弐の伍 奏恵の覚悟

 大狼が《百目鬼》と戦っている間に奏恵たちも移動をしていた。目的地は駐車場だ。


「ねえ、何やってんのカナ!」

「あの【修羅】が逃げた後、すぐにでも追いかけられるようにするんです!」

「それって、あれと戦うってこと!? なんで、カナが戦う必要なんてないじゃない!」

「あります!」


 階段を駆け上りながら言い合う中、先を進んでいた奏恵は突然立ち止った。


「私は空鵞の巫女なんです。だから、戦わなければいけない」

「そんなの、大人の勝手な都合じゃん! それにカナだって、戦いたくないって、怖いって……!」

「確かに怖い、戦いたくない……でも、私がやらなきゃ、もっと多くの人が犠牲になる! それはもっと嫌なんです!」


 振り絞るように奏恵は叫び続ける。戦いを怖れる心、誰かが傷つくのを怖れる心、その二つの板挟みになった彼女は震えていた。

 だが、震えていても、目線だけはしっかりと前を見ていた。


「放っておいたら、いつかは私の大切な人たちが犠牲になる。学校のみんな、お父さん、それにゆずちゃんも……私が戦わなかったせいでみんなの笑顔が奪われるのなら、私は戦う!」


 それは、昨夜の時点でとっくに決めていたことだった。


 ――今度は自分が守る側になる!


 ずっと守られるばかりだったからこそ、奏恵はそう決意したのだ。


「……あたしはずっと反対だよ。カナが傷つく姿は見たくない」

「ごめんなさい、ゆずちゃん。でも、私」

「ん、いいのいいの。それがカナの選択なら、あたしはそれを応援する。そう約束したからね」


 奏恵の言葉の続きを遮った柚葉はあっけらかんと笑った。

 二人は駐車場に停めていた柚葉のオートバイの許へと辿り着いた。エンジンを掛ければいつでも出発できる。

 一階から消えた大狼が奏恵の持つ神霊勾玉を追ってこの場に出現したのはまさにその時だった。


「此処にいたか、二人とも。《百目鬼》はこの場から逃げた。しかし、彼奴の臭いはしっかりと記憶した故、追いかけることも可能である」

「わかりました。では大狼さん、道案内をお願いします」

「……いいのか。もう後戻りはできなくなるぞ」

「はい、覚悟はできました。私はみんなの笑顔を守るために戦います」


 強い眼差しだ。その奥底に宿る強い覚悟はもう何者にも揺らがされることがないだろう。


「承知した。ならばその覚悟に見合うだけの働きを約束しよう」


 それだけ言うと、大狼は奏恵の勾玉の中に消えた。


「……じゃ、さっさと行きましょうか。ほれ、乗りなさい」


 荷物をケースにしまった柚葉は奏恵にヘルメットを投げ渡した。


「ごめんなさいゆずちゃん、巻き込んでしまって……」

「気にしなさんな。みんなを守る奏恵をあたしが助ける。たったそれだけのことよ」


 言いながら、柚葉はオートバイのエンジンを噴かす。後ろに座った奏恵が自分にしっかりとしがみついたのを確認すると、すぐにでも動かせるようにハンドルを強く握りしめる。


『彼奴の臭いは左の方向に向かっている』

「了解。法定速度ギリギリで飛ばすから、しっかり掴まってなさい!」

「はい、お願いします!」


 そうして二人を乗せたワインレッドのオートバイが道路に跳び出した瞬間、風を切るような爆音を轟かせながら走り出した。




「……ようやく見つけたぞ、大狼ィ」


 その姿をデパートの屋上から眺める一つの影があった。それはレザージャケットを着た金髪の男だった。ピアスやチェーンなどのアクセサリーがガラの悪さを感じさせる。

 視線の先からオートバイの姿がいなくなると、男は苛立ちを込めて舌打ちをし、その場から消えた。


 ◇ ◇ ◇


 人間の足を遥かに凌駕する脚力で街道を駆け抜けた《百目鬼》が辿り着いたのは、町の外れにある桐花山の麓だった。草木が鬱蒼と生い茂るそこに人の気配はない。これまでにも強盗を繰り返してきた《百目鬼》が身を隠すのは決まってここだった。

 警察などはもちろん《百目鬼》が憑依している女性を強く警戒している。だが、未だにその潜伏先までは掴めていなかった。その理由を問えば、関係者たちはこぞってこう言う。「全身にノイズが掛かったみたいで姿を思い出せない」と。【修羅】の放つ邪気が人間の記憶領域に干渉しているためだ。その邪気に対抗できるのは同じく邪気を宿す者か、あるいは神力を宿す者のみである。

 そう、彼女を追い続けた空鵞の巫女もまさにその一人だ。


「い、いました、あの人です!」

「オーケー、止まるよ!」


 ブレーキが掛かってオートバイが止まる。そこから降りた奏恵はヘルメットを置くと前に踏み出した。そして視線の先に《百目鬼》の姿を捉えた後、声を張り上げる。


「止まりなさい、【修羅】!」


 その言葉に《百目鬼》は立ち止って振り返る。奏恵の姿を――そして彼女から感じられる神力を――認識した《百目鬼》は深くため息を吐くと、取り外したサングラスを投げやりに放り捨てた。その中に隠されていた紅の眼光が邪悪に揺らめき、奏恵を睨み付ける。


「さっきの【式機】の主か。ここまで追ってくるとはご苦労なことだな」


 その声は確かに女性の口から発せられていた。だが、同時に全く同じ言葉を発する男性の声が奏恵の脳裏に届いてきた。人智を越えた奇妙な感覚に奏恵は固唾を呑む。しかし、その程度で屈するほどの柔さはもう捨てた。


「その人と盗んだ物を返してください!」


 《百目鬼》は面倒くさそうに頭を掻く。そして奏恵の方に身体を向けると、両腕を左右に大きく広げて盗んだアクセサリーなどをぽとぽとと地面に落とした。


「別に構わない。この身体も、もう必要ないからな」


 予想外の反応だった。奏恵は拍子抜けした。

 だが、勾玉の中で様子を窺っていた大狼は違った。


『まさか、すでに肉体を造り上げるほどの邪気を集めていたのか!』


 その指摘は図星だった。大狼が驚いていることに気を良くした《百目鬼》は声を高らかにして笑った。


「その通り! この女を宿主に選んで半年……いやぁ、長かった。だが、貴様ら巫女に封印されていた時間よりはずっと短かったがな!」


 女性の身体から黒い靄のような物がじわじわと泡の如く滲み出る。そしてその靄が完全に抜け出ると女性は力なくその場に倒れ込んだ。

 黒い靄は空中に留まり続けながら渦巻き、その大きさを増していく。人ひとり、否、家ひとつを容易く呑み込めるほどの大きさになったその時、靄はひとつの形を造り上げた。

 山の中に一体の巨人が出現した。否、額から伸びた二本の角は人間ではなく鬼の象徴である。全身を覆う体毛は一本一本が鋭い刃。さらに両腕の表皮には九拾八の百舌の眼が生じ、それらすべてが足元の二人の少女を捉えていた。


 これこそが、掠奪の【修羅】・《百目鬼》の本当の姿である。


「宝石集めは終いだ。復活祝いに貴様の肉を喰らってやるわ!」


 《百目鬼》は血走った両目で吠えた。その咆哮で木々が揺さぶられ、留まっていた鳥たちが逃げるように飛び立った。

 その様子を大狼は鼻で笑う。


『狙い通りだ』

「ね、狙い通りって……」

『彼奴の邪気が充分な程に増幅しているのは先ほどの戦闘で把握できた。ならば、後は彼奴を調子付かせることで宿主から分離させ、直接斬れば良いだけのこと。ただ、あの場での戦闘は周囲にも甚大な被害が及んでしまう。だから場所を変えさせたのだ』


 そう説明する大狼の口調はどこか誇らしげであった。


『さあ、ここからが正念場だぞ、奏恵!』

「はい! ゆずちゃんはあの人をお願いします!」

「了解。絶対に帰ってきてよね!」

「うん!」


 二人はブレスレットを着けている腕を軽くぶつけ合った。ブレスレットの石が揺れて小気味良い音を立てる。

 そして柚葉が女性の身体を抱えてオートバイごとその場から離れたことを確認すると、奏恵は改めて《百目鬼》の姿を見上げた。

 大きい。足を動かされたらあっさりと踏み潰されてしまいそうだし、手に掴まったらそのまま口の中へと放り込まれそうだ。一寸法師は鬼の身体の中から攻撃をしたが、それが現実に通用するとは思えない。それに、そんなまどろっこしい方法を取らずとも、今の自分にはこの巨大な相手に立ち向かえる力がある。


『命じろ、《羅生紋》の降臨を!』

「……式機解放、《羅生紋》!」


 奏恵の叫びに呼応した神霊勾玉が真紅の神力を瞬かせる。

 その輝きは奏恵の全身を包み込み、稲光を轟かせて一体の巨人を出現させた。

 奏恵はその体内に転移し、巨人の身体に神力を循環させる。すると巨人の鋼鉄の肉体は紅の輝きを放ち、その姿を完全な形にした。


『さあ、覚悟するが良い』

「空鵞の巫女と羅殺の【式機】が、あなたを滅します!」


 鬼の骸の面を被った鎧武者。【修羅】を殺すための【式機】――《羅生紋》。


 鋼鉄の巨人は百の眼を持つ鬼の前に堂々と立ちはだかった。

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