クライマックスシリーズ・竜の魂

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竜の魂

「あー、お止めくださいましぃ」

 サンドラは悲鳴を上げて身もだえしたが、周りにいる人間の誰も助けてくれはしなかったし、縄で縛られた身体は自由にならなかった。

 誰もかれもが魔法陣の傍で等間隔に整列し、魔術のローブをすっぽり被り、詠唱と共に魔力を一点に集約している儀式の最中なのだから、答えてくれるわけもないし、何より自分はその生け贄に使われるのだから、そんな嘆願で助けてくれるわけもない。

 だが、サンドラはそれを承知したうえでも、真夜中であることも含んでも、ひたすらにやかましく叫び続ける必要があった。

「ほ、ほら。天儀官の名において、巫王様に取りなしてさしあげますしっ。私は巫王様から『災厄が生まれる』との予言を確認してきただけでっ、嘘偽りの報告もなんならつけて差し上げますからっ、ねっ。ねっ」

 バックパックは取り上げられた。剣や符は人垣の向こう側で、立ち上がって取りに行くのもままならず、天儀官としての制服を精いっぱい胸を張ってひらめかさせる。

 それでも反応がないとみるや、今度はサンドラは誰かひとりでも反応してくれるように、それぞれの人間に目線を向けて語り掛けた。

「邪竜アルヴァントの復活なんて、手に負えませんよ。今は魔力を紡いでいらっしゃいますが、こんな巨大な体に仮初でも命が宿れば、命令するにも一苦労いたしましょう。特に今宵は星の配置もすごいことになってございます。お空を見上げてごらんなさいって」

 サンドラはそう言って自分の真後ろ、それこそ魔法陣の中央に鎮座する腐りきった竜の亡骸を見あげた。

 この一帯を荒らし続けた暴れ竜アルヴァント。無尽蔵な食欲と凶暴な性格により、豊かな草原はこの一帯だけ荒野と化した。人間の集落も幾度となく襲われ、時には軍隊一つも返り討ちにしたという。それがようやく討たれて平和になったというのに。

「だいたい臭うございます。鼻がもげたら詠唱をうまく紡げなくなりますよっ」

 砂利と混ざった竜の腐汁を後ろ手にされたネイルアートがしっかり施された左指の爪で削ぐようにして掴み、弾くようにして飛ばしたり、なんなら足をばたつかせて自分に腐汁をかぶるのもいとわずに周りに飛びちらせた。さすがにそんな物に触れたくはないのか、一人が半歩後ずさった。

「ほら、見てごらんなさい。イヤでしょう。私なんてそれを頭から被っているんですから。この見目麗しい女が腐った汁まみれなんですよ。こんなのが生け贄とかちょっと間違っておりましょう。アルヴァントも御免被るのでは」

「黙ってろ、小娘」

 喋り倒される、というのは案外集中力を乱すもので、詠唱の声に若干のばらつきが生まれてきた。

 それを見た男がサーベルを持って魔法陣の中に踏み込み、その冷たい刃をサンドラの首筋に突きつけた。

「この腐った国の支配者は交代せねばならん。この竜に魂を呼び戻すことはその重大な儀式なのだ」

「ならば尚更です。私のように天儀官はちゃんと魔術の素養もございます。星の配置は審判が下るとの知らせでございますよ。死にぞこないの竜が滅するとき、またはこんな竜を操って国家を混乱させようとする貴方様方に罰が下るときと知らせております」

「黙れといっている」

「たった今殺したら、生け贄にもなりませんよ。それともあなた様が生け贄に?」

 次の瞬間、サンドラの顔が跳ね上がった。

 男が蹴り上げたからだ。

「生け贄だから命は残しておくが、その綺麗な顔はそのままにしておく必要もないのだがな」

 ぼたぼたと鼻から血を流しながらも、サンドラはのけぞった頭を元に戻すとすぐに垂れ落ちた血を隠すようにして前に歩み出た。

「ああ、暴力はいけません。言う事聞きますから」

「なら、黙って儀式を見届けよ。間もなく完了する」

 踵を返して魔法陣から出る男に、サンドラはうなだれ、ぶつぶつと呟いた。

「ようやく潔く死を受け入れるようになったか」

 死して失われた竜の魂を取り戻し、肉体に封じる反魂の儀式が、間もなく完成する。

 儀式に参加する詠唱者たちの声が高くなり、集められた魔力が祭司の掲げる杖へと集うと、サンドラの頭上に黒い魔力の渦が生まれ始めた。黒い川の濁流を覗き見るような渦の奥から、この世界とは全く異なる空気、光が流れてくる。

 それに触れるだけでサンドラは寒気を及ぼし、身体に流れる血が冷えていくのを感じて、唇をかみしめてその気持ち悪さに耐えた。

「解放されし魂よ、輪廻の輪に運ばれし命運よ、行くべき者はそにあらず、来るべき者にあり。巡れよ縁、正せよ因果」

 祭司の呪文が響き渡る中、もう一度、サンドラを蹴った男が魔法陣に足を踏み入れるのをサンドラは笑顔で迎え入れた。

「邪竜は死すべきではなく、本来は私が死ぬべきでした。ごめんなさい、今からその命運を正して、本来の姿にいたしましょう……と。毎回思いますが、その程度の言い訳でなんとかなる世の中の理というのもどうかと思うのですが」

「そんなもの、貴様の祖となる神に尋ねてきてくれ」

 男のサーベルが首を叩き落とすように、斜めから切り降ろされた。

 それは狙いたがわず、サンドラの首へと吸い込まれ、そこで止まった。血と腐汁のついた首筋には刃は1 mmも食い込むことができずにいた。

「大変残念でございますが、それはもう少し長くなりそうですよ」

 サンドラはうつむいたまま笑うと、自分を縛っていた縄が垂れ落ちた。

 男は顔色を変えてすぐさま飛び下がると、儀式の参加者たちに叫んだ。

「術が失敗したぞ!」

「あらまぁ、異なことを仰いますね。術は大成功ですよ」

 サンドラは軽く跳躍すると、十歩も先にいた自分の背丈を超える男の肩に脚をかけていた。そのまま膝で頭を固定すると、体をねじりながら前へと倒れ込んだ。途中で脚から首の骨がずれる感触が昇ってくると、にやりと笑った。

「秘術を追い求めたくなる人間の浅ましい欲望はわかるような気がいたしました。これはまあ素晴らしい」

「な、な、なにがどうなっているのだ」

 祭司もさすがにこの変化についていけないようで慌てふためくばかり。

 サンドラは顔を染めた自分の血とバサバサになっていた髪を手で直しながら祭司の元に歩み寄った。

「反魂の術なんていう高度な儀式は極めて精密なものでございます。たった一つ狂うだけで全部が狂うくらいのことは計算しておきませんと。ましてや魔術に詳しい天儀官を魔法陣に据え付けるなんて真似は金輪際、お止めになった方がよろしいでしょう。術式を書き足して、魔力を全部貰う事もできるのですよ」

 祭司の真っ赤な法衣が掴み上げられ、祭司の足が空中でばたついた。

「そ、そんな、そんな……いつの間に」

「演技も大変だったのでございますよ。ナイフもないから自分の血を流すために暴行されるように頼んでみたり、書いてるところを見えないように命乞いしてみたり。ああ、一生分の恥をかいた気分です。見ずに感触だけで書いたものですから書き間違いしてないかだけは心配でしたが。おかげで皆さまの魔力に、竜に残っていた魔力も全て私の物。膨大すぎて吐きそうですけれどね」

 サンドラはそのまま祭司を放り投げると、残った儀式の参加者に向かって走り始めた。

 それが自分を殺し来ていることを悟った者たちは我先にと逃げ出したが、サンドラはもちろん一人として逃がすつもりもなかった。捨て置かれた自分の荷物にたどり着くと、すぐさま符を一枚抜き取り、空へと投げ出した。

「化生せよっ」

 符は爆ぜたかと思うと、散り散りになって逃げ行く人間達を背中から襲った。

「ははは、符の威力も強化されておるようで。これは楽しい」

 荒野に立っている人間はただ一人。周りには腐り落ちたドラゴンの周りで歌うヒキガエルたちの姿だけ。


「はははは、はは、は……」

 サンドラは引きつるような笑みを震わせながらも、気は動転していた。

 胸を走るのは快楽だ。ヒキガエルを踏みつぶして悲鳴を上げさせて湧き上がるのは愉悦。動作一つ一つにゲロゲロと脅えてくれる顔を見るのもなんと楽しい事か。

 ましてや助かるために演じたとはいえ自分の痴態を見たものを消すのは、強迫観念に近い義務に感じていた。

「もう終わりですか、もう少し、血の騒ぎを収めてくれる者はおりませぬか……」

 疼きが止まらない。

 さらに狩りたい。好き放題やりたい。

 真っ赤な情動だけがサンドラを支配していたが、自分が吐いた言葉でふと思い出す。

 自分は、こんな人間だったろうか……? 血が騒いで、とりとめもなしに獲物を探した人間だったろうか……?

「ああ、ああ……つまらないものまで取り込んだようです」

 かろうじて理性がそう囁かせたが、欲望としては更に何かと戦いたい気持ちもあったのかもしれない。

 反魂の儀式というのはよく失敗談だけが伝えられる。先に逝った魂を別のものとすり替える文言ではあるが、実際の術式は魂を移動させる術だ。蘇ったとしてもそれは同じ存在ではない。

 そして自分も。

「半分あの邪竜が混じってしまったようですね」

 邪竜と呼ばれるだけはある。とにかく弱いものをいたぶるのが好きな性格だったのだろうとサンドラは実感していた。

「巫王様に浄化を……」

 サンドラは都の方に顔を向けて、そのまま広大な空を眺めてはたと立ち止まった。

 天儀官というものは巫王の予言を享けて、その予言が佳いものであるなら実現するように、また悪しきものならば芽を摘む者として遣わされる者である。今日、サンドラがここに派遣されたのも「災厄が生まれる」という予言を享けてのものだった。

「巫王様……災厄が『復活する』のではなく『生まれる』わけですね……」

 アルヴァントの復活させ、死霊術で意のままに操ろうとした集団の存在が、予言のものだと思っていたが、それはどうも間違いであるような気がしてならなかった。

 血にまみれた魔術による刻印が施された自分のネイルをじっと見つめる。

「私が『災厄』となる……」

 今、戻ったら、討たれるのは自分ということになる。

 それに都まで数日はかかる。その時間を経て、都にたどり着いた時にも今のような思考能力を保てる自信はあまりなかった。アルヴァントの精神は思ったより強力で、どんどん頭の中が真っ赤に染まっていくのが自分でもわかる。

 都に戻った時、誰も傷つけずに、お得意の弁舌で巫王に助力を嘆願できるかというと……

「ええい、仕方ありませんね」

 考えろ、躍起になるな。

 自分を叱咤しながら、サンドラは解決の糸口がないかと周りを見回した。

 ひたすら続く荒野。魔術に使う草や薬草類はなさそうだ。

 ヒキガエルたちのほとんどはもういない。仮に元に戻したとして何の役にも立たない。

 反魂の儀式の痕跡。

 腐った汁で毒の湿地と化した魔法陣の中。

 その中央に眠ったままの邪竜の死骸。

 自分の手にある符と剣。

 それから……みなぎる魔力。

「これしか方法はありませんね……」

 サンドラは臍を噛みながら、荒らされた魔法陣をすぐさま元に戻し、こっそりと自分で付け足した魔術印を踏みにじって消した。そして邪竜の顔に近寄ると、肉がなくなり骨が向き出た口腔に刃を突き立てた。

「あーもう、お洒落な細身の剣は使い勝手が悪ぅございますね」

 イライラとしながら、歯根へと剣をねじり込み、牙をえぐり取っていく。それから爪、角。そういったものも切り裂いて、魔法陣の外へと投げ飛ばす。

 最後に地面に散らばった司祭の法衣と杖を取り上げると、祈りの言葉を捧げ始めた。

「この魔力と凶暴なる魂。謹んでお返しいたしましょう。こんなものが骨の髄まで染み渡ったら、私へも軍隊を差し向けられますのでね」

 身に宿った魔力を再びアルヴァントに注ぎ始めた。

 これでも一度身に着けてしまった魔力とアルヴァントの魂は消え去りはしない。だが、身に余るようなものをアルヴァントに返してしまえばこれ以上、身心を侵食されることもない。

「暗き奈落の底に眠るアルヴァントの魂よ。我が名を聞くがよい。我が呼び声は迷宮の出口を教えるアリアドネの糸である。現世での情熱を思い出し、今一度現したまえ」

 杖を掲げるとサンドラに宿った膨大な魔力が再び空中に魔力の渦を生み出し、今度こそ、アルヴァントに吸い込まれていく。

「肉体はここにあり、この渦を息吹とせよ。過去の想いにより血潮をたぎらせよ、命の炎よ……宿れよ」

 自分の中で暴れ狂っていた力が、サンドラの明晰なる思考を赤く塗りつぶしていた魂が、少しずつ薄れていく。

 紡いだ言葉によって魔力は流れでて行き、アルヴァントと消えていく。

「さぁこい、さぁこい……」

 地響きが生まれると同時に、腐った汁が時間をさかのぼるようにしてアルヴァントの肉塊を遡っていく。

 それを確認するとサンドラは魔法陣から下がり、投げ捨てた竜の牙や角に急いで符を張り付けた。

「おいでませいっ!!」

 おぉおぉおぉおぉおぉおぉおっ!!!!!!

 邪竜アルヴァントの空気を震わせる咆哮が響いた。

 それと同時に符を張られた牙が次々と形を変えて、小さな竜の姿を取る。

「さすがに魔力まで差し上げて一人でドラゴン退治などという暴挙はしとうございません」

 魔力と魂を返還するということは、アルヴァントを復活させるに相違ない行為だ。

 出来得る限り牙や角など相手の攻撃の源となるものはそぎ落として、魔法生物としてこちらの戦力に変えてはおいたが……勝てる自信は正直あまりなかった。ただ公算としては何もせず都にかえって酷い目に合うよりかはまだマシだった。それに賭けるしかないのだ。

「行きませいっ」

 サンドラの号令の元、牙から生み出された小竜7体、爪から生み出されたリザードマン型の竜10体、角から生み出された中型の竜2体の19体の魔法生物が、本来の主に向かって突撃していく。

「シャアアアアアアア!!!!」

 空気が震えるような唸り声と共にアルヴァントが立ち上がりざまに、鋭く尾を振り回した。

 その薙ぎ払いだけで小竜3体が吹き飛び、粉々になって消えた。残るはちぎれた符とバラバラになった骨片だけ。

 さすがにこれにはサンドラも蒼白になった。

「やはり無理がありましたかね」

 死ぬ公算はどう転んでも同じような気がしてきた。

「ええい、それでも私として死ぬ方が断然マシっ」

 サンドラは剣を引き抜き、突撃するとリザードマン型が踏みつぶされる瞬間を狙って背後に周り、その尾を一刀両断で切り裂いた。

「都で占いの諸準備ばかりしているモヤシとは違うのでございますよ」

 巫王の予言で災厄の芽を摘む仕事は、もうかれこれ10を超えた。海中にまで臨んで魔物を退治したこともある。戦闘経験だけでいうならサンドラはこうした戦いも決して苦手ではない方だった。

 切り裂いた尾の断面にすぐさま符を張り付けて念を込める。

「烈火陣!」

 爆炎が符から吹き上がり、アルヴァントを背後から焼きしめた。

 バランスを保てなくなったアルヴァントはもう一度尾を薙ぎ払ってサンドラを排除しようとしたが、尾がなくなった今、単にぐるぐると回るに過ぎない。

 その隙を見てリザードマンが脚を、中型竜が腕に飛びついて牙を立てて、それぞれの部位かみ千切った。

「よっし。これでダルマでごさいますねっ」

 尾を切り離し、手も足ももぎとった。これでいかな強力な竜と言えども攻撃手段がもうない。後はじっくり……。

「ンギャアアアアア!!!」

 そのアルヴァントが転がった。

 小山のような体格のそれは転がるだけで、リザードマンをことごとく飲み込み、メシメシと粉砕する音ばかりが響く。ついでに尾についた符がまだ燃え盛る中で転がってくるのも恐ろしい。

「ひぇっ、反則でございましょうっ」

 加えて顔をこちらに向けて、大きく口を開ける姿を見て、サンドラは慌てて横っ飛びに回避する。

 同時に闇色のドラゴンブレスがサンドラの元いた位置を吹いた後、辺り構わずブレスを動かす。それに巻き込まれた中型竜は途端に符が変色して散り散りになってしまい、仮初の身体を得ていた竜の姿も元の牙に戻ったあとバラバラに崩れ去ってしまった。

「腐食のブレスでございますか。もう地獄の使いそのものでございますな」

 手も足もないのにこの脅威。

 サンドラは逃げ惑いながら、次を打つ手に詰まっていた。符の魔術で防御し、隙を見つけては剣で切りつけているものの、アルヴァントの巨体における剣の一撃など皮膚を切り裂いている程度だ。致命傷にはとてもならない。

「ええい、人の身体の軟弱なこと……もう少しマシな体なら、その心の臓を一撃で貫いてやったものを」

 少しばかり残した竜の力だけでも、いくらでも戦えそうではあるが、意味のない戦いを続けるのは正直御免だった。

 と。

 自分の独白にサンドラは寒気を感じた。

 自分は人間だ。なのにどうして「人の身体の軟弱な」と呟いたのだ?

「侵食か……」

 くつくつと笑う自分がいるような気がした。

 そんなに気にすることじゃあない。お前さんとはもう死ぬまで同居人なのだからよ。

「冗談じゃない、冗談じゃありません! 私は私ですっ」

 サンドラが悲鳴を上げた。

 だが、一瞬でも警戒が内向きになったことは、戦闘中では大変まずい出来事だった。

 内臓が弾けそうになる衝撃が体を襲い、サンドラは数メートルほど吹き飛んだあと地面に転がった。

「アルヴァントめ……」

 体当たりを食らったと気づいたのは少し後だったが、全身に強烈な痛みが走って、息すらできなくなる。

 骨が折れたか。

「オオオオオオオオオォォォォ……!!!」

 アルヴァントがのそりと首をもたげた。

 そのまま押しつぶしてしまおうというのだろう。

 動け、動けと自分の身体に命令するも、サンドラの身体は全く言う事を聞いてくれない。

 あーあー、こんなところで死ぬのかい。人間ってのはダメだね。そうだ。俺に主権をよこしなよ。もう少しらしく戦ってやるぜ。その後はなあの肉を食らって、竜の力を回復させよう。

 内側のアルヴァントが囁く。

 この身体の主導権を寄越せよ。そうすれば一気に逆転してやろう。

 しかし、そんなことをしても、どちらにしてもサンドラの死は変わらない。肉体の死か、精神の死か、どちらを選ぶのかということに変わりはなく、生き残るのはアルヴァントだけなのだ。

 サンドラは茫然と首をもたげるアルヴァントを見上げていた。

 その背景は、雲一つない空。儀式にたどり着いた時は真夜中であったが、眼前に広がる空は藍から薄紫、橙へと美しいグラデーションを作り上げていた。天儀官として巫王と共に眺めた月と暁星、そして炎星、水星、闇星が十字に並ぶ星の配置は大いなる変化と審判の時を示している。

 その真下で瞬く虹色の輝き……。

 サンドラの目の焦点はやがて振り下ろされるアルヴァントではなく、その頂上に輝く虹色の輝きに集約されていた。

「あれは……星?」

 虹色の輝く星、しかもあんな巨大な星は聞いたこともない。

 あれは星の世界にあるものではなく、この大地の上に浮かぶ空にある何かと仮定すると、出てくるのはたった一つ。

 それ一つで都市を浮かべ、あらゆる竜をも従えたという。そう。『あらゆる竜をも従えることができる』虹水晶に違いない。

 そうだ。今日は、審判の日。

「我が名において命ずる。風よ!!」

 符帳を数枚千切ると、束ねている符帳の方を放り投げてサンドラは叫んだ。

 一枚の符がサンドラの言葉に反応して吹き荒れる風となると、繋いでいた紐を断ち切って、符をバラバラにそして高く舞い上げていく。

 符同士が連携すれば、はるか遠くまで魔力を作用させることができる。無尽蔵の魔力を蓄えるあの水晶までサンドラの詠唱を届けることも……。

 ははは。賭けるか。俺に力を賭ければすぐさま解決だってのによ。

 せせら笑うアルヴァントの声を無視して、サンドラはゆっくりのしかかる腐竜の姿に消えつつも、詠唱を止めなかった。

「それは我が命たり。それは我が祈りなり。雨雲よ、にわかに沸き起こりて、天の悲しみを体現せよ」

 腐った汁だ垂れ落ちると同時に、風が真上から落ちて空気を圧迫していく。

 すべてが影に包まれるような感覚に陥っても、サンドラの心の目は天空に広がる暁の空と、そして七色に輝く虹水晶に向けられていた。

「雷鳴よ、にわかに鳴り響いて、天の怒りを体現せよ!」

 間に合わない。

 詠唱の道具として振りかざした剣の切っ先がアルヴァントの重量がかかる。

「灰燼と化せ!!!」

 次の瞬間、世界が光の中に消え去った。

 雷が竜をうがち、わずかにな隙間からも烈光が差し込み、世界から色を奪っていく。それほどの強烈な光の後、重くのしかかったアルヴァントの身体もまた、色と同じように光に呑まれて消えていった。

 俺の力なしでこんなことができるって……マジか。

 体の中のアルヴァントが驚いているようだった。

「ふふ、魔術を舐めてもらっては困ります。人間の身体一つだけでは使える能力は竜に劣りますが、反魂の儀式のように人か集えば、竜も世の理をも超えることができるものでございます」

 剣の切っ先にはあの虹の星があった。

 符を全て使って魔力の糸を天空まで飛ばしてつなげれば、あの巨大な知恵の結晶。古代魔法王国の人間の魔力すべてがつながるそれにアクセスすることだってできる。

 すげぇじゃねぇか。その力と俺の力があれば、お前は無敵だぜ。

「お前様を従えるのも難しくはございませぬ」

 サンドラは一枚の符を自分の額に貼り付けて、ふっと溜め息をついた。

 魔力が自分の心の波風を収め、たぎる血の熱情を冷めさせると、内なるアルヴァントの声も小さくなる。

「ゾンビみたいでみっともない姿ですが……いたし方ありますまい」

 こんな術で抑えきれるものか。いつか俺の力が必要となるぜ。まあ、それまでの間、付き合ってやるよ。

 どうせすぐでございますよ。

 サンドラはバックパックから筆で、残った最後の符にさらりと滑らせた。


『巫王様 災厄が生まれることは御命の通り果たしました。一身上の都合によりしばし休暇をいただきたく候 天儀官サンドラ』


 書きあがった符を折りたたんで、折り鶴にしたてるとサンドラはふっと息を吹きかけた。

 それは生き物のようにしてはばたき始めると、朝焼けの空に向かって飛び立った。

「虹水晶を使えば体内の竜の血アルヴァントも捨てきることができましょう」

 世界を炎に包んでしまいかねないと言われる魔力の結晶、虹水晶があればそれも難しくはないだろう。

 もちろん、それが世界の『災厄』となって現れる可能性もあるにはあったが。それはそれ。

 自分が生きる道が他にないのなら世界を敵に回すのもやぶさかではない。

「さぁて、あの空まで、どうやって駆けましょうかなぁ」

 翼を生やすか? それとも魔術で飛翔するか。俺の力が必要か。

 語り掛けるアルヴァントの言葉を鼻で笑いながらサンドラは歩き始めた。

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