々大変みたいよ」という重里の言葉を思い出す。退職沙汰。三枝の休み。新入社員。


「なんかあったの」

 黙って立ち去ればいいものの、俺は訊いてやりたくなった。さあ、こいつはなんて答える? 弱音を吐くか? 助けを求めるか? なぜ俺にだけあれだけの言葉をぶっ放してくれたのか、今すぐこの場で問いただしてやりたかった。北条はそんな俺の心には気がつかない。ただ、ふっと俺を見た。


「なんでもないの」

 一言返ってきただけだった。


 ああ、つまらないな。

 何もかもつまらない。

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