第6話
正月が明けた。
今はまだ用意されている朝食を食べ、電車に揺られる日々が始まるのだ。
電車の窓に映る自分の顔を見ると生気がなかった。昔はこんなんじゃなかったのに、と思ったが果たして学生時代もこうじゃなかったと確信をもてるだろうか。俺は昔からこんな顔をしていた気がする。ずっと冴えないダメな奴。俺は家族の厄介者。……この思考回路はよろしくない。切り替えければ。どんな回路に? ポジティブ。前向き。積極的。未来に対して楽観的。馬鹿みたいだ。そんな人間が今の世の中そうそういるか? 俺は会ったことがない。
自分のデスクに着き、パソコンを立ち上げてエディターを開く。真っ黒い画面に白い文字が浮かび上がっている。俺はこの画面が嫌いだった。俺は別に情報工学系の学部を出たわけじゃない。もともとエンジニア職に興味なんてなかった。だから「プログラミングが好きで好きでたまらねぇぜ」という奴には気持ちの面からして勝てない。コードを書こうという動機がない。 俺は社会学部卒で、大学で学んだことは大してない。というか俺が真面目に勉強しなかった。勉強したいから大学に進んだんじゃなくて、なんとなく将来有利そうだからという理由が一番にきて、そこそこの見栄を満たしたいという気持ちが次にくる。そこそこ、というのが実に俺らしい。満たしたい見栄のレベルが野心と自信が足りないせいか、どこか低めだ。上には上がいて、そういう奴らからしたら俺は大したことがないわけだ。
「おい」
突然横から声が聞こえた。声の主は海堂だった。
「なんですか、海堂さん」
「ぼーっとするな。さっさと仕事しろ」
「わかってますよ。ちょっとどういう風に書こうか考えていただけです」
そう言うと、「ふん」と言ってそれ以上は何も言われなかった。
高専卒。プロジェクトリーダー。それが海堂の肩書きだ。俺よりも一つ上なだけだが、十代の時から働いているので出世している。だが所詮こんな会社の中での出世だ。俺の方こそ鼻で笑ってやりたい。思い上がるなよ。
正午を回った頃、なんだか仕事が捗らないのでコンビニに行こうと席を立った。ついでに昼飯も買おう。仕事をしようとキーボードに指を添えるが、軽快には動かないのだ。とりとめない思考が俺の頭を駆け巡り、集中できない。
店内に入ると暖房が効いていて暖かく、張り詰めていた気持ちが少し和らいだ気がした。今日は調子が悪いから何か菓子でも買おう。かごを手に取り、目当てのコーナーを物色する。美味そうなチョコレートを見つけたので手を伸ばしたら、ふとロゴが目についた。
このメーカー、俺を落としたところだ。
俺はハッとしてあたりを見渡した。和らいだ気持ちなど吹き飛んだ。飲料、カップ麺、スナック菓子、パン類、文房具。その販売元は、全部俺をエントリーシートで落とした会社ばかりだった。
学歴切りだ。
俺はそう思いたいのに、自分と同じ学歴のはずのゼミの奴らが俺を落とした企業から内定を取っていく事実を変えることはできなかった。どうして俺は選ばれなかったのだろう。自問自答しても答えは出ない。でも、胸に湧き上がる感情は選ばれなかったと言う痛みのようなものだけで、実際にやりたいことができないと言う悔しさを感じることはない。そして直視できないちっぽけな見栄が再び蘇る。ずっと忘れていたはずなのになぜ今更思い出した?
手にしていたチョコレートを見る。カカオ七十パーセント。砂糖少なめ。俺はこのチョコレートの向こうにあるどこかの国のカカオ取りの人間のことを不意に想像した。そいつはチョコレートなんて食べたことがないかもしれない。
何を、考えているんだ。
俺は水を買おうと飲料水が並んでいる冷蔵棚に向かう。そして水を手に取った。この水は誰がボトルに詰めているんだろう。またしても不意にそんなことが頭をよぎった。
——そういう等身大の世界に疑問を持つことができない人間が、就活生になって突然、なんの考えもなしに……
あのクソ画家の声が聞こえた。
そして思い至ってしまった。俺はミネラルウォーター一本ですら、これが何層もの労働によって作られたものだと考えが及ばず、寝ぼけたまま社会を見てきたんだ。
そんな人間の書いた志望動機など、誰かに響くわけもない。
なるべくして、こんな人生になってしまったなんて、気付きたくなかった。
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