2002.03 TEXT 解離された愛の夢

■2002.03 解離された愛の夢


 浦沢直樹氏の『MONSTER』の部分的な感想です。

 総ネタバレで書いてありますので、未読の方はご注意ください。


 『MONSTER』十八巻の最終章「本物の怪物」を読むまで、私にとってヨハンはわりとどうでもいい存在だった。

 ヨハンのことは人間味のない殺人鬼だと思っていた。多重人格なのか、妹の人格を同一視している部分があるのか、そのくらいの疑問しか持っていなかった。

 ヨハンの母親にフランツ・ボナパルタが迫った「ソフィーの選択」――「いらない子ども」という認識は、いままでの冷酷無比な殺人鬼というヨハンの印象を一瞬でくつがえしてしまった。ひとつの事実によって鮮やかに話が組み替えられていく快感。優れた物語を読むと、ときどきこういう瞬間が訪れることがある。


 このパラグラフには「ソフィーの選択」のネタバレがあります。


 ソフィーは強制収容所の将校にふたりの子どものうちのひとりを選ぶよう宣告される。ひとりは助かり、ひとりはガス室へ送られる。戦争が終わって幸せな生活をしていても、ソフィーは子どもをガス室へ送った記憶に苦しめられている。

 ボナパルタは実験という名目で双子のうちのひとりを連れ去ろうとする。そして、その子どもを母親に選ばせる。

 母親は最初ニナに変装したヨハンを引き渡そうとするが、結局ニナをボナパルタに引き渡す。ニナは薔薇の館の惨激を目撃し、家へ帰ってからヨハンにくりかえしその体験を話してきかせる。ニナはヨハンと惨劇の記憶を分け合うことでその記憶を失う。ヨハンはニナへの罪悪感からニナの記憶を自分の記憶と思い込むが、やがてそれを封印してしまう。

 ヨハンにとってボナパルタはニナを連れ去った怪物である。が、ニナの抑圧された記憶のなかでは、ボナパルタは惨劇を起こして自分たちを「怪物」に育てようとした人々から解放した人間であった。

 「君たちは怪物になってはならない」というボナパルタの言葉がある。が、ニナはその言葉を奥深くへ封印していた。

 おそらくニナの話を聞いたヨハンにその言葉が告げられることはなかったのだろう。

 それがニナとヨハンの運命を分ける契機になったのではないだろうか。


 抑圧された記憶は、無意識のうちに人の行動に影響を及ぼすという。

 ヨハンは「ソフィーの選択」を迫る可能性を排除しようとする。自分を愛する親をつぎつぎと殺し、内なる怪物を背負うことになる。

 いらない子どもが二度と捨てられないように。

 外から訪れる怪物、フランツ・ボナパルタから自分たちを守るために。


 ボナパルタがリーベルト夫妻の養子になった双子を訪ねてきたとき、ヨハンは「怪物」が自分たちを連れ去ろうとしていると思ったのではないだろうか。  ヨハンは「ソフィーの選択」の再演を防ぐためにリーベルト夫妻を殺し、自分を恐れるニナに自分の内なる怪物を殺させようとする。

 ヨハンはここでニナに選択をさせている。

 リーベルト夫妻を殺した自分を選ぶか否か。

 それはまだヨハンが愛情を信じていたころの最後の選択でもある。

 自分が死んでも「君は僕で、僕は君」であるから、内なる怪物を背負っていないニナが生き延びればいい。自分は本来いない子ども、いらない子どもであり、かつて「僕=君」を守ることができなかったがゆえに、ニナを守らなければならない。

 僕は君を花で埋め尽くすために生まれた。

 ニナはヨハンの眉間を拳銃で打ち抜き、ヨハンはテンマに助けられることになる。


 ここで話は一巻にさかのぼる。


 一巻にエヴァの「人の命は平等じゃないんだもの。」という台詞がある。テンマが受け持つはずだったトルコ人の手術の執刀医を変えられ、そのせいでトルコ人の患者が死亡した。テンマはその妻に、「うちの人を返してよ!!」と詰め寄られる。そのやりきれなさをレストランで語るテンマに、エヴァはこの台詞を言い放つ。

 その台詞に反発したテンマは、急遽倒れた市長の手術をおしきって自分の受け持ちであるヨハンの手術を行う。テンマにとってヨハンは「人の命が平等だと教えてくれた」恩人である。人の命を平等に生かす人間。平等に愛する人間であるから、ヨハンはテンマを「親のような」人物として認識する。

 もしテンマがヨハンを特別な患者として扱えば、ヨハンはテンマを親として認識することはなかっただろう。

 ヨハンは愛情によって救われることがない子どもだからだ。


 ヨハンは人を平等に愛さない人間だ。それは、テンマが人を平等に愛する人間であることの対になっている。

 平等に愛する人間であるということは、だれも特別には愛さない、選ばない人間だということだ。

 選ばない人間。それがヨハンがテンマを親代わりと思った理由ではないだろうか。


 511キンダーハイムの元職員が「闇に囚われない子ども」をつくるにはどうすればいいか、とグリマーに聞くくだりがある。その答えは「愛情」を与えることだった。

 グリマーは十八巻で「子供が死んだ時、心の底から悲しいと思わなければいけない……」という。


 グリマーは511キンダーハイムで善悪の根幹を破壊され、なにも感じない人間になった。自分の子どもが死んでもなにも感じない。そのことにグリマーは苦しんでいた。


 しかし、その「愛情」こそが、双子の母親に「ソフィーの選択」を強要するのだ。

 状況がそれを許さないとしても、母親には選ばないという選択肢もあったはずだ。あるいは、ふたりとも連れていかせるという選択肢も。

 しかし母親はヨハンを「選んで」しまった。しかも、ニナと同じ扮装をしたヨハンを。

 十八巻の最終章「本物の怪物」の最後のシーンで、ヨハンはテンマに問う。

 「いらなかったのは、どっち……?」


 グリマーは自分の子どもの死を悲しめないことに苦しんでいる。

 人は自分の子どもの死を悲しむことが当然だと思っている。が、世界中の子どもの死を悲しむ親はいない。そんな悲しみを感じていたら、人は生きていくことができないだろう。

 「愛情」は、愛する人とその他の人間を区切る境界線でもある。


 人が生きていくためには「愛情」が必要である。強制収容所の看守の虐待でさえ、極限状態の人間は「愛情」と思い込むという。

 しかし「愛情」は、ひとりの人間を選ぶことでほかの人間を切り捨てる「暴力」でもある。

 「ソフィーの選択」は「愛情」がもつ二面性――人を生かす力と殺す力――をもっとも残酷に示す選択ではないだろうか。


 「愛情」によって選ばれた子どもは、「愛情」によって捨てられる可能性をも背負うことになる。

 「君は僕で、僕は君」。切り捨てられた「君」は、「愛情」が失われることによって捨てられる「僕」でもある。

 ヨハンはニナの扮装をくりかえし、ニナの幸福を願う。選ばれなかった「君=僕」への贖罪のために。


 「愛情」という不確かなもの、証明するには困難なものを信じるか否かはその人の信念にかかっている。その信念は、「愛情」を与えられた、または与えられなかった記憶に基づいている。

 ヨハンは自分でその信念を選びとるまえに「愛情」の残酷さを知ってしまった。「愛情」によってひきおこされる「暴力」の残酷さを。ヨハンは「愛情」によって救われることのない人間になってしまった。

 「選択」されることの残酷さ。一巻のエヴァの「人の命は平等じゃないんだもの。」という台詞は、十八巻のヨハンの「誰にも平等なのは……死だけだ。」という台詞と対になっている。

 人間の極限状態の恐怖に興味を持つヨハンは、「ソフィーの選択」の選ばれなかった子どもの恐怖を再演しつづける。自分を知る者を平等な死へ陥れ、かれひとりだけが“終わりの風景”に立つことを望む。

 テンマと会うまでは、ヨハンはひとりで生き残ることを望んでいた。それは愛情を信じない子どもにとって当然の選択である。


 ヨハンが愛情を信じない子どもであることを哀れむ資格は、おそらく私にはないだろう。ただ単に私はヨハンが余儀なく見てしまった闇を見ていないだけだ。

 私はヨハンの背後に愛されなかった子どもの翳を見ている。選ばれなかった子ども、愛されなかった子どもの翳を。

 それでもヨハンが“終わりの風景”にひとりで立つことを望んでいるのであれば、私はヨハンに感情移入することはなかっただろう。


 ヨハンのニナに対する愛情は、自己愛の変形のような愛情である。

 が、テンマを“終わりの風景”に立つことを許すヨハンの感情とはいったい何なのだろう。

 愛情によって救われない子どもが、すべてを平等に愛する人間に執着する。その感情とは。


 ヨハンは一巻で、失脚したテンマのために病院の院長と上司を殺している。それは、テンマがヨハンのまえで院長たちの死を望んだからだ。

 テンマもふつうの人間である。人を殺したいと思うこともある。

 が、物語のなかでテンマは一貫して、人を愛し、救う人間として描かれる。

 「人の命は平等じゃないんだもの。」と「誰にも平等なのは……死だけだ。」という言葉は冷徹な真実だが、テンマは「人の命は平等だ」という信念をひたすら貫いていく。

 愛情という不確かなものが存在することを信じて、テンマは闇に光をかかげる。だれの頭上にも均等に。


 ベクトルは正反対だが、テンマとヨハンが愛情によって人を「選ばない」人間であることに変わりはない。

 テンマがヨハンを「選ぶ」ことは、すべてを「選ぶ」人間にとって自然なことである。が、すべてを「選ばない」ヨハンがテンマを「選ぶ」ことは、不自然な行為である。

 ヨハンは愛情では救われない人間であるのに、なぜテンマを選んでしまったのだろう。

 愛情から切り離された子どもが夢見たものは、さらなる愛情の夢だった。

 完全であるがゆえに、存在しないに等しい愛情の夢――


 十七巻でニナはテンマにヨハンがなにをしようとしているのかを告げる。


 「完全な自殺」「唯一の愛情表現」。


 「完全な自殺」とは、外の怪物、フランツ・ボナパルタと、内なる怪物、ヨハン・リーベルト、そしてかれらが存在していた痕跡すべてを消滅させる行為だった。

 それでは「唯一の愛情表現」とはいったいなんだろう。

 「唯一の愛情表現」がすべての死であるならば、ヨハンはテンマやニナのまえに姿を現すことなくかれらを殺すはずだ。

 しかしヨハンは一貫して、愛する者に殺されることを望む。「僕=君」であるニナと、平等に「選ぶ」テンマに。


 十八巻でニナは、「あたしはあなたを許す……」とヨハンに告げている。

 たとえあなたが世界中の人間を殺しても、わたしはあなたを許す。

 それは究極の存在の肯定であり、それが信じられる者にとっては、美しい夢でもある。

 しかし、それはヨハンを「選ぶ」時点ですでに破綻している理論でもある。「選ぶ」行為は「選ばない」可能性を秘めている。人の思いは変わるものだ。ヨハンが愛情によって救われないのは、「選ぶ」行為の残酷さを知りつくしているからだ。

 ヨハンはニナに取り戻せないものがあるという。かれが殺してきたたくさんの人々。平等に人を「選ばない」その結果が、ひとりの人間に選ばれることによって埋まることはない。


 ヨハンはテンマに「ソフィーの選択」を突きつける。

 「Dr.テンマは、僕を撃つんだ……」

 銃口をヴィムに突きつけて、ヨハンはテンマに迫る。「そうでしょ?」


 もしテンマがヨハンを選んだとしても、ヨハンが救われることはないだろう。テンマが「選んだ」時点で、ヨハンが愛した「選ばない」テンマは失われてしまうからだ。

 テンマは人を特別に「選ばない」=平等に「選ぶ」人間である。だから、平等に「選ばない」ヨハンよりもヴィムを選ぶ。

 平等に「選ぶ」人間が唯一「選ばない」存在になること。それはヨハンがテンマの特別な存在となる唯一の手段である。

 これがヨハンの「唯一の愛情表現」ではないだろうか。

 しかしそれは、なんて分の悪い賭けなのだろう。テンマがヨハンを選べばテンマを失い、テンマがヴィムを選べば自分を失う。

 ヨハンはテンマの手にかかって自分を失うことを望む。

 すべての答えを知っていてそれをせざるをえないヨハンの孤独に、私はなんとも物悲しい気分になるのだった。


 しかしここでヨハンの賭けは思わぬ展開を迎える。

 それは番狂わせというよりも、ちゃぶ台ひっくり返しの状態に近い。

 ヨハンは飲んだくれの雑魚キャラ、ヴィムの父親に撃たれて瀕死の重傷を負う。


 頭部に重傷を負ったヨハンを、テンマは手術することでふたたび救うことになる。

 特別に「選ばない」テンマに「ソフィーの選択」を迫ったヨハンは、他人にちゃぶ台をひっくり返されることで、どちらに転んでも負ける賭けに偶然勝ってしまったことになる。でもそれは不確かな勝利である。テンマがどちらを選ぶかという答えを知る機会は永久に失われてしまったのだから。

 しかしヨハンを救うことで、テンマは「人の命は平等だ」という信念を貫き通したことになる。

 「人の命は平等じゃないんだもの。」という冷徹な真実のうえに、「人の命は平等だ」という信念を打ち立てること。人を生かし、なおかつ殺しもする不確かなものを信じつづけること。

 愛情は残酷な一面を持っている。が、人は愛情でしか救われることがない。

 怪物とは人間のもつ愛情のさまざまな側面であったのだろうか。私はぼんやりとそう思う。

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