その日の来るまで

弐逸 玖

その日の来るまで

「最近。調子、悪いよな?」

 言われるまでもなく。

 最近は上手く空気が吸えていない、とは自分でも思う。


 話はそこだけに留まらず、そうなら。

 当たり前だが上手く走ることもままならない。


「俺には何も出来ないし。見て貰おうか……」

 当然に見てもらうならお金がかかる。

 彼にはこれ以上、私のために出費させるのは不味い、とは思う。


 きっともう長くは無い、とは最近自分でも思う。

 今の症状を誤魔化しても、その後のことだって。

 私はきっともう、長くは無い。

 必要以上に、私にお金を使うことなど無い。

 

 それに、彼はただの文系大学生。

 私をどうにかするような技術、そんなものがある道理が無い。



 ……確かに彼との付き合いは長い、と言って良い。

 彼と初めて出会ったのは今から約二〇年前。

 私の方が約二年“お姉さん”、と言うことになる。




 ある日。彼と初めて出会う約一年前。

 具合の悪くなったお母さんを連れたお父さん。一緒に、急遽病院へと行った。

 病院から出てきた彼女が、青い顔はそのままに。

 お父さんと一所に、にっこり微笑んで手を繋いでいたのを覚えている。


 その後。定期的に何回か。お母さんは病院に行った。

 お父さんが一緒の時も、一人の時も、私は一緒に行ったものだ。


 だんだんお腹が目立ってきたお母さんは、いつも苦しそうで、青い顔で。

 それでも、楽しそうに病院へと向かった。



 ある日。

 突然、駐車場の前に白いワンボックスが止まり、中から白衣とヘルメットの人達が飛び降りて、お母さんを連れて行ってしまった。

 サイレンと、そして赤く明滅するランプ。

 救急車の仕事ぶり、それを初めて目の前で見た日だった。


 その日以来、お母さんの姿は見えず、お父さんだけがたまに病院へと向かった。

 その時も私は一緒に行ったものだ。

 お母さんには、しかしだいぶ長い間会えなかった。


 だから、小さな“荷物”を抱えてお母さんが病院の玄関を出てきたとき。

 本当に嬉しかった。

 その時、お母さんが持っていた荷物こそが彼である。

 そう、その日。ようやく、私は彼と出会ったのだ。



 そんな出合いであったから、小さい頃の彼はたいそう身体が弱く。

 なので週に一度はお母さんと病院へと向かった。

 幼稚園を卒園するまでの彼については、だから病院へ向かう姿しか覚えていない。

 


 ただ、小学校になった頃から始めた水泳。

 そのせいもあってか、その頃から急に身体が丈夫になった。

 病院通いはめっきり頻度を減らし、その代わりに水泳教室への送り迎えが増えた。


 行くときはお母さん、帰りはお父さん。私は一緒に彼を送り、迎えた。

 お父さんと一緒に帰り足、コンビニに寄ってパンとコーヒー牛乳を買って貰う。

 自動ドアをくぐる彼の嬉しそうな顔は、今でも覚えている。



 さらに四年生になったときから始めたバスケットボール。

 これは本当に才能があったようで、五年生にはもうレギュラーになった。

 そうなら週末ごとに練習や試合があって。

 私はお父さんと一緒に、市の体育館や県民競技場へと足を運んだ。もちろん彼を試合会場へと送り届けるために。


 その合間を縫うように、彼はお父さんと一緒に連れ立って魚釣りへと行った。

 手先が器用な彼は意外にもお父さんを超えるような釣果をあげることもしばしばで。

 お父さんは夕暮れの中、道具を片付けながら。

「やれやれ、お前にはかなわないな」

 と、そういったのを覚えている。


 夏休みや、学校がお休みの日にはお母さんに付き合ってお買い物。

 彼が大きな袋をカートから降ろして、

「僕が積むから良いよ、お母さんはカート戻して来なよ」

 と、お母さんに微笑む彼の姿からは、貧弱で、ちょっとしたことで熱を出してお父さんとお母さんを心配させた小さな男の子。

 そんな姿など、もう想像できなかった。


 バスケットボールの試合では隣の県まで遠征にも行った。

 その時は私だけで無く、彼の友達も一緒の時が多かった。

 スポーツ少年、と言うことで多少覚悟したものだが。

 でも、やんちゃではあったがみんな礼儀正しく。

 背は大きいものの乱暴なわけでも無く。良い子達だった。


 その試合の帰り、みんなで肩を寄せ合うようにして眠る彼ら。

 そこだけ不釣り合いに子供に見えて。

 とても可愛く思えたものだ。



 一方彼は、その頃から自転車で何処にでも出かけるようになり。私は彼と行動することが減った。

 お母さんはスーパーに買い物に行き、お父さんは日曜日になると朝早くから釣りへと出かけた。私はこの二人に付き合った。

 彼とはどんどん距離が開いていく気がした。




 彼が中学生になると、年に二回の里帰り、そして年に一度の家族旅行。

 これにも同行しなくなった。

「友達と約束があるんだ」

 ――と。


 しかし、お父さんとお母さん。二人共少し微笑んで。

「良いよ」

 とだけ言った。


 沢山の車の並ぶ田舎の大きな家。やはり彼と同世代の子供達は少なく、お父さんとお母さんは、実家へと足を運んでも早々に帰ってくる事になった。


 旅行へ行って山の上、スマートホンのカメラを向けるお父さんのディスプレイの中に彼の姿は無く。


「僕も中学くらいからは家族と一緒に何処か行ったり、しなくなったなぁ」

「男の子ってそうみたいだね、でもさ。私。高校の頃も、ばぁばとお買い物に行ったりしていたけどな」


「ま、男ってのはそんなもんなのさ」

 お父さんはそう言って頭をかき。

「そんなもん、なの? ……私には良くわからないなぁ」

 お母さんはそう言って、でも笑った。




 高校になると、彼の相棒はバイクになった。

 私が彼と一緒に行動することはすっかり無くなり。

 日曜のお父さんの魚釣りには私だけが付き合った。

「自分の子供が成長するってのは、嬉しい反面。寂しいもんだなぁ。同じ趣味の友達を失った気分だ」

 釣った魚をスマートホンで撮影しながら、でもお父さんはちょっと嬉しそうだった。

 

 当然。お母さんがスーパーに行く頻度は変わらず、でも荷物は増えた。

「私の料理のせいで背が伸びない、なんて言われたら困るからね。食べたいだけ食べて上にも横にも、伸びたいだけ伸びれば良いのよ」

 そう言ってお母さんはいつものように、笑った。



 あるしんしんと雪の降りしきる冬の日、朝とは言えまだ暗い中。

 青ざめた彼と、慌てたお父さんが連れ立って出かける。

「大丈夫だ。バスどころか電車がとまってても、この時間なら十分に間に合うから」

 ラジオから流れるのはいつもの番組では無くて、バスや電車の運休や遅れ情報。

 そして繰り返しているのは、試験の開始時間。

 

「でも、親父……」

「部長様を舐めるなよ? こんな日のためにエラくなったんだよ。――今日の僕は休みだ! さ、行くぞ。忘れ物、ないな?」


 彼は第一志望の大学の試験に間に合った。

 そしてお父さんは、彼と別れると近所のホームセンターの駐車場で。

 スマートフォンを取り出すと、見えない相手に頭を下げて。

 約一時間の間、何カ所も何カ所も。電話をかけていた。




 彼が大学生になって暫くしたある日。

 お父さんと彼が私の前に立った。

 お父さんは、ポケットからキィホルダーを取り出すと大ぶりのキィを外して。

「初めはコイツで良いだろ、もっと良いのが欲しかったら後は自分で買え」

 そう言って“私”のキィを渡した。


「親父はどうすんだよ?」

「明日納車になるって言ったろ? 今日からコイツはお前の車だ」

 私はその時をもって、彼の所有物になった。

 そして次の日から。お父さんの言葉通りに駐車場には同僚が増えた。




 ――貴女はスピードが出るの?


 数日後。

 隣に並んだ彼女にもう聞かずには居られなかった。

 だって、あのお父さんが選んだ子なのだ。


 私より一回り小さい見た目ではあるが。

 その見た目に反して過激な子なのかも知れない。

 だってまさに私が、そう言う理由で選ばれたのだから。


 そうならば言っておかなければ。

 お父さんに、あまりスピードを出させてはいけない。

 私は知っている。この二十年ちょっとで三回も。免許停止になっていることを。

 最近はほんのちょっとだけ、動作が遅れるときのあることを。

 けれど。


 ――多分スピードは先輩より出ます。でも安全性の方が大事なのだと。お父様は当初からそう言っておいででした。


その分野では、古い私に勝ち目は無い。確かにそうだ。 


 ――先輩。まだ、わたくしはお世話になって浅いのですが、そのようなタイプの方には見えないので、安心していたのですが。

 

 そう、お父さんだってわかっていた。

 危ない運転なんか、するわけが無い。

 私程では無いにしろ、お父さんも。

 ゆっくり、でも確実に歳を取った。きちんとわかっているはずだ。


 ――聞いてみただけ。もちろんそうでは無いから安心して。貴女の最新の装備で、お父さんとお母さんを守ってあげてね。


 私がそれ以上何かを言う必要は、もう無かった。

 だってもう、私が守ってあげることはできないから。


 ――はい。


 ――ありがとう、お願いね。


 良い子が来てくれた。さすがはお父さん、見る目がある。

 この子になら安心して、大事なお父さんとお母さんを任せられる。



 彼女が来た次の日から。

 私は、釣りに付き合うことも、買い物に付き合うことも無くなり。

 全面的に彼と行動を共にすることになった、それが二年前。




「ふうん、アイドル聞いてる限りおかしくないけどなぁ。――あ、確かになんかフケ悪いっすね」

 車好きの彼の後輩が遊びに来ていた。

「ちょっとだけ触って良いっすか?」

「まだまだ乗るつもりなんだから、壊しちゃ困るぜ?」

 そんなやりとりの後、私のボンネットが開く。

 そして数十分が過ぎた。


「おぉ? 良くなった。なんでだ?」

「今んとこ、悪い部分外した姑息療法ですけどね。でも、すぐに壊れたりするようなとこじゃないから大丈夫ですよ。さすが高級車は作りが違うや。来月の車検の時、この紙に書いた通りに言ってくれたらディーラーでもわかりますから」

「サンキュ、助かる」



 空気が吸いやすくなった。

 姑息療法、と言った以上。

 いったんは元に戻ってしまうのだろうけれど。


 でもこれなら、多分まだ。もう少しなら。

 彼が私よりマシな車を買える様になる、その頃まで。

 せめて、それまでは走らなくては。


 彼と一緒に、もう少しだけ。

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その日の来るまで 弐逸 玖 @kyu_niitu

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