四の四 暴走

 かつて、大狼は一度【修羅】に堕ちた存在だった。【鬼ノ腕】は【修羅】の側で活動していた際に授かった代物だ。

 【鬼ノ腕】は邪気を司る【修羅】の象徴である。そもそも邪気とは怒りや悲しみ、憎しみといった負の感情を糧に生み出されるものだ。

 神職が使うのが神力であるならば、【修羅】が使うのは邪気。その二つは対の存在である。

 さて、奏恵が《斬月鬼》を屠ることだけを考えて右腕――【鬼ノ腕】に集中させていた神力も、「敵を殺したい」という負の感情によって生み出されたエネルギー。たとえそれが神力だったとしても、負のエネルギーは邪気に換えやすい。

 そのため、奏恵の憎悪は知らず知らずのうちに【鬼ノ腕】に力を蓄えさせていたのだ。

 その封印が解かれてしまうほどの強大な力を――。


 ◇ ◇ ◇


 束の間の静寂を破る音が鳴った。

 靄が消し飛び、《羅生紋》が姿を曝す。

 だが、それは柚葉の知る《羅生紋》の姿ではなかった。

 真紅だった瞳は漆黒に染まり、ボロボロの外套は剥がされていた。その下に隠れていた亀裂の入った鎧から赤いガス状の炎を噴出させ続けるその様は地獄から蘇った亡者のようである。

 そして何より、彼の右腕は黒く硬化した鉤爪に変化していた。左腕と見比べても明らかに歪な形をした異物。それこそが封印されていた【鬼ノ腕】の正体だった。


 ――うおおおおおおおおおおおお……!


 満月に牙を剥いた鬼はまるで孤高の狼のように哭く。辺りを震撼させる咆哮は近辺のガラス窓を砕き、電線に過度の熱を与えてショートさせる。町全体を襲う局地的な停電に人々はパニックに陥った。


「カ……ナ……?」


 未だ動けない《舞秘女》の中で柚葉は言葉を失っていた。親友の身に何が起こったのか理解できなかった。ただ、これだけはわかっていた。


 ――あの《羅生紋》はやばい!


 頭ではなく脳がそう警告してくる。


「ハハハハハッ、ようやくお目覚めかよ大狼ィ!」


 だが、《斬月鬼》の中の虎鉄は違った。変わり果てた《羅生紋》の姿に怖気づくどころか、友達と数年ぶりに再会した子供のように悦んでいた。

 《羅生紋》は虚ろな眼でその姿を見つめた。そして彼に向けて右手を伸ばし、掌を翳して、


 《斬月鬼》の背後で爆炎が燃え広がった。


「え……?」


 突然の出来事に柚葉は眼を見張った。

 町が燃える。そこは住民がほとんどいない工業地帯だが、被害は決して小さくない。避難が間に合っていることを切実に祈るばかりだ。


「おいおい、まさか暴走してるのか?」


 燃え盛る背後に視線を送りながら、虎鉄は呆れたように言い放った。

 刹那、《羅生紋》はガスの尾を引きながら《斬月鬼》に飛び掛る。右の鉤爪で頭を鷲掴み、地面に叩き付けた。

 それまでは全力を出しても倒せなかった《斬月鬼》の巨体をいとも容易く組み伏す程のパワーが【鬼ノ腕】によって発揮されていた。

 その鉤爪が邪気を纏って加熱する。溜めたエネルギーを接触状態から放つつもりだ。それを喰らえば頭は確実に消し飛ぶことになる。《斬月鬼》は《羅生紋》の身体を強く蹴り上げた。《羅生紋》はバランスを崩してよろめき、鉤爪を頭から離した。


「チッ、全力のお前をぶっ殺さねえと意味がねえんだっての……興が冷めちまったぜ」


 獣の如くなおも襲い掛かってくる《羅生紋》を適当にあしらいながらぼやいた虎鉄は《斬月鬼》をその場から消した。すると中にいた虎鉄はいつの間にか《舞秘女》の近くの電柱の上に悠々と立っていたのだ。


「まさか逃げるの?」

「このまま勝ってもつまらねえ。安心しろ、また近いうちに殺り合える。ま、貴様らがここで力尽きなければの話だがな」


 それだけ言った虎鉄は高笑いをしながら消え去った。

 色々と腑に落ちないが、何にせよこれで敵がいなくなった。だから《羅生紋》の暴走も止まるだろう――しかしその考えは甘すぎた。

 《羅生紋》の空虚な眼差しが次の標的を発見した。それは《舞秘女》。建物の瓦礫に挟まって動けなくなっている彼女は絶好の獲物である。


「ちょ、ちょっと、嘘でしょ……!」


 一歩一歩、アスファルトを踏み潰しながら巨大な鬼がにじり寄ってくる。

 とても恐ろしい姿だ。今の自分では――否、これから経験を積んで歴戦の戦士になったとしてもこれには勝てないと直感する。そう思わざるを得ないだけの性能差が二体の間にはあった。


 片や触れずして爆発を巻き起こす怪物。


 片や特別な力のないマニュアル操縦のロボット。


 これだけ見れば同じ世界に存在しているのがそもそもおかしいと思うだろう。

 でも、それは柚葉が戦いを放棄する理由にはならない。

 それ以前に、大切な人が鬼の中に囚われている以上は、彼女を助けるために戦う選択肢しか選べない!

 操縦桿をガチャガチャと動かし続けていて、ようやく手応えを感じた。

 エンジンが掛かった巨体が機動する。

 迫る鬼を眼前にして、《舞秘女》が再び立ち上がったのだ。


「カナァァァーッ!」


 大地を蹴り、跳び出す。後先なんて考えていない。ただ《羅生紋》の肩に掴み掛かって、必死に呼びかけた。


「こんなの全然カナらしくない! いつもの優しいカナに戻ってよ!」


 だが、《羅生紋》は右の鉤爪で《舞秘女》の腰を穿ち、払い除けた。《舞秘女》の身体は宙を舞い、地面の上に墜落する。


「くそっ、やっぱり聞こえないのか!」


 《舞秘女》を起き上がらせながら柚葉は作戦を考える。呼び掛けても聞こえていないなら機体を止めるしかない。だがこの《舞秘女》で正面から斬り合うのはあまりにも無謀だ。糸や鎖のような物でぐるぐる巻きにするのはどうだ。そんな装備はこの機体に存在しない。では海まで誘導して沈めれば。そんなことをすれば奏恵が溺れてしまうし、そもそもこの近辺に海がない。

 無い知恵を振り絞っても柚葉の頭ではこの状況を打開する術など思いつくはずが無かった。普段から考えるのは奏恵の仕事で、柚葉自身は肉体労働が主だったから。

 そうやって沸騰しそうなほどに頭を悩ませていると、柚葉のポケットの中からアラームが鳴り出した。スマホの着信音だ。こんな時に誰だろうと急ぎ確認してみると、画面には「カナのお父さん」と表示されていた。慌ててその着信に応じる。


「も、もしもし?」

『良かった、繋がった。剛三さんから聞きました、今青い機体に乗っているのが柚葉さんなんですね?』

「そ、そうですけど……いや、そんなことより、今、カナと《羅生紋》が大変なんです!」

『【鬼ノ腕】による暴走を起こしているんですね』


 やけに話が早いな、と驚くがそんなことを気にしている場合でもない。柚葉は圭悟の言葉に耳を傾けた。


『このままだと君自身は愚か、町全体が危ない。それに【鬼ノ腕】に力を与え続けている奏恵の身体も持たなくなってしまう。そして、最悪の場合は組織が動くことになる』

「組織って、【修羅】関連の事件をもみ消しているやつ?」

『はい、その組織です。《羅生紋》を危険分子と判断した場合、彼らは《羅生紋》を殺しにくる。多くの犠牲を払ってでも確実に殺すでしょう。そうなったら、奏恵は助からない』


 振り絞るようにそう告げる圭悟の声は震えていた。自分の大切な一人娘が理不尽に殺されるかもしれない未来を想像するのが恐ろしいのだろう。


『だから、どうかこの場で彼女を助けてほしいんです。これはあなたにしか頼めないことなんです。重い責任を押し付けることしかできない不甲斐ない僕らを、どうか許してください』

「……不甲斐なくなんかないですよ」


 柚葉は静かに答えた。


「娘のことを一番に心配して、苦しんで、それで出した結論なんでしょ。だったらおじさんは立派なお父さんです」

『柚葉さん……』

「そのお願い、確かに聞き届けました。カナはあたしが絶対に助けます。だから、どうか待っていてあげてください」

『……ありがとう』


 圭悟の声は相変わらず震えていた。だが、今のそれは恐怖からではなく、嗚咽を堪えるための震えだった。


「……まあ、肝心の止め方がわからないんですけど」

『昔の《羅生紋》を知っている人から聞いた話によると、【鬼ノ腕】を解放している間は『闇』が中の空間を包み込んで外の声がまったく届かなくなるらしい。でも震動とか衝撃は感じるから、それで揺さぶりをかければ奏恵も目を覚ますかもしれない』

「結局戦う必要はあり、と……」


 そこだけはどうしようもないようで、柚葉は深くため息をついた。


『あと、暴走しているのは中にいる巫女の精神的な問題だから、深い縁のある人間が何らかの手段で声を中に届ければ止められる可能性も――』

「! それだ、ありがとうおじさん!」


 そう言うや否や、柚葉は電話を切った。そしてすぐさま電話帳を開くと、そこから奏恵の携帯番号を選択し、


「お願い……!」


 発信ボタンをプッシュした。

 すると一瞬の間を置いてコール音が鳴った。電波は届いている。


 ――あとはカナが電話に出るまで機体を揺さぶり続ければ、いける!


 スピーカーをオンにしたスマホを胸ポケットに入れた柚葉は改めて操縦桿を握った。


「さて、今から相当な無茶をするけど、付き合ってよね《舞秘女》!」


 主の命に応えるかのように《舞秘女》は前に跳ぶ。バネを利かせた跳躍は疾風の如く《羅生紋》との距離を詰めようとする。

 《羅生紋》の右腕が唸りを上げ、急接近してくる少女に向けて真っ赤に燃える弾丸を解き放つ。《舞秘女》が身を翻してそれを避けると、地面に着弾した弾丸は大地を揺るがす衝撃と共に轟々と猛る火柱を打ち上げた。直撃していれば《舞秘女》の細身の肉体など木っ端微塵に消し飛んでいたに違いない。

 《舞秘女》が薙刀の長いリーチを活かして突撃する。

 すると《羅生紋》も鉤爪を突き出して正面からそれに応戦した。

 二つの武器がぶつかり合う。瞬間、鉤爪に圧された薙刀の刃は先端からひびが入り、次第に砕け散った。

 鉤爪は止まらない。その勢いのまま《舞秘女》の左肩に掴み掛かり、一気に熱を帯びていく。《舞秘女》はそれから逃れようとするが、鉤爪は微動だにしない。

 そして次の瞬間、《舞秘女》の左腕が空中に放り出された。充填された熱が掌を介して放出され、《舞秘女》の左肩を打ち砕いたのだ。


『損傷率三十五パーセント。左腕喪失。戦闘継続非推奨』

「ふざけんな! まだ右腕が残っている!」


 左肩を取られた衝撃で吹き飛ばされていた《舞秘女》の体勢をすぐに立て直し、愚直にも走り出す。

 放たれる弾丸を曲芸のように躱しながら懐に飛び込んだ少女は残された右手を伸ばし、《羅生紋》の左手を掴んだ。


「闇如きが、あたしからカナを奪うなァ!」


 左手をグイっと引っ張ると、それに釣られて《羅生紋》の体勢が崩れる。《舞秘女》は左の膝をどてっ腹にぶち込み、次いで右足で蹴り上げた。《羅生紋》を壁に見立てて後方宙返りをすることで攻撃と退避を同時に行ったのだ。

 だが、その程度で《羅生紋》が動じる様子もない。


『――お掛けになった番号はただ今電話に出られません。時間を置いてお掛け直しください』

「掛け直さなきゃ」


 奏恵のスマホに繋げようとしていた電話は結局時間切れだった。柚葉はすぐに胸ポケットからスマホを取り出し、再び奏恵の番号に繋げた。そしてコール音が鳴るのを確認すると胸ポケットにまたしまう。

 その一連の動作を行っている間は《舞秘女》を動かすことはできない。隙だらけの状態だ。《羅生紋》はそれを見逃さなかった。

 柚葉が操縦桿を握った時にはすでに、炎を纏った鬼がすぐ眼前にいた。


「しまっ――」


 巨腕が小柄な身体に容赦なくぶち込まれる。

 鋼鉄の少女は破片を散らしながら宙を舞った。


『損傷率六十パーセント。危険域突入』


 もう後がない。このままやられたらすべてが終わりだ。

 両足残って手は右だけ。薙刀は満足に振るえない。単純なパワー勝負でも押し負ける。相手のスピードはもはや目に留まらないレベル。

 このスペック差だけはどう足掻いても埋められない。

 だったらもう、最後の賭けに出るしかないじゃないか!


「うおおおおおぉぉぉぉぉ!」


 《舞秘女》が走り出す。操縦桿を握る手が震える。右手のブレスレットが音を立てた。

 次々に放たれ火柱を上げる弾丸を避けながら、《舞秘女》はボロボロの身体で走り続けた。


 そして、《羅生紋》の姿が眼前に迫るとバネを利かせて跳び出し、


 その身体に抱き着いたのだった。


 密着していれば、自分にも被害が出かねない大技を出すことができなくなる。それに向こうはこちらを引き剥がそうとするから、自然と揺さぶりを掛けることにもなる。だが、同時にこちらは相手の攻撃を避けることができなくなる。だから残りの耐久力でどこまで耐えることが出来るか。


 奏恵の意識を呼び戻すのが先か、それとも《舞秘女》が撃破されるのが先か。


 これが最後の賭け。一世一代の大勝負だ。


 突然飛び込んできた《舞秘女》を引き剥がそうと、《羅生紋》は肘鉄を浴びせる。すでに破壊されている左肩の断面がさらに凹み、メインカメラが備わっている頭部にも打撃が来る。


『損傷率六十五パーセント。メインカメラに異常あり』

「絶対に離すもんか、あたしの手はカナの手を繋ぐためにあるんだ!」


 メインモニターにノイズが走る。コクピット内で火花が散る。それでも離さない、離してたまるか。


「あんたがカナを守るんじゃなかったのかよ、大狼! いつも通りの正義感で使命を全うしろバカ!」


 損傷率六十八パーセント。


「カナもカナだ! お母さんがあんなことになって怒りたくなるのもよくわかる。でも、怒り方があまりにも雑! 普段から怒らないから慣れてないんでしょ!」


 損傷率七十二パーセント。


「いっつもそう。何があっても謝ってばかりで、反論のひとつもしない。そのくせ細かいことにうじうじ悩んで自分一人で抱え込む! 人に言われなきゃ相談もしない!」


 損傷率七十五パーセント。メインカメラ機能停止。サブカメラに切り替え。


「もっと自分を大事にしてよ、周りを頼ってよ! カナのことを大事に思っている人はたくさんいるんだから!」


 損傷率七十七パーセント。


「だから、何もかもを否定する闇なんかじゃなくて、みんなのところに……ううん、違うな」


 損傷率八十四パーセント。頭部喪失。レッドゾーン突入。脱出推奨。


「あたしは、優しいところも抱え込むところもひっくるめて、カナのことが大好き! 世界中の誰よりもカナを愛している! だから――」


 損傷率八十九パーセント。


「お願いだから帰ってきてよ、奏恵!」


 コクピット内のあらゆる機器が火を噴いている。サブカメラに切り替えたモニターも砂嵐にまみれて何も映らない。

 《羅生紋》の身体から引き剥がされまいと必死に抵抗したからか、柚葉の身体中にも打ち傷が生じていた。頭からは血が流れていて、視界がだいぶ安定していなかった。

 だが、そんな朦朧とした意識の中でもはっきりとしていることがある。

 機体を襲っていた揺れが収まっていた。


『……聞こえていますよ、ゆずちゃん』


 胸ポケットから声が聞こえた。闇に囚われているはずの奏恵の声だった。まるで泣いた後であるかのように上ずったその声は不安定な意識の中で心地良かった。


『そ、その、改めて名前で呼ばれるとなんか恥ずかしいですね』


 ――ああ、あたしのやったことは無駄じゃなかった。


 柚葉は愛しい声に耳を傾けながら唇を綻ばせた。


『助けてくれて……私のことを好きだと言ってくれて、ありがとうございます。でも、何もここまでボロボロにならなくたって良かったんじゃないですか?』

「前に、言ったでしょ……『悪意がカナを苦しめようとするなら、それから守るのがあたしの役目』、って……」

『ゆずちゃん……』

「だから、まもれて、よかった、な、ぁ……」


 そこまで言って、柚葉はコクピットの中でぐったりと倒れ込んだ。すると、柚葉の胸元の勾玉が透明な光を放つ。光は《舞秘女》の身体を内側から青白い粒子に換えていった。自分を抱えていた存在が消えた柚葉は空中に放り出され、ゆっくりと落ちていく。


「ゆずちゃん!」


 《羅生紋》の左手が彼女を受け止めた。ピクリとも動かない彼女の姿を見た柚葉は青ざめた表情で呼び続ける。


「嫌だ……返事をしてください! 私をひとりにしないでください、ゆずちゃん! ゆずちゃん!」


 少女の慟哭が木霊する。しかし、手のひらの上で眠る少女は目を覚まさなかった。


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