弐の四 百目鬼
太陽が真上に昇った昼過ぎ。デパートを訪れる人の足は徐々に増えつつあった。特にデパートの入り口とも言える一階は喧騒に包まれている。
その中央付近に位置するジュエリー店を訪れた女がいた。白いワンピースで身を包み、帽子とサングラスを掛けた清楚な雰囲気を漂わせる黒髪の女だった。
彼女はショーケースの中に展示されている商品をひとしきり眺めた後、そのひとつであるパールのネックレスを指した。
「……これ、もっと近くで見れない?」
「はい、こちらのパールのネックレスですね。今お取りしますので少々お待ちください」
年若い女性の店員が眩しい笑顔を振りまきながらショーケースの裏側にある鍵を開け、ネックレスを台座ごと取り出すと客に見せるためにショーケースの上に慎重に置いた。
「こちら、一点限りとなっております。いかがでしょうか?」
店員はにっこりと微笑む。
だが、女がそれを見ることはなかった。
台座に載せられたパールのネックレスは瞬く間にその姿を消したのだ。
「えっ?」
店員が驚き、そして女を見る。彼女の右手にはそのネックレスが握られていた。
「ちょ、ちょっと、お客様!」
厳重な注意を呼びかけようとするが、それさえ間に合わない。
女の左腕が振り上げられたかと思うと、ショーケースに向けて叩き落とされたからだ。
「きゃあ!」
バリンッ、と激しい音を立ててショーケースのガラスが砕け散り、展示されていた商品が剥き出しになった。
突然の出来事に店員は腰を抜かして退いた。幸いにも店員の方に破片が飛んでくることはなく、怪我を負った様子もない。
そしてショーケースが叩き割られたことで警報がけたたましく鳴り響く。あらかじめフロアに配備されていた警備員たちが慌てた様子で駆け付けてきた。
しかし、彼らが辿り着いた時にはすでに多くの商品が女の手に収まっていた。ショーケースの中身はどれも万単位は下らない高額な商品だ。それらすべてをこの女はまとめて強奪したのだ。
事態の異常さに気付いたのか、他の客は皆逃げるようにその場から離れたり、あるいは安全な場所から事の顛末を見守っている。
「何をしている、やめなさい!」
他のジュエリーをも奪おうとする女の腕を警備員の一人が掴んだ。
すると振り向いた女が彼の顔を見た瞬間、
警備員の身体はショーケースに頭から投げ落とされた。
ショーケースはその体重に耐え切れずに押し潰され、もはや使い物にならなくなってしまった。割れたガラスが彼の頭をずたずたに切り刻む。ピカピカに磨かれた綺麗な床を彼の血が汚した。
そして、勇敢な警備員はぴくりとも動かなくなってしまった。
――大の男を片手であんなに易々と振り回しただと!
予想外の展開に他の警備員たちは動揺する。彼らの視線は自然と女の腕に注がれていた。
か細く、それでいて白く美しい腕だ。とてもショーケースを叩き割って中の宝石を盗み、ましてや男一人を軽々に倒すことが出来るとは思えない。
本来ならばそう認識しただろう。だが、そのような常識的な判断が通用する状況ではなかった。
女の腕を見ていた彼らは気づいてしまった。
彼女の腕の表皮が、もぞもぞと、まるでそこだけ別の生き物のように蠢いていたことに。
それは段々と可視化されていく。彼女の腕の表皮に出来物の様な小さな膨らみが次々に現れ、それらはぐるりと内側にひっくり返った。
出来物の内側から出現したのは、
そう、眼だ。ヒトの眼ではなく百舌の眼。無数の眼が女の腕に蔓延っていた。
それらの眼はぎょろぎょろと蠢き、自身を取り囲んでいる警備員たちを一斉に視認した。
その歪な変化を目の当たりにした人々の背筋がゾッと凍り付く。眼が合ってしまった人に至っては顔を背けてなるべくそれを認識しないようにしていた。
しかし、今ここで彼女を止めなければ警備員としての勤めを果たせないことになってしまう。
だから、彼らは恐れる気持ちを押し込めて果敢にも飛び出した。使える武器は警棒くらいだ、いざとなればそれで何とかするしかない。あとは警察本隊が到着するまでの時間を稼げれば――!
そんな思惑を胸に女に掴みかかった瞬間、彼らの身体から鮮血が飛び散った。
一瞬の出来事だった。女の爪が刃のように鋭く尖り、警備員の装備している防弾チョッキを容易く貫通して彼らの肉体を直接切り裂いたのだ。
痛みを感じるよりも先に驚きが生じる。だが、女の変化に気付く暇はなかった。
女の左手が近くにいた警備員の顔を鷲掴みにし、そのまま床に叩き付けた。
頭蓋骨にひびが入る。床が陥没する。手が離された時、苦痛に歪む顔は血に染まっていた。
女は止まらない。鋭い爪を振りかざし、あるいは己の四肢のすべてを用いて、警備員たちを蹂躙する。
骨が砕ける。
血が舞う。
肉が潰える。
純白のフロアは真っ赤に染まった。
◇ ◇ ◇
悪党から人々を守る正義の警備員が、為す術もなく一方的に屠られる様は衝撃的なものであった。
民衆がどよめき、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
四階にいた空鵞奏恵と新稲寺柚葉もまた、一連の光景を吹き抜けから見下ろしていた。
そしてその二人には、その女がただの人間ではないことがわかっているのだ。
「もしかして、あの人も【修羅】!?」
「そうだ。【修羅】にも種類がある。あれは人間の肉体に憑依することで自らの肉体を形成するほどの邪気を集めようとするモノだ」
人波を掻き分けて二人に合流した大狼が一階で暴れている女を指して答えた。
憑依した人間の欲望を悪しき行いで満たせば、その宿主は強い邪気を発生させる。それは【修羅】の肉体を造り上げ、ひとつの個体としての彼を顕現させる要因となるのだ。
「じゃ、じゃあ、あの人自身は被害者ってことですか?」
「それは吾らには与り知らぬことだ。だが、人間に憑依したままの【修羅】を滅するのは難易度が高すぎる。少なくとも、今の奏恵では不可能だ」
「なら、どうすればいいのさ!」
食ってかかる柚葉への返答を、大狼は言い淀んだ。
実際のところ、人間に憑依した【修羅】を滅するのは簡単だ。憑依されている宿主を殺せばいい。【修羅】の思念体は宿主の生命力に依存しているため、人間が死ねば【修羅】もその後を追うことになる。無論、【修羅】自身もそれを知っているため、宿主の身体から脱出するだろう。そうなってしまえば、宿主だった人間が死ぬだけである。
それ以外の手段もあるが、それは神職の中でもごく一部の人間しか扱うことができない高等技術だ。昨日今日で戦いを知った奏恵には到底不可能である。
しかし、手をこまねいている場合でもない。
「い、いやあああああああ!」
民衆のどよめきの中にひと際大きな悲鳴が上がった。先ほどのジュエリー店の店員が腰を抜かしたまま動けなくなっていた。
女がその声の主の方を向いた。返り血に染まる服を気にする様子もなく、彼女は店員に向かって一歩、また一歩と着実に歩み寄る。このまま捕まってしまえば何が起こるか、その想像は難くない。
「ダメ、このままじゃ……!」
目の前で繰り広げられた光景は、まさに昨夜起きたであろう悲劇と同じだ。
それを、力を手にした今も、見過ごすと言うのか?
「――ッ、大狼さん!」
奏恵が叫ぶ。直後、大狼は荷物を二人に預けてその場から飛び降りた。
「彼奴をこの場から追い払う。そこから先をどうするかは汝が決めろ!」
これ以上の犠牲を見たくないという彼女の願いを叶えられるのは大狼のみ。そのために彼は一階へと降り立ち、即座に駆け出したのだ。
そして店員を庇うように立ちはだかると女の腕に掴みかかり、その動きを止めさせた。
大狼の突然の登場に驚いた女は声を荒げる。
「その気配……貴様、人間ではないな!」
「然り、吾は空鵞に仕えし【式機】! 《
逃げ遅れた店員から距離を離しながら、大狼は《百目鬼》と拳を交える。
しかし、【修羅】が憑依しているとはいえ、相手は人間だ。本気を出せば間違って殺してしまうかもしれない。それは奏恵が望むことではない。
ならばどうすればいいか。宣言通りにこの場から追い払えばいい。そのための要因が今、揃った。
デパートの外で鳴り響くパトカーのサイレンが近づいてきた。通報を受けた警察が出動して来たのだ。
「チッ、警察か」
その音を聞いた《百目鬼》は戦いの手を止めると、ヒールを脱ぎ棄てて裸足で出口に駆け出した。
そしてわき目も振れずに窓ガラスを突き破り、そのまま一目散に逃げ去ったのだった。
その背を見送った大狼も【式機】の特権を使ってその場から瞬時に消え去った。
「……あ……え……?」
一人その場に残った店員は呆然とそれを見つめていた。
それから間もなくして警察が突入してきた。しかし、その時にはすでに嵐が過ぎ去った後のような乱闘の跡が残されているだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます