参の参 生首マンション
その日の夜のことだった。夕飯を食べ終えた大狼がクロスワードパズルに励んでいると、不意に何かを勘付いて顔を上げた。
「……【修羅】だ。近いぞ」
その一言に緊張が走る。だが、迷っている暇はない。すぐに行かなければ多くの犠牲者が出てしまう。
心配そうな父に見送られて家を飛び出した奏恵は大狼の案内の下、満月と街灯に照らされたほの暗い夜道を走り抜けた。
そうしてたどり着いたのは、マンションのエントランスの入り口だった。
「こ、ここにいるんですか?」
『ああ、この建物で間違いない。しかし、せきゅりてぃとやらが厳重だな』
マンション名は「クロムシティ」。十二階建てのこのマンションのエントランスにはキー認証が必要な自動ドアが設置されている。別の入り口にも鍵が必要となっており、それぞれの場所には防犯カメラもあるため侵入は容易でない。もちろん奏恵がその鍵を持っているはずもなく、このマンションに入ることは不可能だ。
「せめて誰かが開けてくれればいいのですが……」
『む、噂をすれば何とやらだ。人が来たぞ』
その言葉が終わった直後にやってきた女性が、奏恵のことを不思議そうに眺めながらも鍵を使って自動ドアを開いた。女性はそのままマンション内へと歩き、奏恵も急いでその後を追った。こうして幸いにもマンションへの侵入に成功したのである。
「それで、【修羅】の気配は何階からしますか?」
女性の姿が見えなくなるのを待ってから、奏恵は大狼に問いかけた。しかし大狼は「うぅむ」と歯切れの悪い返事をして勾玉の中から奏恵の正面へと出現した。
「一番気配が濃いのは四階だ。だが、実を言うとこの建物全体からまばらに気配を感じるのだ」
「建物全体から?」
「うむ。四階以外のそれぞれの階層からも僅かながら気配を感じる。まるでこの建物が【修羅】の巣窟であるかのようだ」
「そんなことがあり得るのですか?」
「【修羅】の在り方は多種多様。現世で語り継がれている【妖怪】や【伝承】の類はすべて【修羅】が基となっていると言ってもいいだろう。故に、建物だけでなく都市ひとつを支配するモノさえ在る。いずれにせよ油断はするな。吾が守るとは言え、いつどこから襲われるか判らぬからな」
「は、はい!」
この場に柚葉がいなくてよかった、と奏恵はホッと胸を撫で下ろす。自分がこれから敵陣の中に突入することに不安はあるが、柚葉を巻き込まずに済んだことが奏恵にとって一番の安心なのである。
二人は階段を使って四階を目指した。エレベーターは密室のため、襲われた時の逃げ場がないからだ。
しばらくして二人を乗せたエレベーターが四階に到着する。廊下に出た二人が最初に目にしたのは先ほどの女性だった。二人が彼女の後をつけるように歩いていると、彼女は四〇七号室の鍵を開けて扉を開いた。そこが女性の住んでいる部屋なのだろう、そう奏恵が思った時。
「あの部屋だ!」
扉が開いた瞬間に大狼が叫んでいた。奏恵は驚きのままに駆け出すが、女性は二人のことを気にも留めずに部屋の中へと入ってしまった。
その直後に異変は起きた。
「キャアァァァーッ!」
女性が消えた四〇七号室の扉の向こう側から悲鳴が上がった。二人が扉の前に着く頃には悲鳴は無くなり、物音ひとつ聴こえなくなっていた。
「ここで待っていろ。何かあればすぐに逃げられるようにしておけ」
奏恵に指示を出した大狼はドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていない。ドアノブを捻ればあっさりと扉が開いた。
「すまない。異常事態と見受けたため、部屋に入らせてもらうぞ」
念のため偶然を装う演技をしながら、部屋の中に足を踏み入れる。彼の言葉に対しての返事はなかった。
部屋の中は電気が付いており、玄関口からでも中の様子が一通りわかる。そのため、正面に見える異常事態に気付くことは難しくなかった。
「奏恵。汝は来てはならぬ。部屋の中も見るな」
その言葉が意味することを奏恵は瞬時に理解した。「ひっ」と上ずった声を上げそうになりながらも必死に押し殺し、静かに彼の動向を見守ることにした。
大狼が見たのは、居間の中心に転がる女性の身体だった。しかし、その身体には頭がなかった。まるで肉食動物に噛み千切られたかのような痕を残して、首から上の部分は消えてなくなっていたのだ。元々頭があったはずの場所からは止め処ない量の血液がぶちまけられている。それ以外に傷らしいものはない。つまり犯人は頭だけを切り落として女性を殺したのだ。
正面から吹き付けてくる風が気になって顔を上げると、窓が開いてカーテンが揺れていた。窓から侵入・逃走したとしてここは四階。空を飛ばない限りはここからの出入りは不可能だ。
だが、頭を喰らい、空を飛ぶ、そしてこのマンション全体を支配出来得る存在を、大狼は知っていた。
かつて対峙した【修羅】の一。それは――。
「何かあったんですか?」
大狼が室内を探索している間に、騒ぎを聞きつけた一人の男性が奏恵に話しかけてきた。細目で温厚な顔立ちの青年だ。
「えっと、悲鳴が聞こえて……今私の知り合いが調べています」
「うわぁ、物騒だな。何事もなければいいんだけど」
「はい、そうですね……」
野次馬と言ってしまえばそれまでだが、彼が声を掛けてくれたことが奏恵の緊張を解すいい塩梅となっていた。
「でも、お嬢さんも気をつけないといけないよ。だって――」
だが、安息は束の間だった。にたりと口角を上げた男は大口を開けて――否、人の頭ひとつ分は丸呑みにできるくらいに顎をばっくりと裂いたのだ。
「こんな風に、いつ喰われるかわからないからねェ!」
優しそうだった男の顔が一転、鬼のような形相となって奏恵に迫った。
「そ、そんな……!」
その突然の変貌に奏恵は理解が追い付かず、ただ茫然とするばかりでしかない。
肥大化した頭が、大きく裂けた口が近くなる。
奏恵の視界は男の真っ赤な口内しか映さなかった。
今顎を閉じられたら、奏恵の首は噛み千切られる。
奏恵の頭は文字通り喰われてしまう。
――え、こんなにあっさりと終わってしまうの?
ただ無情に、奏恵はそんなことを考えていた。
そして、その両顎が思い切り閉じられた。
ガチンッ!
男が噛みついたのは左腕だった。
奏恵を守るべく跳び出した大狼の左腕だ。
対象を誤った男はすぐに大狼から距離を取った。
「無事か、奏恵!」
その声で奏恵はハッと我に還った。彼が庇ってくれなければ自分は今頃死んでいたに違いない。そう思うと、ゾッと背筋が凍り付く。そして無防備に敵の接近を許してしまったことがとても悔しかった。
噛みつかれた大狼の左腕には鋭い歯型が突き刺さり、その穴から赤い血が流れていた。
「大狼さん、腕!」
「構わん! それよりも、今は彼奴を!」
大狼は男の肩に掴みかかり、そのまま奏恵との距離を引き離していく。男は彼を引き剥がそうと抵抗するが、大狼はそれを許さない。
そして大狼は廊下に設置されている柵の向こう側へと男の身体を投げた。すると男は為す術もなく、吹き抜けの底へと落下していく。遅れて、ドサリ、という音が底から聞こえた。四階から落とされたのだから、常人であればただでは済まないだろう。
「な、なんで、今の人も憑依されていたんじゃ……!」
大狼は奏恵の非難にも構わずに腕を掴んで階段の方へと駆け出した。
「あの男はすでに死んでいた。【修羅】の犠牲となり、その亡骸を意のままに操られていたのだ」
「そ、それじゃあ、どうやっても助けられなかったんですか?」
「残念ながらそうだ。そして、この建物を支配する【修羅】の正体が判った。その名は――」
大狼が言葉を続けようとした瞬間、何かが吹き抜けから飛んできた。
それは球体をした影だった。しかし、それが目の前に飛来して来れば、その正体が否が応にもわかってしまう。
人の頭だった。それも、先ほどの男の頭。首から下は断絶された脊髄が辛うじてぶら下がっている程度だ。
そして、頭は他にもあった。奏恵と同じくらいの年齢の少女の頭、野球帽を被った小学生くらいの男の子の頭、白髪とシワが目立つ老婆の頭、そして四〇七号室で犠牲になった女性の頭。
その数、マンションの住民の半数以上。生気を失った生首が、至る場所から奏恵と大狼の姿を睨みつけていたのだ。
「――その名は、《
首喰らいの【修羅】・《轆轤首》。それこそがこのマンションを支配しようとする【修羅】の正体である。
「うっ……」
その惨状に奏恵は喉元に込み上げてくるものを感じた。しかし気をしっかりと保って、必死に呑み込んだ。
廊下を走り抜けようとする二人に向かって、生首共が次々に飛来してくる。あまりにも悍ましく、あまりにも凄惨な光景である。
「あまり直視するな。汝は吾が守る故、ただ走り続けることだけを意識せよ」
女性の生首が奏恵目掛けて正面から飛んでくる。だがそれが届くよりも先に大狼が蹴り飛ばした。人間の姿をしているとは言え【式機】の肉体だ。元々死体だったために脆くなっていた骨肉が潰え、壁に叩き付けられたその生首は黒く澱んだ血しぶきを上げて動かなくなった。
生首はそれぞれが肥大化している。頭部のみを効率的に喰らうためだ。だが、その一方でこちらの攻撃も当たりやすくなっている。戦うことだけにおいてならば、こちらとしても好都合だった。
とは言え、集団で襲い掛かられてはひとたまりもない。それに奏恵を守りながら戦い続けるのは無理というもの。
ならばどうすればいいか。この前のデパートの時と同じだ。場所を変えて戦えばいい。
「奏恵よ、先ずは階段まで行くぞ。そしてそこから飛び降り、この建物から脱出する」
「と、飛び降りる!?」
「大丈夫だ、吾を信じろ。とにかく今は走るのみだ」
次々に襲い来る生首共を薙ぎ払いながら、二人は階段を目指して走り続けた。
だが、その時にすれ違った四〇二号室の扉が突然に開いたのだった。
「な、何の騒ぎだ?」
そこに住んでいたのは、まだ《轆轤首》の犠牲になっていなかった住民だったのだ。小太りな中年の男性は二人の若者が目の前を駆け抜けたのを見送った直後、彼らの背後を追うモノの姿をはっきりと見てしまった。
「……え……高橋、さん?」
それは、隣の四〇三号室に住んでいた高橋夫人の頭だった。すれ違うたびに挨拶をして、たまに世間話をする程度には仲の良かった彼女の生首がそこにあった。
今朝のゴミ出しの時にだって、元気に挨拶をしたばかりだったのに。
その姿はいったい、どういうことなのか。
答えは出ない。彼女と目が合ってしまったから。
高橋夫人は目的を二人から男性へと変えた。
そして顎を真っ赤に裂いて、彼の肥えた頭に覆いかぶさり、
「ギャアアアァァァーッ!」
廊下を走る二人の背後から悲鳴と液体が弾ける音が聞こえた。奏恵は咄嗟に振り向こうとするが、
「振り向くな!」
大狼の喝によって思いとどまった。
ぶちぶちと肉がちぎれる音がする。肉食獣が獲物を喰らう音だ。二人の背後では今まさに、生首による食事が行われていた。
奏恵は唇をギュッと噛み締めて嗚咽を堪えていた。助けられなかった悔しい思いを胸に抱えながら、しかし自分のやるべきことのために前だけを見続ける。今の自分にできるのはそれしかないから。
階段はもう目の前だ。生首の多くがいる上階へは行けない。三階に繋がる階段を躓きそうになりながらも降りていく。
そして踊り場に辿り着いた。
柵から身を乗り出して地上を見下ろすと、そこそこの高度だ。無策に飛び降りればただでは済まない。
だが、大狼はここから飛び降りろと言う。確かに、四階と三階の双方から迫り来る生首を振り切るにはそれしかない。
「吾を信じて跳べ。そして命じろ、《羅生紋》の降臨を!」
大狼はそう言って姿を消した。奏恵の持つ勾玉の中へと戻ったのだ。
そうこうしている間にも無数の生首が迫っている。もはや躊躇っている時間はない。
踊り場の柵の上に乗り上げ、奏恵は跳んだ。
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