2021.06 TEXT 『蜜の厨房』さんのこと8 AN EVIL MOTHERHOOD

 小泉蜜さんのサイト『蜜の厨房』のやおい論、第八回目です。

 今回は『蜜の厨房MENU-2 やおい少女の心理I 白』をお送りします。


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やおいは「母性を放棄した母親」に対して、少女が母性愛を欲することから生じる。これは現在のところの、わたしの持論です。

(変わるかもしれませんが。)

この場合の母親というのは、たいていは、自分が母性というものを放棄していることに気付いていません。

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 が、「現代社会はすでに、母性幻想を必要としなくなってきている」と蜜さんは続けます。


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母親の仕事とされている家事や育児といった仕事は、本来は非常に退屈で、しかも大変な重労働で、そして一日中束縛され、休日もない、という過酷な仕事です。

それを「母親」に課したのは、ほかでもない、父親たちです。


そして母親にそれらの労働を課すために「母性」という幻想が生み出されました。

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 しかし、今の社会の構造は「お父さんは仕事、お母さんは家事」という性役割分業では立ち行かなくなっている、と論は続きます。


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お母さんが外に出れば、子育てはお母さんだけが担う仕事ではなくなります。

当然、「母性愛」の幻想とは矛盾が生じます。

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 個人主義が進んでいけば、家族のつながりは遺伝子の相同性以外の何の意味もなさなくなるかもしれないと蜜さんは述べています。


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この母親の献身的、というよりは自己犠牲的な幻想は、ではなぜ受け継がれるのでしょうか。


母性の幻想は、母親たちにとって非常に有利なのです。

無条件に愛情を注ぐかにみせかけて、子どもを束縛し、自らの利益のために搾取するには絶好の幻想なのです。


「これだけ母性愛を注がれたのだから、母親に恩返しをしなくてはならない」(中略)

これは洗脳、マインドコントロールの一種であるとわたしは考えています。


その母親たちも、子どもだったころ同じように幻想を吹き込まれて育ったはずです。

ですから、母親たちにとって、今ここで幻想が崩壊されては困るのです。

これから「恩返し」をしてもらわなければならないのです。

ですので、母親たちは幻想が崩れかけているのを知っていても、知らないふりをします。

そして少女たちは、幻想の崩壊を知らされることなく、あるはずのない愛情を待ち受けて、枯渇感や欠損感に苦しむことになります。


ここで少女に注がれているのは「愛情」ではなく「矛盾」です。

「嘘」を「現実」と称して注がれるのです。

しかも発達途中の、未成熟な人格に。

その結果、少女は現実をうまく自分のものとして構築することができなくなってしまいます。

そこに突きつけられるのは「現実の喪失」です。それは時として、精神の崩壊を引き起こしかねないものです。


その結果、現実を生きることができなくなった少女の「時」は止まり、少女は「永遠の少女」へと変貌を遂げます。


この少女が将来、自分のなかの「永遠の少女」に気付くことなく、結婚し、妻となり母となったとき、果たして、自分の子どもに対して、まったく同じことを繰り返すことになります。


やおい少女とはおそらく、この「永遠の少女」が表層化したものです。

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 蜜さんは、これは母性愛の幻想が解けるまでの過渡期の現象であると考えています。


 『白』の概要をご説明しました。

 ここから先は私見と補足です。


 やおい少女の母親にとって、育児とは「自分のさまざまな可能性を潰して行った大事業」です。


 本当の自分には、母親以外のさまざまな可能性があったのかもしれない。

 子供を生まないという選択肢も存在していたかもしれない。

 しかし、自分たちには専業主婦になって母親になるしか道がなかった。


 団塊の世代の母親は、母親業に多大な労力と犠牲を払ったと自己認識しているのではないでしょうか。

 従来の母親より、被害者意識が強いのではないでしょうか。


 自分をこれだけ犠牲にして育てた子供なのだから、私の子供は、素晴らしく美しく有能で、なおかつ私に愛情を返してくれなければならない。


 専業主婦である彼女たちは、子供を多大な手間暇をかけて育てます。

 彼女たちは子供の支配者であり、殉教者であり、人生の同士であり、ときには子供の手綱を握る騎手でもあります。


 子供の人生のある時期までは、そのような母親のありかたも有効なのかもしれません。

 が、ある時点で母親は、子供が自分とは違う人格をもった人間なのだと認識しなければなりません。

 子供と母親は違う人間です。子供は母親と真逆の価値観を持つこともあります。

 そのときに母親が子供の人格や意見を尊重できるかどうかが、母親の愛情が「慈しみ」か「呑み込み」になるかの分かれ道だと思います。


 団塊の世代の母親は被害者意識が強いのではないか、と私は書きました。

 自分が犠牲を払ったという意識が強いので、子供への要求が強くなるのではないでしょうか。


 よい学校へ入ってもらいたい。

 よい職業に就いてもらいたい。

 よい結婚をしてもらいたい。

 よい子供を生んでもらいたい。


 私の人生を犠牲にして育てたのだから、あなたは「幸せ」にならなければならない。

 私の「大事業」は、あなたの「幸せ」で報われなければならない。


 あなたの「幸せ」とは、世間一般にわかりやすい「幸せ」のかたちでなければなりません。

 周囲にわかる「幸せ」でなければ、母親である「私」の苦労が報われないからです。


 「自分のさまざまな可能性を潰して行った大事業」に、団塊の世代の母親は意識的・無意識に「見返り」を求めているのではないでしょうか。

 彼女たちは自分の愛情を「無償の愛」だと思っています。従来の母親と同じように。

 しかし子供からしてみれば、それは「無償の愛」というラベルを貼った母親のエゴではないでしょうか。

 母親のエゴを「無償の愛」として注がれた子供は、その矛盾に混乱します。

 

 これは自分にとって愛情とは思えないのだけれど、そう思う私が悪いのだろうか。

 私にこれだけ犠牲を払ってくれるお母さんの「愛情」なのだから、この愛情は「無償の愛」に違いない。


 ――なのにどうして、私はこんなに「無償の愛」に飢えているのだろう?


 やおい少女は「無償の愛」を求めるさまよい人となります。

 「無償の愛」というやおい少女のレセプター(受容体)にうまく結合したのが「やおい」ではないでしょうか。


 やおい少女たちは母になって、子供を育てています。母親にされたのと同じように子供を育てる。これを世代間連鎖といいます。

 世代間連鎖がほんとうに起きているのか、やおい少女が育てる子供はふたたびやおい少女になるのか、子供がいない私にはわかりません。


 題名の『白』とは、東京に大雪が降ったときの景色を指しています。


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この白というのが、オフホワイトでも生成でもなく、ほんとうの純白なのです。


人間につくることのできない白さというのがこの世にあるものなのだとつくづく思いました。


―――この白を受け入れられるのなら、幻想で染め上げられた精神を、いったん原始の状態に戻すくらいはできるのではないか。

ふとそんな思いが頭をよぎりました。

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 蜜さんがこの論考を書いた日にちを振り返ると、もしかしたら私は、東京で蜜さんと同じ雪を見ていたかもしれません。

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