弐の弐 大人たち
柚葉が去ったリビングに静寂が残る。食器の片づけを終えた圭悟が大狼に麦茶を差し出すと、彼はそれを一口飲んだ。
「……良い娘だな、奏恵も、柚葉も」
「ええ、まるで本当の姉妹のように仲が良くて。柚葉さんになら、奏恵のことも任せられます」
長年の付き合いで積み上げられてきた信頼は厚さを声の中に感じながら大狼は静かに麦茶を飲み続けた。
今回の件を二人に説明するに当たって、圭悟にはある懸念があった。
それは「なぜ圭悟が《羅生紋》に乗らないのか」という当然浮かび上がるであろう疑問をぶつけられることだった。
その答えは単純なものだ。圭悟は《羅生紋》を扱えるほどの神力を持っていないからである。それどころか、【式機】の基盤となった【式神】さえも扱えないだろう。彼は間違いなく空鵞の血を引く者ではあるが、継承した神力は歴代でも最低であった。そのため、彼は《羅生紋》で【修羅】と戦うことができないのだ。
だが、奏恵と柚葉はそれを言及しなかった。「空鵞の人間であれば《羅生紋》を扱える」という説明だったため、圭悟が戦わないことについて違和感もあっただろう。それでも何も言ってこなかったのは、二人とも「戦いたくないから代わりに戦ってくれ」と言えるほど浅はかではないから。それは二人の無意識な優しさなのだろう。
「それでも、僕があなたに乗ることができれば、娘につらい思いをさせずに済んだ。それだけはひたすら悔しいばかりです」
「産まれ持っての性質故、こればかりは仕方のないことだ。だが、それ故にひとつ疑問がある」
「なんでしょうか」
「《羅生紋》となった吾の体内では、そこにいる人間のあらゆる機能を活性化させることができるのは汝も知っているであろう。柚葉が負った傷も、彼女の自然治癒能力を高めることによって完治された。だが、必要とされる時間があまりにも短かったのだ」
「想定よりも傷の治りが早かった、と?」
「然り。柚葉は神力を持ってしても十分は掛かるほどの重傷であった。だが、奏恵が吾との契約を交わした瞬間から、彼女の傷は見る見るうちに癒えていった。現に彼女は、戦いの最中で目覚めたのだ」
「つまり、奏恵の神力は従来の巫女たちを凌駕するものであると、そう仰りたいのですね」
大狼は頷いた。
戦いの中で奏恵が神力を発揮する機会は幾度もあった。扱いに関しては素人に毛が生えた程度であったが、彼女がその身に秘めた神力の強さをひしひしと感じていたのだ。
「奏恵の母親はどの血筋だ?」
「……奏恵の母、僕の妻は、
「博来……そうか、道理で」
博来は空鵞に次いで高い神力を誇る血筋だ。空鵞と同じく専用の【式機】を駆り、【修羅】との死闘を繰り広げてきた。
奏恵の持つ圧倒的な神力は、その二つの血が入り混じったことによってその身に宿ったのだろう。
「彼女は奏恵が幼い頃に亡くなりました。奏恵にはそう説明してあります」
「……そうか。言わずとも、理解はできる。汝の妻は己が使命を全うしたのだろう」
そう言った大狼は静かに目を閉じ、使命に準じた同胞へ祈りを捧げた。黙祷である。「安らかあれ」と願う彼の祈りは、果たして天へと届いたのだろうか。それを知る者は誰もいない。
「大狼様」
「む」
呼びかけられた大狼は顔を上げた。眼鏡を掛けた優男がそこにいた。
「奏恵のことを、どうかよろしくお願いします」
「承知した。奏恵がどのような選択をしようと、吾は彼女を守ろう。それが空鵞の【式機】である吾の使命だ」
頭を下げる圭悟に、大狼は変わらぬ仏頂面で返した。
◇ ◇ ◇
連絡遅くなってごめん! でも今日はカナのとこに泊まるから。
別に何にも問題なんて起こってないって。というかあたしがここに泊まるのなんていつものことじゃん。
ああ、そうだ。明日はカナと遊びに行くから、朝に服持ってきてよ。あと、できればバイクも。せっかく免許取ったのに、今乗らなきゃいつ乗るのよって話じゃん?
爺ちゃんが持ってきてくれるの? ありがとー!
……え、その代わりに次の薙刀の稽古は厳しくするって……せ、せめて慈悲はちょうだい、ねえ!
あー、はいはいわかったよ、仕方ない。……うん、家の人たちにもよろしく伝えておく。……うん、それじゃあおやすみー。
◇ ◇ ◇
翌朝、普通自動二輪車の排気音が空鵞家の前で止まった。一般にオートバイと呼ばれる内の一つであるそれは、傷ひとつないワインレッドのフレームと鋭い目つきが特徴的だった。
それをここまで運転して来た人物がヘルメットを外す。現れたのは白い髪と髭を生やした老齢の男性だった。鍛えているのかガッシリとした体格をしており、老齢と言ってもまだまだ血気盛んな様子。
名前は新稲寺剛三。柚葉の祖父である。厳つい顔をした彼は乗ってきたオートバイを道路脇に停めると、荷台に置いた紙袋を手に空鵞家のインターホンを鳴らした。すると間もなくして玄関扉が開き、孫娘が顔を覗かせた。
「爺ちゃん!」
「おう、言われたモン持ってきてやったぞ。菓子も入ってるから、そっちは家の人に渡しておけ」
「了解ー」
突き出された紙袋を受け取った柚葉は廊下を戻りながら中身を確認した。流石に男衆に触れさせるわけにはいかないため私服のチョイスは母親にお願いしたが、ちゃんと揃えてくれたようだ。袋の底に入っていたお菓子の箱を奏恵の父に渡すと、柚葉は着替えるために奏恵の部屋に入っていった。
その背を見送りながら、剛三はリビングルームに足を踏み入れた。
「ああ、剛三さん。わざわざありがとうございます」
「何、大事な孫娘が世話になってンだ、これくらい当然のことよ」
差し出された麦茶を受け取りながらリビングの中を見渡した彼はある一点でその視点を止めた。
その視線の先には銀髪の男がいたのだ。
「……大狼か」
そう呟く剛三の声のトーンは静かに、しかし重くなっていた。
「汝は剛三だったか、久しいな」
「ああ、そうだな。手前がいるってことは、昨夜はアレが出たってことか」
「然り。奏恵と柚葉をその戦いに巻き込んでしまったことは謝罪する」
「いや、空鵞と密接に関わっている以上、いつかはこうなると思っていたさ。だからオレとしちゃァ、ある程度の覚悟は出来ていた」
そこまで言うと、剛三は持っていた麦茶のカップをテーブルに置いて、大狼の前にずいっと歩み寄った。そして、
「柚葉を助けてくれて、ありがとう」
小さくだが頭を下げる彼の姿に大狼はただ頷くことしかできなかった。
そしてその一礼も一秒程度のもので、頭を上げた剛三は照れくさそうに目を逸らして白髪を掻いた。
「……これは単純な疑問であるのだが、こうなるとわかっていたのなら、何故柚葉を奏恵と関わらせ続けた? 汝の権限で禁止すれば、柚葉が巻き込まれることはなかったであろう」
「確かにオレや息子夫婦が禁止すればそれで事が済んだかもしれねェ。だが、たとえ親だろうと子供を完全に縛ることはできねぇンだよ。犯罪をやろうってわけでもないんだからよ、友達くらい自由に選ばせてやらねえとな」
「ふむ、そういうものか」
「ああ、そういうものだ。それに今のアイツらを引き離すなんて、それこそ人でなしだろう?」
二階の部屋の扉が解き放たれたのはまさにその時であった。元気な声が降りてきて、リビングに二つの顔を覗かせた。
「じゃ、そろそろ行ってくるから」
「む、もう行くのか。では吾も同行しよう」
「は? なんで大狼が来るの?」
「汝らの護衛を兼ねて、今の世俗を見て回ろうと思う。安心しろ、邪魔はしない」
「私は構いませんけど……」
カナがそう言うのなら仕方ない。柚葉は渋々と彼の動向に了承した。
だが、柚葉のオートバイは二人乗りが限度だ。彼が着いて来るのは難しい。家の外に出ながらそう告げると、大狼は二人の目の前でスッと姿を消した。すると、奏恵から彼の声が聞こえてきた。
『勾玉に戻った。これならば良かろう』
「戻れるんかいッ」
柚葉はツッコミながらヘルメットを着用した。そして奏恵にもヘルメットを寄越すと、シートに腰掛けた。
奏恵がヘルメットを被る様子を眺めながら、柚葉は呟く。
「……そういや勾玉って、カナの胸元にあるよね。てことは今の大狼はカナの胸に埋もれてるも同然と。ったく、スケベな」
『安心しろ、この状態の吾にはそういった実感がない。感触が伝わってこないからな』
「ほぉー」
「そ、それに私なんかよりもゆずちゃんの方がずっと魅力的ですから」
『否、個人的な趣向を言えば、奏恵の控えめな肉付きは非常に好ましい。一方で柚葉、汝は胸が大きすぎる。運動をするなら少し絞るべきだと思うが』
「誰もあんたの好みなんて聞いてないっての!」
なんというセクハラ発言だ。奏恵のペンダントに入っていなければ間違いなく殴っていた。
「わ、私は、ゆずちゃんの身体は大好きですよ!」
こっちはこっちでなんという問題発言か。フォローのつもりなのだろうが、流石に天然が過ぎるのではないだろうか。柚葉としては満更でもないが。
「ありがとう、カナ。でもね、その発言は誤解を招く。あと、カナもそのセクハラ妖怪に怒っていいんだからね」
『む、吾は妖怪ではなく【式機】ぞ』
「似たようなもんでしょ」
『むぅ……しかし、せくはら、か。先のような発言をそう呼ぶのだな。そして汝らはそれを不快に思ったのだろう』
「ええ、そうね」
「私は気にしていませんけど……」
奏恵が後部座席に座ったのを確認して、オートバイのキーを捻る。エンジン音が轟き、いつでも走り出せる状態になった。
『否、吾の不用意な発言を謝罪しよう。女性の身体的特徴を指す発言は相手を不快にさせる。以後、気をつける』
「あー、うん、まあ、別にいいけど」
バカ正直に真面目に返されてしまっては、怒る気も失せるというもの。柚葉もこの件については水に流すことにした。
「そろそろ出るよ。しっかり掴まってて」
ハンドルを握った柚葉が言うと、奏恵はその背中にギュッと抱きついた。
彼女の胸は確かに控えめだが、それでもしっかりとある膨らみの感触が柚葉の背中に伝わってきた。
その温もりを背に、柚葉はオートバイを発進させた。
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