2001.11 TEXT 強姦と快楽

■2001.11 強姦と快楽


 ヤオラーとは腐女子の当時の呼称です。

 2001年には腐女子という言葉はなかったため、この言葉を使用しています。


 この雑文は、中島梓氏の『タナトスの子供たち』の部分的な書評その2です。中島氏は、やおい嫌いのヤオラーの典型的な方ですが、今回はその部分には触れません。


 中島梓氏『新版小説道場4』の「新・やおいゲリラ宣言」に「ヤオイはゴーカンたるべし」というパラグラフがあります。

 要約すると、ヤオイはゴーカンでなくてはならない。和姦らぶらぶはコンサバだからである。ヤオイはらぶらぶではなく、SMゴーカンでなくてはならない。SMゴーカンは権力闘争だからである。

 ヤオイに階級闘争が生じる理由として、中島氏は以下の理由を挙げています。


 男が「犯す性」である、ということは、その同じ「犯す性」の同性に対しても「犯す性」たりうるということだ。女性はそれに対してこれまでの長い歴史の中でずっと「抱かれる性」「待っている性」「犯される性」でありつづけることをもってコンサバティヴとしてきたわけである。そこに階級が――犯す者と犯される者、という階級が生じたわけだ。だが、男が男を犯すとしたら、それは、「犯す男」と「犯される男」が誕生することになる。つまり、同一の階層のなかに、階級が突発的に出来上がるのだ。犯した男は支配者となり、犯された男は、本来犯す側であるはずの男でありながら、征服された側、犯される性である「女性の階級」におとしめられることになる。(新版小説道場4 P190)


 『タナトスの子供たち』で中島氏は、栗本薫のような作者にとってセックスとは「キモチイイものであってはならない」と述べています。その理由は、栗本薫のヤオイはパワーゲームであるからです。


パワーゲームというのはつまるところ「戦争」なんですから「キモチイイ」わけがないんですね。征服なわけですから、キモチよくされちゃったら征服されてしまうわけです。痛いあいだは戦争なんで、痛い目にあってもこん畜生、いまに見てろと思っていられる。つまりは無力で犯されてしまう自己を正当化していられる。キモチよくなっちゃったらおしまいになっちゃうと思っているんだろうと思います。(タナトスの子供たち P241)


 強姦されて「キモチよくなっちゃったらおしまい」と思う理由は、強姦で「キモチよく」なることによって「犯された側」の人格や存在が貶められると中島氏が考えていらっしゃるからです。


 本来の強姦はあくまでも「犯す側」の罪悪であって、強姦によって「犯される側」の肉体は傷つきますが、その人の人格や存在が貶められることはありません。

 たとえ強姦によって「犯される側」が「キモチよく」なったとしても、その快楽が「犯される側」の人格を貶めることはありません。その「キモチよさ」は行為の結果ではありますが、行為を強要された「犯される側」のせいではないからです。

 それではなぜ強姦が「犯される側」の人格を貶めることになるかというと、「犯される側」は劣位であるという認識がすでに社会に存在しているからです。


 セックスの「犯す側」と「犯される側」は対等な関係であるはずです。理想論ですが、セックスはあくまでもコミュニケーションの方法のひとつであって、上位と下位をしめす猿のマウンティングのような行為ではないからです。

 「犯される側」が「犯す側」よりも劣位だということは、「犯す側」の勝手な認識が社会に定着してしまっただけのことにすぎません。


 なので「キモチよくなっちゃったらおしまい」ということは、最初から「犯される側」「受け入れる側」は劣位であるという社会の認識を認めたうえでの論理であると言えます。


 本来のやおいは、「犯される側」の劣位を無効にする行為であるはずです。「犯す側」と「犯される側」の逆転は「犯される側」の個人的な勝利ではありますが、従来の社会の枠組みを崩す行為にはなりません。「上位」の者が「劣位」の者を貶める構造に変わりはないからです。

 以前の中島氏は、「犯す側」と「犯される側」の逆転というテーマをよく描いていました。それは一時的には「犯される側」の勝利となりますが、世界が依然として「強姦」による支配を肯定する「暴力」で成り立っている以上、かれは永遠に世界の勝利者であることを求められます。

 「暴力」による世界の勝利者であることを。

 やおいによって社会へのアナーキズムを標榜するならば、強姦で「キモチよくなっちゃったらおしまい」ではなく、強姦で「キモチよくなっても私はなにも変わらない」ということが本来の文脈ではないでしょうか。

 「犯される側」が性によって貶められるという枠組みを崩すこと。それが現在の社会に対するアナーキズムではないでしょうか。


 この強姦の定義が成り立つのは「やおいによるアナーキズム」を標榜している場合であって、私は、すべてのやおいがこうでなければならないと言うつもりはありません。

 強姦をセクシュアル・ファンタジーとして利用する場合、嗜虐的な快楽も被虐的な快楽もそこには含まれているはずです。私はそれらのファンタジーの可能性を否定するつもりはありません。

 すべての人がやおいをアナーキズムとして読んでいるわけではないということがその理由です。


 以上の考えは私のオリジナルではなく、松浦理英子氏の「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない」からの引用です。


「レイプは女性に対する最大の侮辱」とは、私は口が裂けても強姦されて膣が裂けても言いたくない(P141)

たとえ強姦されても、殴られ縛られ輪姦され鶏姦され浣腸されエイズをうつされても、命さえ無事ならば私は、『それでも女はくたばらない』と不敵に笑うことを誓う。(P144)


 レイプによって女性が精神的に傷つくということは、女性の性を商品化した社会で「商品の価値を落とした」と無意識のうちに認める行為でもあります。

 レイプのひとつに、「犯される相手」を性によって貶める「パワーレイプ」という行為があります。これは猿のマウンティングと同じで、「犯す側」が「犯される側」を劣位に引きずりおろす行為です。

 レイプは女性の肉体を傷つける暴力ではありますが、その行為によって女性の人格や存在が貶められることはありません。

 個人的には、松浦氏の理論はあくまでもマニフェストであり、実際に「傷ついた」被害者の方々への理論やケアはまたべつの問題であると思います。

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