「うた」「断崖絶壁」「紫」
藤野
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君はハルがうたうのを聞いたことがあるか。
ハルはいつも、断崖絶壁の際に立って空を見上げてうたう。
高く澄んだ彼女の声は、地も天もないその場所にひどく似合っていて、空気と混ざり合い、天へ昇り、神に祝福される。
ハルの天上の歌声に、小鳥たちは自らの声を恥じて囀りをやめ、風はその歌声を運ぼうと穏やかに吹き、太陽は彼女を祝福するように光を投げかける。
僕は永遠にハルのうたを聞いていたい。
僕はハルのうたを何よりも尊び、何よりも愛している。ハルの恋人である君にこんなことを言うと誤解を招くかもしれないが、ハルのうたを誰よりも愛しているのはきっと僕だ。うた以外の全てを君に渡そう。けれど、ハルのうただけはだめだ。
だが僕は、本当にハルのうたを自分のものにすることができないことも知っている。
あれは誰かひとりのものになんてならない。
ハルの声は、神に愛された特別のそれなのだから。
アキからそんな手紙が届いたのは、ハルが死ぬ1か月前のことだった。私はその手紙をハルの目に触れぬよう、引き出しの奥にしまった。
ハルの歌は、アキが言うようなものではない。
あれは音楽ではなく、うたでもなく、ただ自己の憐憫の故に発せられる悲痛な叫びであり、技巧もなければ情緒もない。
だからハルは、いつもひとりきり、断崖絶壁に向かってうたうのだ。
あの歌が聞こえると、小鳥たちは逃げだし、風はその声を遠くへかき消そうと強く吹き、太陽はハルを焼き尽くそうと熱を増す。
だから私は、ハルが声を失ったとき、心底から喜んだ。
これであの悪声がまき散らされることはなくなる。これからのハルは、世間に恥をさらすことなく、静かに私の元で余生を過ごしていけばいい。
ところが、ハルはそれから7日の後に死んだ。
あの崖から足を滑らせ、落下した。
その日、ハルは崖の上に立ち、下を眺めていた。うたう時はいつも、この世のすべてを視界に入れることを拒むかのように上空を見つめていたが、やっと足元を見るつもりになったのだろう。
それがいけなかった。
足を滑らせたハルは、あっけなくその短い生涯に幕を下ろした。
わたしの人生は、うたに捕われたものだった。
わたしは人生を憎んでいたけれど、うたうためには生きなければならない。
わたしはわたしのうたが大嫌いで、毎日憎々しく思いながら、崖の上でただうたっていた。
アキはそんなわたしのうたをいつもそっと聞いていた。アキはうたを聴く耳を持っていない。
ナツは、わたしのうたを愛さなかった。わたしがうたいに行くときは、いつも嫌そうな顔で見送ってくれた。
声が出なくなった時、ようやく解放されるとわかった。
わたしはうたから離れて、ようやく人と同じだけ自由になった。
わたしはわたしを生かすことも殺すことも自由にできるようになった。
もううたわなくていい。
あの苦しみに満ちた日々は終わって、静かに、穏やかな日々を暮らしていけばいい。
うたうもののいなくなった崖に小鳥たちが帰ってくることはなかった。
もしかしたら、彼らは最初からそこにはいなかったのかもしれない。
崖の淵には今日も穏やかな光が差し込み、紫色の小さな花々が誰に省みられることもなく風にそよがれている。
「うた」「断崖絶壁」「紫」 藤野 @fujino
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