第7話

 フロアに戻ろうとすると、若い女が入り口の前でポツンと立っていた。


 フロアにはセキュリティがかかっていて、関係者以外は入れないようになっている。だから来客の時はあらかじめ約束の時間に入り口の前で出迎えるのがここの会社のやり方だった。この女は生命保険か何かの営業か。話しかけられたくはなかった。俺は目をあわせないように、できるだけ関心なさそうに入り口でセキュリティを解除する。


「あの!」

 女が言った。相手は俺しか考えられない。

「あー、ごめんね。僕、今、急いでいるんだ」

「いえ! 私、今日から入社したはずなんですが、社内に入ることすらできなくて!」


「入社?」


 まじまじ見ると、顔立ちが整っていて、俺はすぐに目をそらした。

「君、人事部の三枝さんはわかる?」


 俺がそう言うと、その女は「わかります!」と勢い込んで返事をした。

「約束の時間なのに来てないみたいだね。僕が呼んでくるよ」

「ありがとうございます! あ、ちょっと待って!」

「何?」

 俺は振り返らずに言った。


「私と同じ歳くらいの人ですよね? 北条です! よろしくお願いします!」

「ああ、うん。よろしく」

 それだけ言って立ち去ろうとしたが、一つだけ言ってやりたくなった。


「ここ、そんないい会社じゃないよ」


 俺は返事を待たず、フロアの中に入った。

 ポジティブ、前向き、積極的……。

 三枝に声をかけ、席に戻ると、海堂と早乙女とかいうおっさんが話していた。


「お前、どこに行っていた」

「昼飯を買いにコンビニに行っていました」

「今すぐ出かける準備をしろ」

「はい?」


 聞き返すと、海堂は俺を睨みつけた。


「取引先でバグが出た。今から出向してこい。三年目だからできるだろ」

「え……」

「行け」


 海堂は出向先の会社名を言い、簡単な状況説明をすると、それ以上の情報は何も喋らなかった。俺はいくつも質問したかったけど、それを許さない気のまとい方を海堂は心得ている。ずっとその様子を見守っていた早乙女は「あの、僕はここで」と言い閑職に戻って行った。


 出向先の会社に着くと、でかい受付があって、来客カードを渡され、行き先の階と部屋の名前を告げられた。こんなでかい会社に来るのは初めてだ。俺はすれ違う人に会釈しながら歩いた。向こうは俺のことなんて何にも気にかけていない様子だった。


 部屋着いて、ノックをすると、若い男が出てきた。

「君が今回のバグの担当者?」

「はい、そうです……」

 メガネの男は怪訝そうに俺を見る。メガネに印字されたブランド名を盗み見ると、高価なところのやつだった。


「さっさと中入って直してくれるかな。急いでるんだ」

「あ、はい……」

 暗くて狭い部屋だった。そしてすすり泣く声が聞こえる。

「すみませぇん。すみませぇん」

 俺と同じ歳くらいの知らない男が泣きながら謝っているところだった。

 何が起きてるんだ、と思ったが、このプロジェクトの概要を思い出した。二社の共同開発で、この男は協業先の大手Slerの奴に違いない。そんな会社の奴がなんで泣きながら謝っているのか。


「君の席ここだから」

「ありがとうございます……」


 そうは言ったものの、何から手をつけるべきか、俺には全然思い浮かばなかった。

 五時間くらい粘った。なんとなくこの辺かな? と思うところを見つけても、書き換える自信がない。もっと被害が拡大するかもしれない。そもそもバグの全体像が見えてこない。何がどう絡まって何が起きているのか。ずっと座っているだけで、一行も書き換えられていない。冷や汗が止まらなかった。なんとかこの場を誤魔化す手段はないものか。


「ねえ、君、さっきから全然進んでないんだけど」

 メガネの男の声がした。できないことが、バレている。

「今日中になんかしてくれる? もう日が暮れてるよ?」

「そうですね……」

「もう君じゃなくて他の人呼んで来てよ。君、新入社員でしょ?」

 違います、とは言えなかった。俺は、ちょっとトイレ、と言って部屋を出て、社用携帯を取り出すが、何度もパスコードのロックの解除に失敗した。


「なんだ?」

 海堂が電話に出るなりそう言った。


 何も言えなかった。沈黙が続く。


「用があるなら早くしろ」

 明らかに海堂は苛立っている。

「……です」

 俺はカラカラに乾いた口を開く。

「は?」


「できないんです。できないんです……」


 それだけ言うと、海堂はいつも通り「ふん」と鼻を鳴らした。

「自覚しろよ」


 それだけ言い放つと電話が切れた。

 部屋に戻ると、メガネの男もイライラしながら俺を待っていた。

「代わりの人は? え? いつ来るの?」

「すぐに来ます……」

「あっそう。ほんと困るんだよね」

「すみません」


 男は「はぁ」と、わざとらしいため息をついた。

「もういいけど、君、何しに来たの?」


 すみません、と噛み合わない言葉を返すことしかできなかった。なんて嫌味な奴だろう。こいつを見ると、眠っていた感情がざわめき出す。


 第一志望業界、出版社。

 俺はこいつの会社の人間になりたいと、思っていたんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る