2021.10 TEXT 記号と恋愛するふたつの方法―松田聖子論より
小倉千加子氏の『松田聖子論』は、山口百恵から松田聖子に至るまでの世代論である。
1970年代の学生運動から80年代のバブルに至る女性の動きを、歌から分析している。
山口百恵は「性器性」のある清純派アイドルだった。百恵は宇崎竜童・阿木燿子の「プレイバックPart2」で一見新しい女を演じたように見えたが、その実極めて日本的な「母」に回帰していったという。
山口百恵が現れる前(1970年代初頭)、日本では学生運動が盛んに行われていた。
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学生運動が終わった時、後に残ったのは、近代的自我を持っているつもりで、その実、女性には前近代的投影しかできなかった男たちと、対等の立場で運動に参画したはずだったのに、男性との協力は男性への奉仕にすぎなかったことに気づいた女たちの、不毛のセクシュアリティの歴史だけだったのです。(P198)
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江藤淳は『成熟と喪失』で近代的自我を持つ女性を、
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彼女にとって「母」であり、「女」であることは嫌悪の対象である。(P64)
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と指摘し、女性が自分の身体を崩壊させていく現象について書いていた。
が、山口百恵は日本的なマゾヒズムとセンチメンタリズムに回帰し、「日本の母」になることで、近代的自我から日本の<土着>の文化へ還っていった。
1970年代に学生運動から起こったウーマン・リブは、女を「母親」か「便所(性的対象)」としてしか見ない男たちからの解放を訴えていた。
1980年代を風靡した松田聖子の主な作詞家は「はっぴいえんど」の松本隆である。
1970年代、政治活動に関与したフォークから離れて非政治的なロックを始めた松本隆らは、フォークや学生運動の<田舎>性を嫌い、記号的な<都市>の音楽を作っていく。
山口百恵のアンチテーゼとして生まれた松田聖子のコンセプトにも、「はっぴぃえんど」の路線が踏襲されていく。
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風のある風景、色彩の氾濫、どこにもない場所、気の弱い彼、ママへの裏切り
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これが松本隆がつくりあげた松田聖子の世界である。
女を「母親」か「便所」としてしか見ない、日本の<田舎><土着>の「母」へ回帰したのが山口百恵であった。
小倉氏は「土着の日本人が持つ暗い情念、あからさまな好奇心、過剰な人情、欠落した機知、湿った情緒、それらすべてから松田聖子は逃走するのです。女の子のファンタジーは、そんなところにはないからです」と指摘する。
松田聖子は日本の<土着>のマゾヒズムとセンチメンタリズムを嫌い、<都市>という記号が支配する空間で「気の弱い彼」――少年と対等に恋愛することを夢見ている。
山口百恵に反して、松田聖子は性を歌わない。日本の<土着>に繋がる重い身体を排除して、聖子は「どこにもない世界」で少年との恋愛にふける。
松田聖子は少年に、少年と少女という記号同士の恋愛をそそのかす。
それは1980年代のモノが溢れ、ブランドという記号によって価値が規定されたバブル時代の象徴でもある。
同じく1970年代、少女漫画の書き手たちが「少年愛の世界」を作り上げた。少年愛の世界では、愛し合うふたりは少年同士(あるいは男と少年)であり、少女たちの性は少年という記号に仮託された。
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少年は、ギムナジウム(寄宿舎)の中で、大人の男の持つ(精神と感性の)けがらわしさを永遠に持つに至らないまま、少年であり続ける。そして少年の愛の対象は少年であり、男同士の間で、快楽の主体と客体が分かち持たれる。読者である少女は、男が快楽の客体になるのを視るのです。ここでは、男が「女」となり、女が「男」となるのです。(P212)
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1970年代の「母親」か「便所」かという女性の疑問は、女性に男女のセクシュアリティの非相称性という問題を提示した。松田聖子と少女漫画の作家たちは、その問題を解決するためにそれぞれ解決法を示した。
松本隆と松田聖子は、「男」と「女」の記号を実体から離脱させ、<都市>という記号の世界で「少年」と「少女」としてふたたび結び直すという方法を提示した。
少女漫画の作家たちは、「少年」に「女」の性を仮託させ、ファンタジーの世界で少年(男)同士の恋愛を展開した。
いずれも少女の「恋愛」や「性」を記号化するという方法である。そこでは少女の「実体」は疎外されている。
松田聖子が「ママへの裏切り」を歌うのは、日本的なマゾヒズムとセンチメンタリズムを体現してきた「母」に呑み込まれることへの抵抗である。
日本の「母」は娘へ、自分の運命を継承ことを要求する。
男社会を継続するための歯車となることを。
それを「捨てたい」娘と「捨てるな」と求める母の争いは苛烈になる。
近代的自我を持った娘は「母」であり、「女」であることへの嫌悪感を抱くと江藤淳は指摘した。
松田聖子のように「少年」を自分好みの「男」になるよう馴致するか、少年愛の信奉者のようにファンタジーのなかに本物の恋愛を見出すかは、娘たちの自由である。
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