第4話

 年末年始の休暇になった。


 この会社がその辺のブラック企業と一線を画しているのは有給が取れること、休暇があること、残業代が出ること、だろうか。だが精神的には緑色に濁った外堀の上に浮いている捨てられた金魚みたいなもんだ。たまに外へ出られなくなった亀が甲羅干していたりする奇妙な川というのもお似合いかもしれない。行き場所がない奴が居座る会社。


 この時期になると兄と父が家に帰ってくる。兄は医大を出て総合病院に勤めたのち、あっさりと開業医になった。父は事業家で、創業二十年の専門商社を経営している。母は金には困らないはずだが趣味でケーキ屋のアルバイトをしていて、家にはよく売れ残ったホールケーキが持ち帰られてくる。


 俺は部屋から出たくなかった。いや、部屋の中にいるか、家の外に出るかの二択と言っていい。家族と顔を合わせたくなかった。


 仕事帰りに買ってきたラノベを読みながら、ストリーミングで現代ジャズを聴いて過ごしていると、スマホのバイブレーションが鳴った。ロックを解除して通知を見ると、太田原からのメッセージだった。奴は大学時代の塾講師のバイトが同じだ。


〈正義、元気? 合コンがあるから頼むきてくれ人が集まらないんだ〉

 画面にはそんなことが表示されていた。


 合コン……。


〈他のやついないの?〉

〈いないんだよ。というかオレも人数合わせっていうか、神崎さんって話したっけ?〉

〈聞いてないな〉

〈就活時代に会った同い年の奴なんだけどさ、どうしても女子大生と合コンやりたいっていうんで誘われたのよ。会社の奴連れてくとすぐ手を出すからダメなんだとよ〉


 ひでぇ会社だな。


〈なんの会社の奴なんだ?〉

〈そりゃあ大手広告会社よ〉


 俺は手が止まった。


〈な、頼むよ。金はオレが多めにかぶるからさ。オレだって別段行きたかないんだ〉


 なんでそんな奴と酒が飲めるんだ?

 無意識にそう打っていた。送信前に慌てて消す。


〈俺、座ってるだけになるけど〉

〈それで十分! よろしく! じゃ、また連絡するから〉


 そこで会話が終わろうとした。


〈ちょっと待て〉


 すかさず打つと、返事がすぐに返ってきた。


〈なんだ?〉

〈お前最近どう?〉


 既読がついた。だが、返事が来ない。


 一分くらい待った。


 返信には一言だけ〈問題ない〉と書かれていた。それ以上、俺は何も続けられず、〈そうか、なら良かった〉と返した。


 ラノベも全て読み終わった頃、飯に呼ばれた。


 俺がリビングに降りて行くと、すでに父も兄も着席していた。テレビはついていない。母が丁寧に焼いたローストビーフを切り分けて食卓の中央に置いていた。その横にはバケットのパンがスライスされてカゴに入っている。そしてマッシュルームのスープが各人の前に平皿で置かれて、全員が着席した。

 父が帰ってきているから、しっかりしているメニューだった。母は父の前ではわざわざ手間のかかる料理をする。そして誰も母を手伝わない。兄は素知らぬ顔でバケットを一つつまんでいる。


「さあ、食べて食べて」

 母がそう言うと、父は無言でローストビーフを取り皿に何切れか盛り、そしてくちゃくちゃと音を立てた。

 俺はスープに口をつけ、無心でスプーンを動かす。ドロドロとしていて、時々、水を飲む。それから肉を三切れ取り、静かに噛んで食った。バケットのパンも一切れだけとってちぎり、肉と一緒に食べる。これで食事が終わる。


「それじゃ……」

「義ちゃん、ちょっと待って」

 椅子をずらして立ち上がると母に止められた。

 ピリリと手の神経に痛みが伝わる。手のひらから汗が吹き出した。この呼び方で呼ばれるのは何か話がある時だ。それも何か言いにくい話の時。


「座れ」

 父が口を開いた。

「何の用事?」

 指が震えだしたので、パーカーのポケットに突っ込んだ。

「座れと言っている」

 俺は黙って座った。顔が火照っている。父がそのことに気がついているとしたら、どれだけ趣味が悪いんだろうと頭の片隅で思った。


「何?」

 言葉の端に攻撃性がにじむ。父と話すときはいつもこうだ。

「お前、いつ家を出ていく?」

「は?」

 父はローストビーフを食べ続けている。

「お前は、いつ、家を出て行くんだと聞いている」

「いつって……」

 そんな予定など全くなかった。

「理はもう、とっくに開業医で自立しているのにお前ときたらどこそこの会社で何だかよくわからんことをして何をしている?」

「何って、SEだよ。……父さんの会社にはいないだろうね」

 言ってみるが、指がポケットじゃ隠せないほど震えている。付け足さなければよかった。父の頭に血がのぼるのを感じたのと同時に、父の拳が激しくテーブルを叩いた。そして静けさが降りてくる。


「いい加減家を出て行け。いつまで我慢していると思っている? 働いているのになぜ自立しない?」

「え……」

「まさか、わかっていないのか?」

「いや……別に……」


 父の目に怒りがまた灯った。

「おい、見たか、この態度? お前が甘やかすから子供が自立しないんだ」

 突然話を振られた母がびくりとした。


「わかったよ」

 俺は咄嗟にそう言っていた。


 兄は涼しい顔をして、スープの残りを飲もうと平皿を斜めに傾けていた。より顔が涼しげに見える泣きぼくろが昔から嫌いだった。


「わかったよ」

 もう一度繰り返した。

「出て行くよ」

 誰も、何も言わなかった。

「出て行くよ」


 なんて弱々しい声なのか。父は「すぐにでも準備しろ。さっさと決めろよ」と言って、ワインを持ったままソファの方へ行く。それで話は終わりだった。


 ついに、猶予期間が終わりを告げた。

 俺のことなど、待ってくれは、しないのだ。

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