2021.06 TEXT 『蜜の厨房』さんのこと9 母なるイエス

 小泉蜜さんのサイト『蜜の厨房』のやおい論、第九回目です。

 今回は『蜜の厨房MENU-3 やおい少女の心理II 誕生』をお送りします。


 「母性」という幻想の崩壊が、母子の世代交代のスピードを上回ってしまった。ゆえに、いま必要なのは「個々人による適応」であると蜜さんは述べています。

 これまで日本人は母性幻想をもっとも重要な自我の基盤にしていました。そのため、自我の安定を求めて、「母親」に代わる全知全能の神を探さなければなりません。


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こういった絶対者を求める心の動きは、基本的には自己愛に由来するものです。

逆説的ではありますが、自分を放棄し全能の神にすべてをゆだねることで、全能と一体化し、自身を全能者と同一化することで、自らが「全能」を手に入れる、という欲求を叶えるのです。

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 やおい作品にもしばしばこのパターンが見られると蜜さんは述べています。


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絶対者と同一化する際には、まず「自己の放棄」が必要となります。そして自分のすべてを絶対者に委ねなければなりません。

しかしそれは同時に「自我の喪失」をも意味するので、本来はそう簡単に実行できるものではありません。

それを簡単にやってのけるのが「やおい」です。

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 絶対者のごとき攻めに対する受けの服従にはさまざまな理由がつけられています。


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信頼。

尊敬。

愛情。


強制。

拘束。

掌握。

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 ここに少女たちの、この「逆らえなさ」に対する強い願望が如実に現れていると蜜さんはいいます。


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盲従盲信によって作り上げた架空の絶対者。


いままでこの盲従盲信の関係は「母子」の間で展開されていました。


そしてもうひとつ――――宗教において、展開されていました。


日本における宗教の基盤は、この母子関係における盲信盲従に由来するものが大半です。依存を「信仰」という形に変化させたもので、もともとは同じ欲求に根差したものであると思われます。


しかし、文化の発展とともに大都市に人々が流出し、こういった土着の宗教は消えようとしています。

代わって台頭してきたのが「やおい」である、とわたしは考えています。


あまりにも「やおい」は宗教の条件を満たしているのです。


これは、もともと「神」という架空のものへの依存が少なく、「母親」という実在のものへの依存が強かった、日本ならではの現象ではないでしょうか。

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 『誕生』の概要をお伝えしました。

 ここからは私見と補足です。


 蜜さんの論からは横道に逸れますが、私がこの論考を見て思い出したのは、遠藤周作の『沈黙』を語った江藤淳の『成熟と喪失』です。


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それはポルトガルの司祭セバスチャン・ロドリゴがまさに背教しようとするときに、踏絵の中から彼を見上げるイエスの顔である。

《その踏絵に私も足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が幾百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時、牢舎でそれを考えださぬことのなかった顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った顔の上に。その顔は今、踏み絵の木のなかで摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った》

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 この文章で描かれているのは、イエスの母性化です。


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ここには「あの人」が男性であることを示すなにものもない。いわんや「あの人」の背後に「父」を見ようとするどんな視線もありはしない。が、皮肉なことに、だからこそこの個所は切実であり、読者の肺腑をえぐるのである。その成熟の過程でかならず人は「母」に拒まれ、あるいは「母」を拒んだという罪悪感にとらわれずにはいないから。そしてこの罪悪感があるかぎり人はいつも「母」の赦しを求めつづけるから。


 われわれのなかに「母」との合体を求める原初的な衝動があり、「母」に拒まれあるいは「母」を拒んだ罪悪感が澱んでいる以上、「母」に赦されつつこれを汚すという救済が感動的なものでないことはない。しかもこれまでに述べたように、われわれもまた「裏切った」者であり、「母」の欠落と世界像の分裂に悩んでいるとすれば、踏絵に刻まれたイエスの「悲しげ」な顔を軸にして異邦人のつくりあげた父性原理の世界像が母性化されてしまうのを見るのは、ほとんど解放を感じさせる体験だともいえばいえるであろう。

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 イエスのなかに母性を見いだすのは、日本固有の現象です。

 エリック・エリクソンは『若きルター』のなかで、マーティン・ルターのローマ教皇に対する反逆と父親ハンスに対する反抗が心理的に等価に置かれていたといっています。ルターは、より高く強い「父」――つまり「父」なる神に直接結びつこうとすることによって、教皇や父親への服従を無意味化しようとしたと江藤氏は述べています。

 プロテスタントではより強い「父」を求めようとすることであっても、決して「父」を排除して「母」につくことはありえません。


 江藤氏は『成熟と喪失』の『抱擁家族』によって、「父」の欠落と「母」の自己崩壊を描いています。

 敗戦後、アメリカにもたらされた近代化によって、「母」は「女」として自己嫌悪の情を持ち、自ら「女」としての身体を崩壊させていきます。そこに取り残された「子供」は、セバスチャン・ロドリゴというポルトガルの司祭の姿を借りて、崩壊していく「母」を攻め、「母」を汚し、なおかつ「母」に赦されることを望んでいます。


 父性原理であるキリスト教を日本固有の母性原理に組み替えていく欲望として思い出すのが、江藤淳のこの論考です。

 失われた「母性」を巡る論考として、『成熟と喪失』も蜜さんのやおい論と相似形を描いているように、私には見えます。


 『成熟と喪失』は上野千鶴子・大塚英志に影響を与えた名著ですが、江藤淳はその後、保守の論客となり「治者」となることで敗戦国となったトラウマを解消しようとします。その是非を私が問う資格はありません。

 大塚英志氏が中島梓氏の『コミュニケーション不全症候群』を『成熟と喪失』の流れを汲むものと喝破したのと同じように、私には、蜜さんのやおい論も『成熟と喪失』の流れを汲むものであるように思えるのです。

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