第5話

 部屋に戻り、転職サイトで検索キーワードを打とうとするも、指がもつれて「みけいけっm」と表示された。そして、そこから先の職種欄のプルダウンで頭が止まる。


 落ち着け、と自分に言い聞かせてメモアプリを立ち上げた。


 タイトル:〈今、困っていること〉

 ・家がない

 ・金がない

 ・今の仕事を続けたくない

 ・とにかく、どうしていいかわからない

 〈思いつく解決策〉

 ・転職する


 そこでタイピングが進まなくなった。転職する?


 ……何に?


 堂々巡り。胃に痛みが走る。いいから落ち着け俺。家を出ていけ? そんなの、薄々感じてたことじゃないか。想定の範囲内、範囲内だ。


 そう、家を出て行けという雰囲気には、なんとなく勘付いていた。どこか気まずい母との夕飯。時折、遠慮がちに聞かれる「仕事どう?」という質問。聞いてもないのに話してくる兄の近況。全て言葉の裏の意図なんて汲み取れていた。


 家を出ろという圧力は家族からだけじゃない。

 会社で時々言われる「どこに住んでるの?」という問いのあとに「へえ! 家賃高くない?」という一人暮らし前提の言葉。そして実家暮らしだというと、「あー……そうなの」というよそよそしい返答。終わる会話。


 なぜ社会人になった途端に、一人暮らししないと一人前じゃないというように見なされるのだろう。いつの時代のルールだろう。そう思うのに、自分だってその固定観念に囚われている。自分はダメで、未熟で、へたれている。その低い自己評価は社会人●年目と年が積み重なるごとに増していく。周囲からはもはや「自立できない奴」というレッテルを貼られ、プライベートな話題を避けられる。


 自立とはなんなんだろうか。

 経済的な自立。


 自分だけ生計を立てていくには、それに足る金がいる。金。俺みたいな三流企業の給料なんてたかがしれている。家が会社に近ければ、無理に家を出なくたっていいと思う。晴れて一人立ちする時のために、しっかり貯金を作っておく。これが堅実な生き方というものだ。


 なぜ俺の家族はそれがわからない? いつまで凝り固まった価値観で生きている? それは、俺以外の全員が金持ちだからだ。事業家で金に困らない父。それに乗っかる専業主婦の母。開業医の兄。俺だけが、金がない。だから、俺は家にいてもいいんだと自分に言い聞かせていた。来るべき時まで金を貯め、じっと待っていればいいわけだ。俺はそう思っていた。


 けれども、来たるべき時なんてこないし、貯金は頭打ちだった。


 貯金に関して言えば、そもそも給料が低すぎる。だが原因はそれだけじゃない。家賃と食費がかからないという安心感で、なんとなく百万貯めたあたりで何に使ってるわけでもないのに通帳の残高は増えなかった。その結果、およそ自活には心もとない財産しか築けていない。


 そして、何より来ない「来たるべき時」。


 俺は転職をした時がその、来たるべき時だと思っていた。ただ漠然と、転職すれば「何か」に転生できると思っている。でもその「何か」が見つからない。

——自分で自分のことを知る努力もしないなんて、どうなってるんでしょうね。ああ、その能力がないんですか?


 自立とは自分で立つと書いて自立。

 自分で立つには二本足が要る。片足は経済力。もう片足は健やかな精神。


 俺には経済力なんてないし、健やかな精神も持ち合わせていなかった。やりたいことがない状態とは、沼に立っているようなもの。足元なんて固まっちゃいない不安定。いつまで続けるかわからない、やる気がまるでない仕事。充足感はほとんどなし。そんな仕事を生涯続けて、俺は生きていくんだろうか。生きていけるのだろうか。……なんて言うと、「金持ち」とか、「甘い」とか説教垂れてくる人間は山ほどいるのだろう。でも、俺は、このままじゃ一人で立つことができない。


 どうせ世間知らずのお坊ちゃん。

 でも、現実がやってきた。


 ……家を出るのが、怖かった。

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