2001.12 TEXT 歩く木
■2001.12 歩く木
井上陽水の「ワカンナイ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」をベースにした歌だ。そして、その誕生秘話のようなものを友人の沢木耕太郎が書いている。
沢木耕太郎は、『深夜特急』などの紀行文で有名な作家だが、スポーツ選手や市井の人々を題材にしたノンフィクションのほうが優れていると個人的には思う。
沢木氏の『バーボン・ストリート』に、「わからない」というエッセイがある。
ある日沢木氏のもとに井上陽水から電話がかかってくる。用件は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」はどのような詩だったかというものだった。沢木氏は詩集を本屋から探してきてふたたび井上陽水のもとへ電話をかける。陽水は詩を書き写す必要はないので何度か朗読してほしいという。
沢木氏は詩のエッセンスを汲み取ろうとする陽水の態度に感嘆する。陽水は「凄い詩だね」といって沢木氏に礼をいって電話を切る。
沢木氏はその歌を筑紫哲也のニュース番組ではじめて耳にする。題名は「ワカンナイ」。「雨ニモマケズ」の現代版だ。
「雨ニモマケズ」のような「慎み深い」「君の静かな願いもワカンナイ」、君の時代が今ではわからないという、「雨ニモマケズ」への揶揄とも羨望ともとれる内容の歌だった。
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
「ワカンナイ」と「雨ニモマケズ」は検索すると内容が出てくるのでくわしい説明は省略するが、沢木氏は、「ワカンナイ」を素敵な歌だといい、この歌は個人的であることが当然となった今の時代への吐息と悲鳴のようなものだということばでエッセイをしめくくっている。
さいきんある歌をきいて「ワカンナイ」のことを思い出した。
その歌の歌詞は「ワカンナイ」とは似ていない。が、私にはふたつの詩の視点が共通しているように見えたのだ。
スガ シカオの『Sugarless』の一曲目に「マーメイド」という歌がある。
この歌は、大人の「汚さ」をきらうモラトリアムな「君」を、「君がもし少年のままで 輝いていたいのなら」人魚の肉を食べて永遠に生きればいいと揶揄する歌なのだが、これも明確なメッセージソングでありながら微妙にねじれた内容になっている。
『Sugarless』を聴いていると、過去の記憶といまの自分との距離感を感じることがある。
だから、なにかをふりかえる視点――子どもであった自分や、遠い思い出――をもたない人がスガ シカオの歌を聴いてもあまり意味がないような気がする。
「マーメイド」の「ぼく」は、以前は大人の「汚れ」をきらう「君」とおなじ視点に立っていたが、いまは自分もその「汚れ」を背負っていることに気づいている。そして「君」が知らない間に背負っている「汚れ」にも気づいてしまう。でも「汚れ」をきらう「君」はそれを認めないし、「汚れ」を認める「ぼく」のことも認めはしないだろう。
だから「君」が「汚れ」ないためには、人魚の肉で「永遠を手に」したらいい、と「ぼく」はうたう。
「永遠を手に」しても「君」の「汚れ」は消えないことをわかっていながら。
「ぼく」は、「歩きつづけていこう」とすることで、「汚れ」を背負っていこうとする。
「ぼく」は「君」にどこかで憧れをもっていると同時に「君」に憧れる自分に嫌悪感をもっている。「君」にみにくく見える自分を嫌悪しながら、人魚の肉にあこがれる自分も嫌悪しているという、二律背反な部分がある。「ぼく」が憧れつつも嫌悪しているのは、かつて自分がおいてきたところ、けっして帰れないところへの憧憬のようなものだ。「ぼく」と「君」はすでにその場所からはとおく離れてしまっている。「ぼく」はそのことを受け入れようとしているが、「君」はそれを知りながらもそこにとどまりつづけようとしている。「ぼく」にはそれが厭わしく、そしてかすかに羨ましくみえる。
「ぼく」が人魚の肉に近づかない――歌詞では「近づけない」といっている――のは、「汚れ」を「汚れ」と感じてしまった時点でその人は純粋ではありえないことを「ぼく」がすでに知ってしまっているからだ。
私が「マーメイド」をきいて井上陽水の「ワカンナイ」を思いだしたのは、私にはこの「ぼく」の視点がふたつの歌に共通しているように見えたからだった。
「雨ニモマケズ」にも明確なメッセージが含まれている。
それは純粋にひとのために働く、愚直な人間でありたいという願いだと思うのだけど、井上陽水は、「ワカンナイ」の歌詞で宮沢賢治の態度に軽い口調で疑問を投げかけている。
宮沢賢治は「雨ニモマケズ」を信念のように謳っている。が、人間が信念で愚直になることができるだろうか。
「汚れ」を感じてしまう人間が、純粋に愚直でありたいとねがうことはその人の自由だと思う。でも、「汚れ」を「汚れ」と感じてしまう時点で、その人はすでに純粋ではありえない。「汚れ」が見えてしまう人が純粋に愚直であるためには、その「汚れ」をどこかで切り捨てる必要がある。それを理解したうえで「雨ニモマケズ」を謳い上げるか、「ワカンナイ」とつぶやくかは、その人の生き方の違いだと思う。井上陽水はたぶん、「汚れ」が見えてしまう人間が信念で愚直になろうとすることに、偽善のようなものを感じるのではないだろうか。
「雨ニモマケズ」の高らかな信念に羨望を覚えながらも、「見えてしまう」自分の目に蓋をすることもできない。
「ワカンナイ」にはそんな皮肉と羨望と哀しみの感情がまざっているような気がする。スガ シカオの「マーメイド」にも同じような感慨を覚える。
世の中には「汚れ」が見えない人間もいる。「見ることができない」のではなく、「見えない」人間が。
人間が歩く木に見える所まで降りていける人間。
アメリカのフラナリー・オコナーという作家の言葉だが、これは此岸の善悪の基準を超える視点をもった人間――ということでいいのだろうか。
人間が歩く木に見える人間には、人間の「汚れ」も「汚れ」として知覚されることはない。その次元では、人間の善悪も人間の生の相のちがいにしか見えないと思う。
ただ、人間が歩く木に見える人間は、自分のことも歩く木として知覚していなければならない。自分を歩く木として見ることができるだろうか。自分には到底そんなことはできないと思う。
宮沢賢治は「人間が歩く木に見える」人だったのだろうか。
「人間が歩く木に見える」人が「雨ニモマケズ」をメッセージとして残すだろうか。デクノボーがデクノボーと呼ばれたいと思うだろうか。
私は宮沢賢治論をほとんど読んだことがないので「雨ニモマケズ」を語る権利はまったくないのだが、宮沢賢治は「見えてしまう」哀しみを背負っていたのだろうかとぼんやりと考えることがある。
井上陽水やスガ シカオがその哀しみを背負っているように。
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